狂人・月詠 ――静謐たる狂気――
『狂人・月詠』の四番目に当たります。
静謐たる狂気
私は一人、いつものベンチに腰掛け、風に吹かれていた。いつもより早い時間に来たせいか空が特別青い気がする。きっといつもここから眺めている空は夕暮れの数歩手前だからだろう。
今日は学校が午前の授業だけで終わった。学校側で何か用事があり、そのため生徒は午前の授業だけで早く下校しろとのことだった。興味がなかったので詳しいことは覚えてない。
とにかく、学校が早く終わろうと私には他の生徒のように特別はしゃぐ理由がなかった。余った時間を勉強に当てようと思うほど真面目でもなく、誰かと遊びにいくほど人付き合いもよくない。だから私はいつも通りここに来ていた。しかし、いつもとは少し違った。
隣に目をやるとそこには誰もいない。彼の定位置は空席で私はそのことを少しだけ寂しく思っていた。
(大学生だし……)
流石にこんな早い時間からいるはずがないと分かっていたが、心のどこかで期待している自分がいた。それほどまでに彼と共有する空間は私にとって居心地の良いものだった。
私は目を閉じて、風の音に耳を澄ませる。聞こえる音はいつもと同じはずなのに何だか違う気がした。やはり彼の存在感は大きいようだ。その時だった。
「涼子ちゃん!」
風の音を割り込んできた声に私は肩を震わせた。聞き覚えのある声に目を開いてその声の主の姿を探す。すると、予想通りの人物がベンチの前を通る小道を駆けてきた。
「やっぱ涼子ちゃんだ。学校はサボり?」
そう言って志倉さんはにやりと笑う。私は彼を見上げる姿勢で首を横に振った。
「午前中で終わったんです」
「あ、なーるほど。へへ、俺も実は休講になったから来てみたんだよね」
相変わらず感情表現が豊かな志倉さんはころころと表情を変えながら私の隣にどさっと座った。
もしかしたら月野さんに会いに来たのだろうか。そう思った私は彼の定位置に目をやりながら
「月野さんなら来てませんが……」
と言った。すると志倉さんは一瞬きょとんとした表情を見せて
「月詠?」
と聞き返すと次の瞬間にはけらけらと大口を開けて笑った。本当にくるくると表情が変わるなぁ、と私は感心する。生まれつき顔の筋肉が退化しているのか、あまり上手く感情を表に出せない私としては羨ましい限りだった。
そんな私に志倉さんは輝くような笑顔を私に向けると否定するようにパタパタと手を振った。
「違う違う。俺は、涼子ちゃんが来るんじゃないかなーって思って来たの!」
「……私ですか?」
予想もしなかった答えに思わず聞き返すと志倉さんは笑顔のままこくこくと頷いた。しかし、私にはその理由が分からない。なので首をかしげていると志倉さんは
「そ。もうちょっと涼子ちゃんと話がしてみたくてさ」
と言って優しい表情を浮かべた。それからすっと目を細めると、
「だってあのお月様が笑うんだもんな、涼子ちゃんの前だとさ」
とその場面を思い出したように微笑む。やはり志倉さんからすると彼の笑顔は珍しいようだ。
「お月様って月野さんのことですよね」
私がそうその言葉を確認すると志倉さんは微笑を浮かべたまま頷く。その目はどこか懐かしそうに遠くを見ていた。
「高校時代のあいつのあだ名のひとつ。月詠ってのはあいつが神がかり的だからってことで俺がつけた。で、お月様ってのはあいつのお高くとまった感じっつーか一人だけ俺らと違う次元にいる感じから俺がつけた」
「……どっちも志倉さんなんですね」
私がそう言うと志倉さんは少しだけ誇らしげに、まーねと笑った。誉めたつもりはないのだがあえて訂正することもないだろう。それに彼の名付けはどちらもなかなか的確だと思った。
その時、志倉さんはふと表情から笑顔を消した。そして、急に真剣な眼差しをこちらに向けてきたかと思うとおもむろに口を開く。
「……涼子ちゃんから見てさ、お月様はどんな月だと思う?」
「え?」
あまりに唐突で掴み所のない問いかけに私は眉間にしわを寄せた。つまり、月野さんを月に例えると、ということだろうか。しかし、どんな月と聞かれてもすぐに言葉が見つからない。そんな戸惑った様子の私に志倉さんは微笑を浮かべて
