もし、社畜が異世界の王子に転生したら
その日、私は絶不調だった。
朝、体温計は容赦なく三十八度を示していた。
風邪薬を飲み、栄養ドリンクを流し込み、それでも私は家を出た。
仕事を、休めない。
休めば次の日は、小言という名の処刑が待っている。
朦朧とする頭を無理やり働かせ、気力だけでその日の業務を終えた。
帰宅した記憶は曖昧だ。
玄関に倒れ込み、そのまま意識を失った。
次に目を開いたとき――そこは、見覚えのない天井だった。
柔らかすぎる寝台。豪奢な天蓋。
息をするたびに、良い匂いがする。
「……生きてる?」
かすれた声は、やけに若い。
起き上がろうとして、視界の端に映った手を見て理解した。白い。
明らかに、自分のものじゃない。
混乱が、遅れて押し寄せてくる。
――三十八度の熱で倒れたはずだ。
――会社から帰って、玄関で動けなくなって。
それなのに。
「殿下、お目覚めでございます」
そう呼ばれた瞬間、違う記憶が入ってきた。
どうやら私は、異世界に来たらしい。
しかも、第三王子。期待されない立場。
その事実を知ったとき、正直、自分はほっとしていた。国王じゃない。
責任は、重くない。
前の世界で、何度も見てきた。
全部を背負おうとして潰れた人間を。
「自分がやらなきゃ」と言い続けて、倒れていった同僚を。
そして――最後に倒れたのは、私自身だった。
だから、私は決めた。全部は、やらない。
やれることだけをやる。
やるべきことだけをやる。
やらなくていいことには、手を出さない。
王子という立場は、その選択を許してくれる。多分。
「殿下、こちらが今期の事業計画でございます」
差し出されたのは、分厚い書類の束だった紙の量だけで、嫌な予感がする。私は一枚目をめくり、すぐに閉じた。
全部読む気はない。
必要なのは、そこじゃない。
「予算は、どこだ?」
「え……こちらに」
示されたページの数字だけを見る。
予算総額。想定収入。支出予定。
――足りてない。
「この計画、止めて」
即答だった。周囲が、ざわつく。
「ですが殿下、これは王都整備の重要案件で……」
「既に各部署が準備を……」
「で、金は?」
静かに聞いた。
「……税収の増加を見込んでおります」
見込み。その言葉に、胃がきしんだ。
前の世界で、何度聞いたか分からない。
“見込み”という名の幻想を。
「確定じゃない、ってことだろ」
「それは……」
「じゃあ、赤字になる可能性がある。赤字になったら、誰が責任を取る?」
答えは出なかった。
私は、細かい政策の良し悪しは分からない。専門知識もない。だが、一つだけ分かる。
金がない計画は、必ず現場を壊す。無理な残業。削られる人件費。押し付けられる責任。
社畜時代、何度も見た光景だ。
「資金の裏付けが取れるまで、凍結で」
それだけ言って、書類を返した。
数日後。
「第三王子の判断で、計画は再検討となりました」
「結果的に、国庫を助けた形です」
そんな報告が、王宮に広まっていた。
今日も第三王子の執務室は、静かだった。
それはつまり、期待されていないということだ。
重要な案件も、派手な相談も、ここには来ない。
――だからこそ、余計なものが見える。
「殿下、新たな地方代官の任命について、ご確認を」
差し出された書類は一枚。人事にしては、やけに軽い。私は、名前より先に役職を見た。
地方代官。徴税と治安の責任者。
「……前任は?」
「汚職の疑いで、更迭されました」
なるほど。なら、次に見るのは一つだ。
「この人、誰の推薦?」
侍女が一瞬、言葉に詰まった。
「……王女殿下派からの、推薦でございます」
「じゃあ、問題が起きたら?」
「え?」
「責任、誰が取る?」
答えは、なかった。
私は人を見る目に、自信はない。面接官をやってたわけでもない。だが、一つだけ分かる。責任の所在が曖昧な人事は、必ず腐る。
前の世界で、何度も見た。
「推薦しただけ」
「決裁しただけ」
誰も責任を取らない構図を。
「任命状、まだ出すな」
「殿下……?」
「推薦者の名前を、正式書類に入れろ。問題が起きたら、その人にも報告が行くように」
それだけ言った。
「そんな前例は……」
「前例がないから、今こうなってるんだろ」
静かな声で返す。
私は改革がしたいわけじゃない。ただ、逃げ道を塞ぎたいだけだ。
数週間後。
「新しい代官は、慎重に職務を遂行しています」
「不正の兆候もなく……」
当然だ。後ろ盾の名前が明記されている以上、推薦者も、代官本人も、無茶はできない。
第三王子の執務室は、今日も静かだった。
私はその理由を、特に気にしたことがない。
呼ばれない。頼られない。それでいい。
机の上に積まれた書類も、数は少ない。
急ぎのものだけ確認して、あとは後回し。
昼までには、だいたい終わる。
「殿下、本日はこのくらいで……」
侍女がそう言うと、私は頷いた。
「じゃあ、散歩でもしよう」
私は知らない。
私の判断をきっかけに、
「第三王子派」と呼ばれる一団ができたことを。
私は知らない。兄王子が、
「無駄に動かない奴ほど、全体を見ている」
と評価を改めたことを。
私は知らない。
姉王女が、
「彼は、かってない方向の政治をしている」
と呟いたことを。
知っているのは、ただ一つ。
私は、前の世界で一度、壊れた。
倒れるまで働いた結果だ。だから私は、無理をしない。全部はやらない。
押さえるところだけ押さえたら、あとは任せる。
英雄にならなくていい。
天才と呼ばれなくていい。
生きていられれば、それでいい。
午後の日差しを浴びながら、私は歩く。
王宮の庭は、思ったより静かで、平和だった。
「……今日も、平和だな」
誰に言うでもなく、呟く。
倒れるまで働くなんて、絶体絶命のときにやるものだ。
少なくとも、今じゃない。
私は今日ものんびりと過ごす。
それが、この世界で選んだ、生き方だから。




