ダンジョン攻略授業 最終日 その7
最悪だ。
だが、立ち止まっている暇はない。
リオンは、強く息を吸い、思考を切り替えた。
カイルは倒れた。
それでも、終わりじゃない。
(……まだだ)
視線の先、尖った岩の群生。あの壁までは、あとわずか。
黒淵の獣蛇を、そこへ押し込む。
セリナの魔眼で動きを封じ、
陽翔の一撃で、核ごと叩き潰す。
そして、すぐに戻る。
(間に合う……まだ、間に合う)
そう、信じようとした――その瞬間。
前線で、異変が起きた。
「……っ」
シエラの踏み込みが、明らかに遅れる。
獣化した巨体が、わずかに、だが確実に揺らいだ。
「体が……しびれて……」
息を詰めた声。
「それに……ところどころ、動かない……」
リオンは、即座に状況を切り分ける。
(毒じゃない)
リュカオン族は、毒に対する耐性が高い。
多少なら、動きが鈍ることはあっても、
ここまで露骨に止まることはない。
――原因は、麻痺と石化だ。
耐性では、どうにもならない。
「リーナ!」
リオンは叫んだ。
「シエラに異常回復魔法を!」
返事は、すぐに返ってきた。
だが――
「……ダメ……」
震える声。
リオンが振り返ると、
そこには、倒れたカイルに縋りつくリーナの姿があった。
回復魔法の光は、途切れていない。
必死に、必死に命を繋いでいる。
「ウチの回復魔法じゃ……完全には、癒せない……」
声が、かすれる。
「ここで……回復魔法を止めたら……」
涙が、頬を伝う。
「カイルっちが……死んじゃう……」
その言葉が、リオンの思考を叩き割った。
冷静に組み立てていたはずの勝ち筋が、一瞬で、意味を失う。
リオンは、歯を食いしばったまま視線を走らせる。
セリナ、そして、陽翔。
最後の切り札。
本来なら、もう切っているはずの手札だ。
――だが、今は無理だ。
セリナは、魔眼の発動位置を離れられない。陽翔も、必殺の準備に集中している。
(頼れない……!)
理解した瞬間、胸の奥が冷える。
策は尽きていない。
だが、動かせる駒が、足りない。
その時だった。
「オオオオオオオオッ!!」
空気を叩き割るような、獣の咆哮が広間に轟く。
喉の奥から、肺を震わせ、骨に響くほどの――純粋な、本能の叫び。
シエラの身体が、跳ねた。
獣化した巨体が、さらに一段、膨れ上がる。
筋肉が盛り上がり、皮膚の下で、血管が脈打つ。
「……っ!」
リオンは、思わず目を見開いた。
シエラの脚を縛っていた麻痺が――弾け飛ぶ。
関節を覆い始めていた石化が、ひび割れ、砕け落ちる。
理性を縛っていた“制御”が、まとめて――引き剥がされた。
「……まさか……バーサクモード……!」
理性を犠牲に、身体の限界を無理やり引き上げる暴走状態。
麻痺も、石化も、“動きを止める”ための理屈が――通じない。
「――――――――オオオオオオオオッ!!」
再び、咆哮。
それは怒りでも、苦痛でもない、ただ、敵を殺すためだけの声。
(……っ、最悪だ……!)
この距離で、この状況で――
(まともに制御できないバーサクモードに入る奴があるか……!)
リオンは、反射的に距離を取ろうと身構えた。
だが――
シエラは、見向きもしない。
ただ、目の前の黒淵の獣蛇だけを、ひたすらに叩き潰そうとしていた。
そこで、リオンは理解する。
制御はできていない。理性も、完全に失われている。
それでも、本能が黒淵の獣蛇だけを、明確に敵と認識している。
仲間は、攻撃対象外だ。
(……狙ってやったのか?それとも、追い詰められての暴走か……)
――今は、それでいい。
この状況は使える。
リオンは、一筋の光に、望みを賭けた。
バーサク状態のシエラの攻撃は、無茶苦茶だった。
拳が振り下ろされる。
爪が薙ぎ払われる。
体当たりが、正面から叩き込まれる。
狙いも、精度もない。
ただ――重い。
黒淵の獣蛇の巨体が、
そのたびに、地面を削りながら揺らぎ、後退する。
その暴力の中心に、
もう一人――動く影があった。
リオンだ。
シエラの周囲を、縦横無尽に走る。
無茶苦茶な打撃を、リオンは受け流す。
自身に向けられた攻撃を流すのは、元々、リオンの得意分野だ。
だが、今回は違う。
**受け流しているのは、敵ではない。**
**シエラの打撃――その力の“向き”だ。**
添える。押さない。ただ、角度をずらす。
拳の軌道が、ほんのわずか、斜め後ろへ修正される。
次の瞬間、黒淵の獣蛇の巨体が、斜行するように――吹き飛ばされた。
「……よし」
一歩、また一歩。
後ろではない。横でもない。斜め後方――岩槍の壁へ。
シエラの、次の大振り。
それに合わせ、
リオンは再び剣を差し入れる。
受け流し、返し、導く。
暴力は、制御できない。
だが――方向は、変えられる。
黒淵の獣蛇は、自分が誘導されていることに気づかない。
気づいた時には、すでに――岩槍の壁が、真後ろに迫っていた。
