九話
みしり
一歩踏み出すごとに、足下に薄く張った氷が、そんな音をたてて割れる。
カンテラの心細い光が、細かい破片を照らした。
灯りを掲げて広間―広間であったであろう場所―の奥に目を凝らすと、暗闇の中に何本もの円柱が、規則的な間隔で並んでいる。
ああ
この部屋も同じだ。
俺は知っている。並んだ柱に、同じく薄い氷がはりついていることも、その中にあるものも俺は―俺は、長く息をついた。
11年だ。
この国にミネルヴァと自ら名乗る侵略者どもが本格的に攻めこんできて、11年経った。
もっともその以前から小さな小競合いはあったのだから、それを除けばの話だが。
当時、両親を事故で失い、もともと名前だけの貴族だった俺達兄弟がが更に落ちぶれ、家も無くしてスラムをうろついていた頃から数えれば9年と少し。
その後シグルーンの一隊長に拾われて、軍に入ってから7年。
たいした後ろ盾もなしに、小隊を任せられるようになった兄貴の出世は、異例といえば異例なんだろう。
任される仕事が、とうの昔にミネルヴァが撤退した後の、荒廃した研究所の後始末というのは納得がいかないが。
特にここ数カ月はそれ専門といった体で、一線で戦うこともできず、奴らが残したものを只管に壊す、壊す、壊す。たまに珍しい物があれば持ち帰る。
俺はうんざりしていた。
壊す対象がこの“培養器”とかいうやつのときは尚更だ。
こいつの中身は―
とにかく、
とにかく、この部屋を片付けなければ、やらなければ、仕事は終わらない。
帰ったら兄貴の秘蔵の酒をしこたま飲んでやろう。十日ほど前に偶然見つけた隠し場所は、まだ変わっていないはずだ。
そう思いながら、手前にそびえる柱に近づいた。
厚い皮の手袋で薄氷を擦り取ると、白く濁ったガラスが顔をのぞかせる。
その中を、どういうわけか凍らないまま、液体が満たしていた。
緑色のそれは、なにか特殊な液体なのかもしれない。そう、奴らお得意の。
明かりを近付けると、黒っぽい物体がぐねぐねと漂っていた。
俺はそっと安堵のため息をついた。
よかった。
これは人体の形を留めていないから。
さっきのは酷かった。
思い出したくもない。
まだ新しい記憶の断片を振り払うかのように、俺は足早に次の培養器へと向かった。
何本という培養器を打ち壊す内に、どうやら次でこの部屋の培養器は最後のようだった。
持ち帰るのにめぼしい収穫はとくになかったが、俺からすれば寧ろそれは喜ばしい。
何か持って帰ったところで荷物が増えるし、あの魔女、エステラを喜ばすだけだ。
プリウェンの研究に使っているとか、建前ではそう言っているが、実際のところどうだか…。
なんだかあの女の私腹を肥やすのに貢献している気がしてぞっとしない。
―そういや、何年か前に土産にしたガキはどうなったんだっけな
ぼんやりと考える内に、柱の前に辿り着いた。
殆ど惰性のように、手袋で柱にこびりついた薄氷を擦り取る。
中をのぞくと、そこにはぶわぶわした黒い塊がある。
そう、予測していた俺は、視界に飛び込んできたものに驚愕した。
少女だ。
長い髪、白い裸体がゆらゆらと揺れている。
細身だが、ゆっくりとした起伏を描くからだに思わず息をのむ。
馬鹿な。
これは死体だ。
だが、死体と割り切ってしまうには、それはあまりにも―美しかった。
艶のある紫紺の髪、瑞々しい肌。優しげな顔立ちは微笑んでいるようにも見える。
だから少女の目蓋がうっすらと開いた時、俺は自分が妄想の中にいることを自覚した。
彼女の瞳が俺を捉え、たおやかに微笑む。
白い、細い指先がガラスに触れる。
瞬間、かなり分厚いはずのガラスに亀裂が走る。
妄想だ、すべて俺の。
しかし、亀裂が大きくなり、ひびになる。
その音で俺は我にかえった。
いや違う、これは
これが現実だ。
ガラスが破裂するように割れ、鋭い破片が降りかかってくる刹那、なんとか纏ったマントを盾に防ぐ。
いくつか大きな破片が刺さった手ごたえ。思わずぞっとする。
一瞬でも反応が遅れていたら……。
恐慌が去った気配に厚い革製のマントをおろすと、あたりには大小の破片が無数に散らばっていた。中に満たされていたはずの液体は、やはり蒸発してしまったのだろうか、姿を消している。
消えたのは液体だけではなかった。
少女は
あの少女はどこにいった?
ひたり
背後でそんな音がして、振り向く。
白い足。
裸足だ。
視線を上げる間も無く、身体が倒れこむように覆いかぶさってきた。
剥きだしの肩を掴んでとどめる。
ちょうど目の前にきた唇が、小さく動いてかたちをつくる。
あ
り
が
と
う
―ありがとう?
そのままこうべを垂れて力を失った少女の身体を慌てて抱きとめる。
触れ合った胸から、微かな鼓動が伝わってきた。
生きている。
この少女は
人間だ。
じゃあ俺が今さっきまでしてきたことはなんだ?
たたき割ったガラスは
破片の中に散らばった肉塊は?
―仕事だ
そんな声が胸の奥から聞こえた気がした。だが震えは止まらなかった。
隣で同じく仕事を終えた兄貴が、俺の帰りの遅いのを不審に思って駆けつけるまで、俺はずっと震えていた。




