誰かのおねえちゃんであれたなら
ぐぎゅるるる、と腹がなった。
乾燥でひび割れた少女の口よりもずっとお喋りなそれは、ひたすらにずっと空腹を訴えていた。
中身はとっくの昔にすかすかになった筈なのに酷く膨らんでいる気がして、少女はそっと自身の腹を撫でた。
手を当てている間は、ほんの少しだけこのどうしようもない苦しさが紛れる気がした。実際、手を離した矢先に先ほど腹がなった。だから少女は腹に手を当てる。朦朧とした意識の中でもやけに虚しく響く音を止めるために、腹の中にいる何かを、そっとあやすようにして。
そしてその仕草は、少女の知る母とその腹を膨らませていた産まれる前の弟を思い出させる。
もちろん、まだ年若い少女の腹の中に子供はいない。
もし何かいるとすれば、腹の虫だ。
少女があやしているものがそれだとするなら、存外腹の虫は寂しがりで甘えん坊だ。もう暴れ回る気力がないと悟るや否や、その体の持ち主に縋り付くのだから。
土埃が舞い、何かの焦げた匂いが終始漂っている。少女の肌はすっかり薄汚れて、髪には腐臭と陰気で乾いた空気が染み付いていた。
少女の口は乾ききっていた。それなのにどこかねばこくて、少女は時折口を小さくモゴモゴと動かしていた。
それは誰にも届かなかったし、自分自身にも聞こえないものだったけれど、少なくとも少女はこう言おうとしていた。
おかあさん、と。
母がいたことは覚えている。
優しく細められる目も、朗らかによく通る声も、覚えている。けれどそれはどこか薄くて白い布に覆われていて、手を伸ばしても掠るのは懐かしい記憶ではなく柔らかくも冷たいそれだった。
泣いたこともあった。だけど涙は長続きはしなくて、ただあぁとも何ともつかない声を喉から漏らすだけを繰り返すのは、酷く虚しいものだった。
だから、少女は泣くのを辞めた。
それにもう泣いても少女を助けてくれる人などいなかったし、助けてもらえるとも思っていなかった。
それでも、目を閉じる。心の何処かで誰かが自身を助けてくれることを願いながら、もう一度母と弟に会えることを望みながら。
ー・ー・ー
ぱち、と少女の目が開いた。
ふっくらとした頬ときらきらとした瞳が特徴的なただの女の子だった。家族、それも父も母も弟もいる普通の女の子だった。
外には今年初めの雪が降っていて、早く積もることを少女は心待ちにしていた。
少女はここが好きだった。
母の呼ぶ声がした。母は暖炉のそばで編み物をしていた。その近くには、温かそうな布に包まれてすやすやと眠る最近やっと首がすわり始めてきた弟の姿も見える。
少女は窓辺から離れて駆け出し、母に抱きつく。母もまた、少女を抱きしめた。
何を作っているの、と問いかけたら母は秘密だと悪戯っぽく笑った。少女もつられて笑ったが、母が今編んでいるのはきっと少女のためのものではないかとわくわくしていた。
少女は冬が好きだった。雪が降り積もる間は家族みんなで過ごすことができたから。
少女が覚えたばかりの歌を歌って、父がそのそばで手拍子をする。母が柔らかく微笑んで、弟が可愛らしい笑い声を上げる。
もう、戻れない。あの家には、帰れない。
ー・ー・ー
幸せだった。幸せという言葉の意味もよく知らなかったあの頃が、一番幸せだった。
ある日突然怖い人たちがやってきて、父は何処かに行かなければいけないと言う。おくにのため、と繰り返し繰り返し口にしていたのを少女は柱の影に隠れて聞いていた。
その日、母はいつもより豪華な食事を用意していた。父もいつもはお酒を飲まないのに、この日は何かが外れてしまったように飲んでいた。少女はただならぬ何かを感じ取ってはいたけれど、笑いながら過ごそうとしている父母を見れば、何があったのかと泣き喚くことはできなかった。
父は、大きな荷物を抱えていた。
お見送りにいくから、と母は弟をおくるみにくるんで少女の手を握った。父は反対側の手を握ってくれた。見たことのないようなかっちりとした服に身を包んだ父は知らない人のようだったけれど、こちらを見る目だけはいつも通りだった。
その服はあの怖い人たちが着ていたものと同じだと気がついた時、少女は恐ろしくなって父の手をぎゅっと握った。すると父も少女の手を力強く握り返した。
その後、父とは広場で別れた。握りしめていた手を離された時、少女はひどく泣きたくなった。母も、唇をかみしめていた。
母はそれから目に見えてやつれた。それでも、娘と息子を守るために必死だったはずだ。
少女は覚えていた。母が繰り返し言っていたことを。
弟を守ってあげて、と。
少女はおねえちゃんと呼ばれるのが好きだった。それに、上手くおねえちゃんをできていたら母も少女なことを褒めてくれた。もちろん、弟のことも好きだった。
だから少女の中にはいつも守るべきものと譲れないものがあった。それでも、果たしてこんな世の中でそれを貫き通せるのか。
その答えが今この状況だった。
母も弟も来ない。空から火と爆音が降ってきた時、母は少女に先に行きなさいと言った。弟は、母の腕に抱かれてぐったりとしていた。満足な食事もなくて、母から充分なお乳を与えられていなかったから。弟は笑うことも泣くことも、随分前に辞めてしまった。
少女は母の気迫に押されるようにして駆け出した。振り返ってはいけないと母にきつく言われていた。だから振り返らなかった。その結果がこれだ。