シエラが、大きく踏み込む。
咆哮と共に、獣化した全身の筋肉が、限界まで張り詰めた。
――大振り。
それが来ると、リオンは読んだ。
「……今だ」
リオンは、剣を構える。
風が集まる。
剣身に絡みつくのは、刃を鋭くするための風ではない。
押し出すための、圧縮された奔流。
(これで……終わらせる)
シエラの拳が、黒淵の獣蛇へと叩き込まれる。
その瞬間、リオンは、最後の力を振り絞った。
踏み込み、体重移動、剣を、斜めに振り抜く。
「――裂空断翔衝!!」
剣が、風を解き放つ、ただの斬撃や衝撃波ではない。
空間そのものを押し潰す、暴風の塊。
シエラの打撃と、リオンの風の魔法剣が重なった。
衝撃が、爆発する。
黒淵の獣蛇の巨体が、風と衝撃に叩き上げられ、宙を舞った。
次の瞬間、鈍く、湿った、嫌な音が響く。
「グォォォォォォォ……!!」
鋭利な岩槍が、腹部から胴へ、そして背中へと突き抜けた。
一本ではない。
二本、三本。
折り重なるように突き出した岩の先端が、
黒い鱗と肉を裂き、巨体を壁に縫い止める。
黒淵の獣蛇の身体が、斜め四十五度の角度で宙に固定された。
致命傷ではない。
再生すれば、いずれ抜け出せる。
だが――今は、動けない。
岩槍が内側から噛み合い、巨体を無理やり“支点”で止めている。
尾が、痙攣するように暴れ、岩壁を削り、火花を散らす。
だが、頭部だけは――自由だった。
首が、ぎこちなく持ち上がる。縦長の瞳が、ゆっくりと、蠢いた。
(……再生……核を……)
逃げる準備、肉体を捨てるための、判断、その“思考”が、次の瞬間――止まった。
「セリナ!」
リオンの声に、彼女は静かに応えた。
頷き一つ、戦場の喧騒の中で、セリナだけが、異様なほど、静かだった。
ゆっくりと、彼女は顔にかけられた眼帯へ手を伸ばす。
留め具に指をかけ、外す。
布が、空気を切る音すらしない。
露わになった片眼は、感情の色を持たない澄んだ深淵。
その瞬間、広間の空気が、重く沈んだ。
音が、遠ざかる。風が、止まる。
まるで世界が、“彼女の眼”を中心に、呼吸を止めたかのように。
「――第一封印、解除」
淡々とした声。
セリナの魔眼が、完全に開く。
「《時葬封絶》」
その眼に捉えられた瞬間、黒淵の獣蛇の世界が――止まった。
尾の痙攣も、再生しようと蠢いていた肉も、思考さえも。
すべてが、凍りついたように静止する。
時間が、存在しない。
串刺しのまま、
岩槍に縫い止められたまま、
黒淵の獣蛇は――完全な無力状態に陥った。
「――核、確認」
その声が、合図だった。
陽翔は、静かに息を整えた。
踏み込まない。距離も、変えない。
剣を後ろへ引き、刃を、地面と平行に構える。
斬る構えではない。放つための構えだ。
剣身に、淡い光が灯る。同時に、風が剣先へと吸い寄せられた。
視線は一箇所。
魔眼によって暴かれた、頭部奥の核。
剣が、低く唸る。
「……決める」
――それは、かつて“お蔵入り”になった技だった。
蓮が模擬戦で放った、聖剣斬閃。
一閃で上級生を沈めた、完成された必殺を前に、陽翔は、悔しさを隠しきれなかった。
「……俺にも、ああいうの教えろよ」
しつこく食い下がり、半ば根負けした形で、リオンが教えた技。
だが、現実は非情だった。
溜めが長すぎる。隙だらけで実戦では、まず使えない。
だが、今は違う。
時間は止まり、核は暴かれ、放つための条件が、すべて揃っていた。
「……天極穿光」
低く告げた瞬間、剣先から、光が解き放たれる。
それは斬撃ではない。一直線に世界を貫く、光と風の複合魔力。
蓮の聖剣斬閃に勝るとも劣らない一閃が、セリナの魔眼が示した一点
黒淵の獣蛇の頭部、その奥。
“核”。
光条は、寸分違わずそこを穿った。
次の瞬間、黒淵の獣蛇の頭部内部で、鈍い閃光が弾ける。
巨大な身体が、力を失い、岩槍に縫い止められたまま、動かなくなる。
静寂が、広間を支配した。
――勝敗は、決した。
陽翔は、剣を下ろす。膝が、わずかに震えていた。
「……やった……やったああああああ!!」
陽翔は、思わず雄叫びを上げた。
胸の奥から込み上げる、純粋な達成感。
――勝った。
確かに、勝ったはずだった。だが、振り返った先にあったのは、歓声も、安堵もなかった。
リオンは、膝をついたまま剣に体重を預け、肩で荒く息をしている。
シエラは、獣化が解けたまま倒れ伏し、指先ひとつ、動かない。
セリナは、眼帯を外した姿勢のまま崩れ落ち、
その瞳は、焦点を失っていた。
そして、リーナは、血に染まった両手で、
必死に、カイルの命を繋いでいる。
「……お願い……まだ……まだ……!」
その声は、震え 広間に響くことすらできず、消えかけていた。
陽翔の喉が、ひくりと鳴る。
――勝ったのに。
――誰も、立っていない。
陽翔が振り返って見たのは、勝利の先にあった、仲間たちの、限界だった。




