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作者: ホタル

だから僕は泣いた。

さなえがやって来たから。

泣いて、ああそうなんだって思った。

この瞬間を待っていたんだと。

「ごめんね」

さなえが謝ることなんてどこにも無いのに。

まるで迷子になった子供をあやすようにさなえは謝って僕に触れ、抱きしめ、頭を撫でた。

だから僕だって子供のように泣いた。ぐちゃぐちゃになって流れる涙は僕が求めていた人生その物だったんだと思うと余計に泣けた。

「さなえ、これだったんだよ」

さなえはうんうんと頷いた。


 いつからか何も求めていないと思っていた僕の人生は結局全てを求め、その浅はかな欲求で得られたものはとても小さく、乾いた小麦粉のように指の隙間からするするとこぼれ落ちた。僕は途方にくれ、ある日夕日を追いかけてみたけれど、僕が向かおうとすると道路があって、建物があって、果てしなく遠くて、簡単に僕をさす夕日をただ偉大に感じてやっぱり途方にくれて立ちつくした。

「すきって言って」

 そう言った彼女に好きだよと言ったら怒って泣かれた。

 友達にはばかだな。って笑われたから、僕もいっしょになって笑ったけれど、何が可笑しいのか解らなかった。いや、実際には解っていたのかもしれない。彼女が求めていたことを僕が気に入らなくて、それが彼女にとって拒絶を感じて悲しんだこと。そして、彼女が求めたものを解っていながら、それを与えないことを友達は笑った。

 彼女が求めたのは絶対的な安心感だった。彼女が冬の寒い部屋に置かれる炬燵のような安心感と、その上においてある甘ずっぱい蜜柑のような刺激を求めていることはいつだって解っていた。だけとそんな中、僕がしたいのは雪合戦だった。

 価値観の違いに彼女との関係は半年で切れた。

 もう彼女は作らない。 

 そう決心した翌日さなえとで会った。

 腐った林檎は美しい。とさなえは言った。

 腐っても存在するその存在が美しいと。

 そして、腐った林檎を捨てるのはいつだって余裕がない人間なんだ。と彼女は言った。

「私はね、感情ってもっとぐちゃぐちゃだと思うの」

 酔ったさなえが言った言葉に僕は頷いた。

「ほんとはもっとぐちゃぐちゃなのに、それがとても熱くて、熱くて熱くて触れるのが怖くて、一日一日が通りすぎていってしまう」

「ぐちゃぐちゃなことなんて、単純な言葉じゃ表現できないから」

 僕は何となく相槌をうってセックスをした。

 くだらないセックスをして、抱き合ったら、なんだかそれが心地よくて全てがどうでも良くなって一日中抱き合って眠りに着いた。世の中がくだらないとか、つまらないだとか、糞だとか、厭世的になるつもりは全く無かったけれど、重要なこととか、大切なものなんてけっこう些細でだけど繊細で、脆くて壊れやすくて、すぐ埋もれてしまう。だからこそ大切なのに、だからこそ、確からしさを求めてしまう。それが時には言葉や詩で、ある時には行動や表情で、またあるときは一輪の花だったりする。

「ほんとは社会だってぐちゃぐちゃなんだ」

 黒いコーヒーを淹れながら彼女が言った。ミルクは最初螺旋を描き、そして滲んで混ざり合うと黄土色になった。

「そうだね」

 実際そうだと思った。

 もっと暴力的で、欲望的で、狂気的なんだと。

「でも、それだけぐちゃぐちゃだったらここにコーヒーはなかっただろうね」

 そう言うと彼女は笑った。

「人はコーヒーを飲むために、聖書を作って、法律を作ったのかもね」

 三日間そんな話をして、抱き合って、コーヒーを飲んでさなえはいなくなった。

 朝目を覚ますと、隣で寝ているはずのさなえはいなかった。さなえの行動を縛る約束も何も無いのに、当然今日も明日もいると思っていたのに、さなえは突然消えた。

 僕はバイトを探した。

 さなえのいない毎日はただ目の前を通り過ぎる他人のように通り過ぎた。

 時給800円のバイト代は規則正しく振り込まれ、規則正しく所得税は取られ、規則正しくぼくは不味いコーヒーを飲んだ。

 一日一日は不毛にただぷかぷかと海に浮かぶ糸の切れた浮きのように流れた。

 ある日店長が驚いた。それは僕に対しての驚きで、気がついたら涙を流していた。

 冷たく流れる涙に僕はバイト先から逃げ出した。

 人はこんなにも簡単にこんなにも冷たい涙が出るものなんだと、それがまた悲しかった。

 きっとバイトはクビになっても、今日までの給料はやっぱり払われて、コーヒー代と生きていくのに何とかなるくらいのお金は手に出来るのがなんだかひどく悲しかった。

 たださなえに逢いたかった。

 ぐちゃぐちゃになるためには様々なことを捨ててしまうんだ。

 社会も、羞恥心も自尊心も、きっと全部捨ててやっとなれるのに、僕にはやっぱり出来なくて、小さな地図の上を右往左往するようにさまよった。

 お腹が空いても、何かを食べるために金を払うことになんだか罪悪感を感じて、なにも考えず、ただふらふらと歩き続けた。

 さまよった先に、さなえはいた。

 さなえがいなくなって三ヶ月が過ぎていた。

「さなえ」

 僕が言うと

「ひさしぶり」

 何事も無かったかのようにさなえは言った。

 僕はふらふらで、さなえはとても健康そうだった。

 さなえは絵を売っていたけれど、なんだかそれは自分の人生を切り売りしているように見えた。それがさなえの才能なんだと思うとただ切なかった。

 切なさは美しいと思うと、愛しくなった。感情は勝手に流れて、涙のように溢れるけれど、僕の存在はさなえに吸い込まれて空になって、こころは粉々に砕け散った。

 僕も絵が描けたらよかったのに、そうすればさなえへの想いが、表現できたかもしれない。だけど、僕は絵がかけない。

 いつの間にか僕はいつかのように夕日を追いかけていた。さなえが僕を呼んだけれど、僕の名前に意味は無かった。

 さなえが走ってきて、僕はさなえとキスをした。

 

なんとなくこんな感じのも逢ってもいいんじゃないかと思って書いた作品です。

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