少女はずっと考えていた。おくにのため、と言うのならどうして私たちのために国はなにもしてくれないのか。何かしていると言うのならもう少しだけ、もう少しだけでいいから助けてほしかった。
ずっと同じ場所から動けないでいる。落ち合おうとしていた場所から、動けないでいる。
母と弟を求めて動かないでいたら、ついには動く気力まで失くしてしまった。今の少女が持っているのは、母からもらった手編みのマフラーと、身に纏っている衣服、そしてその身体だけだった。
少女は目を瞑って考える。母と弟は今どこにいるのだろうか。きっとそばにいるはずなのに会えないから、きっともっと遠くにいる父にはずっと会えないってことなのだろうか。
寝そべった土面には何もなくて、また腹の虫がぐるる…と、鳴いた。一体少女の代わりに、何を伝えようとしているのだろう。伝えられる相手など、ここにはいないと言うのに。
ー・ー・ー
と、少し遠くで小さなくしゃみが聞こえた。少女は驚きで目を見張る。
だれか、いるの…?と掠れた声で呼び掛ければ___声を出せているか不安だったが___しばらくして、薄暗いところから一人の少年がおずおずとやってきた。
寒いのか手を擦り合わせていて、少女を伺い見る目はどこか弟に似ている気がした。
少女はなんとか体を起こすと、震える手で手招きをする。少年が側によると、少女はふっと表情を緩めた。
決して、何か意図があってやった訳ではなかった。ただただ、少女は少年に笑いかけたかった。怯えきったこの少年に、笑ってもう大丈夫だと言ってやりたかった。
声は、出なかった。代わりに乾いた咳が喉を通り抜けて、少女の口から飛び出した。
少年が駆け寄る。震える手で少女の背中をさすると、その指で少女の服の裾をそっと掴んだ。
少女は肩で息をしながら、少年の方を見やる。体をずるりとずらせば、背中を預けていたところに真っ赤な血がこびりついているのが露わになった。
息を呑む少年に、少女は力なく笑いかける。なんとなく、もう立ち上がられる気がしなかった。
少女はゆるく瞬きをすると、腕をそっと動かした。腕を上げた途端背中に激痛が走ったが、今はそんなことに構ってはいられなかった。息を吐き出しながら、口をきつく引きむびながら、少女はそれを自身から取り外すとそっと少年の首に巻いてやった。
マフラーだ。少女の母親が編んでくれたものだった。
丁寧に結んで形を整えた瞬間、ぐらりと少女の視界が揺れた。地面に倒れ込んでいた。顔にめり込む細かな土の粒子と少女の肌の温度がどんどん変わらなくなっていくのを感じ取っていた。
視界の端で、少年がマフラーのフリンジをきつく掴んだまま口をわなわなと震わせていた。今にも泣きそうなのに一切瞳が潤まないのは、少女とそっくりだった。
少女は無理矢理笑う。体を動かすことすらままならないけれど、せめてこの少年の前でぐらい笑ってあげていたかった。なぜなら少女はおねえちゃんだから。
守れなかった弟と守りたかった母の姿を思い出す。そして、あの時母が言いたかったことを悟った。
いきなさい、と少女の口が動いた。それは小さく微かなものだったけれど、少年の耳にはしっかりと届いた。
少年はぶるりと一度身震いをした後、そっと少女の手を取った。そしてその手のひらを___もう冷えゆくだけのそれを___自身の首とも頬ともつかないところに押し当てた。
緩く脈打つそれは温かくて。
この時少女は紛れもなく、この見ず知らずの少年のおねえちゃんだった。
そしてまた、この少年は少女の弟であったし、誰かのおにいちゃんでもあった。
少年はどこか明るい方へ駆け出して行った。
ー・ー・ー
少年の気配が遠ざかってから、もうどのくらい時間が経ったのだろうか。目を開ける気力さえもなくなってしまったから、少女は目を閉じてじっとその場から動かないで、動けないでいた。
腹の虫も、もうすっかり元気をなくしてしまった。今は腹の奥にうずくまって、少女と同じように動かないでじっとしていた。
こんなに体が空っぽに思えて仕方がなかったのに、溢れてくる血の量に、少女は他人事にもひどく驚いていた。
どくどくと、無駄なほどに流れるそれは、少女の小さく汚れた身体を濡らしていく。先程まで止まっていた時間が、あの少年のせいで動き出したみたいに。
いや違う。あの少年の、おかげで。
少女はずっと考えていた。おにちゃんやおねえちゃんが弟や妹を守る存在だと大人達が言うのなら、どうしてお母さんのお兄ちゃんや、お姉ちゃんは、あんなに優しかったお母さんを助けてくれなかったのだろう。どうしてあんなに小さくて、まだ何も知らなかった私の弟を、誰も守ってはくれなかったのだろう。
たくさんのどうしてが体の周りを渦巻いて、それにあてられたように腹の虫もうるさくて。少女はうずくまったきり、動けないでいた。
それがどうだろう。あの少年が少女に触れてから。少女の目からはほんの少しだけ涙がこぼれ落ちていた。たった一筋。きっと誰も気づけないようなそれは、少女の薄汚れた肌を伝って地面に染みを作っていた。
少女は考える。
また動けるようになったら、家を作りたい。どんなものでもいい。広くても、狭くても、暖炉とみんなで入れる場所があれば、それでいい。
また、動けるようになったら…
広がる夢に嬉しくなって、少女は小さく息を吐き出した。そしてもう、少女が再び息を吸うことはなかった。