「じゃ、シンキングタイムね」
と言った。その言葉で私は本格的に思考の海へと沈んでいく。
月野さんを表すならどんな月だろうか。そう考えた時、彼の微笑が脳裏を掠めた。見えてしまうがゆえに人の生というものを達観したような微笑。それはまるで暗い夜空に浮かぶ儚い月のようだった。全てを見下ろしながら静かに寄り添う月。そう考えると彼がいないことの寂しさにも納得できた。
しかし、それを言葉で説明するとなると難しい。私は必死に頭を回転させ、持ち合わせている語彙の中から適切なものをふるい落とした。
「えっと……。夜、一人で寂しい時に見上げたら、こう、ほっとするって言うか、傍に居てくれてる気がするような月……?」
それが私の精一杯の表現だった。きちんと伝わったかは自信がない。しかし、志倉さんは苦笑を浮かべ、納得したように頷いてくれた。
「やっぱり?」
志倉さんの確かめるような問いかけに私が頷くと彼はがしがしと後頭部を掻く。そして、再び思い出し笑いをし始めた。
「やっぱりかーだよなー。月詠のやつ、君の前だと雰囲気変わるもんなー」
「そうですか?」
志倉さんの言葉に私は小さく首をかしげた。
それは私には分からないことだ。私はここにいる時の月野さんしか知らない。そう思うと不思議な気がした。
私の知っている月野さんとは違う、志倉さんの知っている月野さんがいる。その姿は私には想像がつかない。まるで、月野さんが二人いるように思える。
私の知らない月野さんは、志倉さんから見たその姿は一体どんな姿なんだろう。そう思った時、彼は遠くを見つめながら口を開いた。
「めっちゃ違う。だって俺から見てあいつは冷たい月っつーのかな。すっげー遠くにある寒々しい月みたいな感じがするからさ」
冷たい、遠い。その言葉に私は驚いた。きっと鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていたと思う。何故なら、そのどちらも私の知る月野さんには当てはまらない気がしたからだ。
彼は近くもなく遠くもなく、冷たくもなく温かくもない。中間地点に立っている人だと私は思っていた。だからこそ、私は彼と共有する時間が居心地よく感じるのだと思う。私がそう考える中、志倉さんは深いため息を吐いた。
「人に対して冷たい訳じゃないんだけどな。こう、価値観が特殊っつーか」
「ちょっと変な人ですよね」
眉間にしわを寄せる志倉さんに私が小さく笑みを浮かべながらそう言うと彼は笑みを消し、静かな湖面のような表情で首を横に振った。それから、まるで何てことないように
「あいつは狂ってるんだ」
と断言する。私は思わず目を剥いた。
確かに月野さんは少しどころか大分おかしいところがある。以前聞いたカルナディレやノーティスという不可思議な存在や目のことも、まともに考えたら変人の戯言にしか聞こえないだろう。しかし、彼の口から語られた言葉はどれも真実のように聞こえた。彼は彼にしか見えない世界を生きてるだけだ。狂っているわけではない。私は志倉さんの言葉に反感を覚えた。
「……月野さんは私たちには見えないものが見えるからそう思われるだけじゃないですか?」
知らない内に声のトーンが低くなる。志倉さんは驚いたように目を丸くすると困ったように笑った。
「涼子ちゃん、怒ってない?」
「……別に怒ってません」
そう、怒ってはいない。ただ『狂ってる』という言葉が耳の奥でざらついた。まるでそれは彼をこの世界の枠の外に追いやってしまうレッテルのように思えた。私はそれが嫌だった。
「でもさ、涼子ちゃん」
そう言って志倉さんは微笑を浮かべた表情を少しだけ辛そうに歪める。その瞬間、私の目は彼の目に釘付けになっていた。その目には月野さんに似た達観の色がわずかに見てとれたからだ。そして、そこに悲しみと優しさが同時に存在しているような複雑な色合いをしている。月野さんとは違う、だけど同じように引き込まれる目だった。
「あいつは狂ってなきゃ、今頃生きちゃいないと思うよ」
「え……」
予想だにしない言葉に私は言葉を失った。狂っていなければ死んでしまうということだろうか。私には志倉さんの言わんとしていることが理解できなかった。まるで今まで目の前にいた志倉さんは幻で、それが掻き消えて別の人物が現れたかのような錯覚に陥る。形容しがたい朝霧のような恐怖が私の心をそっと包み込んでいた。
「涼子ちゃんの言う通り、俺らに見えないものが月詠には見える。それは、誰かが傷つくところだったり、死ぬところだったりするわけだ」
淡々と紡がれるその言葉に私は恐る恐る頷く。彼が何を語らんとしているのかが怖い。志倉さんはそんな私から顔を背けると空を見た。その横顔は辛そうに歪むと同時に何かを睨み付けているように見える。その表情で志倉さんは口を開いた。
「……つまり、この世の誰よりも人の苦しむところと死を目の当たりにする」
「……それがどうして狂ってることになるんですか?」
その言葉の真意を理解できず、若干まだ声のトーンが低い私の問いかけに志倉さんは苦笑いを浮かべる。そして、小さく嘆息した。
「真っ当な人間だったら気が狂っておかしくなると思うよ。どいつもこいつも怪我したり死んだりで、それが自分にしか見えないんだからさ」
「あ……っ」
その言葉に私は目を大きく見開く。まるで後ろから鈍器で思いきり殴られたような衝撃といえばいいのだろうか。殴られたことがないので分からないが、きっとこれがそうなのだと思う。
今まで何を見てきたのだろう、と私は激しい自己嫌悪に陥った。志倉さんは全部見えた上で彼を『狂ってる』と評したのだ。私は志倉さんの評価を、大多数の人間から見て極端に異なる価値観を持った人間を排斥しようとする言葉だと勘違いしていた。志倉さんは彼が膨大でどこまでも肥大化する痛みと死を平然と抱えていることを狂気と見なしたのだ。
私は自分勝手な価値観でそれに反抗していた。なんて幼稚なんだろう。気付けば私の視線は地面に向いていた。
「狂ってるってのは訳の分かんねーこと口走る気違いばっかじゃないってことだよ。あいつはまともに見えて狂ってる。いや、まともに見えること事態がおかしいんだ」
志倉さんがそう言ってから私の頭にぽん、とその手が置かれる。温かくて、大きな手だ。
「……だからあいつが遠くにいる冷たいお月様なのはしょうがないと思ってたけどさ」
親しい人がいれば、その未来が見えてしまうことは恐怖となる。だから人と距離を置く。たくさんの痛みと死が見えてしまうから心が麻痺して無感動になる。だから冷淡になる。
それが私の小さな頭の出した彼が遠くて冷たい月である理由だ。しかし、私には一つ引っ掛かるものがあった。
「……でも、月野さんはやっぱり優しいんだと思います」
その声は情けないことにか細く震えていた。私はぎゅっと拳を握り締める。伸びてきていた爪が少しだけ肌に食い込んだ。
彼は優しい、その優しさが彼の言動の源なのだと私は思う。志倉さんへの忠告も、通りかかった人への突飛な発言も、彼が鳴らしたその人の未来への警鐘なのだ。
「……俺もそう思う。だからさ、涼子ちゃん」
優しい声が私の言葉を肯定して温もりが頭から離れた。顔を上げると志倉さんが穏やかな表情を浮かべていた。
「月詠の側にいてやって。あいつ、君の前だとほんといい顔すっからさ」
そう言って志倉さんは限りない優しさを帯びた表情で微笑んだ。多分、こういった表情を“いい顔”と評するのだと思う。
私に出来るのだろうか。私がそう思った時、聞き慣れた声が聞こえた。
「また来てたんだ。えーと佐倉君だっけ」
「……そーゆーケアレスミスはいらねーよ! 志倉! 志倉康だっての!」
彼の間違いを志倉さんは力一杯訂正する。見れば月野さんは自分の間違いを大して気にした様子もなく、私に微笑を向けていた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
退化し、眠っている表情筋を叩き起こして出来る限りの笑みを作って私はそれに答える。不器用な作り笑顔かもしれない。それでも私はこの月の隣ではもう少し器用に、素直な感情を見せていたかった。
……さて、これがこのシリーズのタイトル『狂人・月詠』の所以です。
月神としてはそろそろ彼らに出番をあげたいなー。