笑わぬ聖女の結婚〜私の笑顔を見たいがあまり、旦那様がヤンデレ化しています〜
<序章>
エスファーン城侍女による証言。
「えーっと、アリッサさまの第一印象ですか? それはその……ここだけの話ですが、不気味のひと言でしたね」
女職場ゆえにコミュ力が必須な侍女という人種は、おしゃべりなのが常だ。彼女もペラペラと饒舌に語り出す。
「蝋人形みたいなんです! なにを話しても全然表情が変わらなくて。あ、言葉がわからないわけじゃないんですよ。でも、とにかく無口無表情で。一度なんて、私うっかりアリッサさまの手元に熱湯をこぼしてしまったことがあるんです。それでも、顔色ひとつ変えなかったんですから」
とはいえ、派手なやらかしを不問にしてくれたことには感謝しているらしい。
「そうですね。不気味ですけど、そこをのぞけばいい主です。癇癪を起こさないし、無茶な命令もありません。う~ん、リシャールさまとお似合いかと問われれば首をかしげるところはありますが。だって、リシャールさまは大天使の化身のようなお方ですから!」
エルファーン領主、リシャールの側近中の側近による証言。
「月光をたたえたようなプラチナブロンドにサファイアの瞳。まぁ、王国一の美丈夫です、それは間違いない。軍事も政治も百年に一人と言われる優秀さですね。え?性格? それはもう! 穏やかな紳士で誰に対しても親切ですよ。大天使の化身と言われているのも納得の……」
彼はそこでグッと声をひそめ、聞こえるかわからなぬほどの声でぼやいた。
「外面のよさです」
一、笑わぬ聖女の結婚
「大聖女アリッサ。ようこそ、我がエスファーン領へ」
夫となるリシャール・エスファーン侯爵はにこやかにほほ笑み、アリッサの手を取る。このままでは手の甲に口づけされてしまう! そう察したアリッサは素早く手を引っ込め、身体の後ろに隠した。
それから、じっと彼を観察する。
(顔が……よすぎる。まばゆいほどの美貌。大天使の化身と謳われているけれど、それ以上だわ。この唇が私なんかの手に触れるなんて、絶対に許されることじゃない)
この世で一番美しいものはリシャールだ、とアリッサは思う。
こんな調子で、心のなかではスラスラと彼への賛辞を語っているが、アリッサの表情はぴくりとも動いていない。呪詛を唱えるような低い声で「……ありがとうございます」と答えただけだ。
あまりに愛想のないアリッサの態度にリシャールは戸惑ったように目を瞬く。
(あぁ、瞬きで生じる風すらも清らか。それにしても、リシャールさまが私の目の前にいるだなんて!)
驚くほどに無愛想な態度を取っているアリッサだが、こう見えてリシャールに恋をしている。といっても、幼き日の淡い恋心を後生大事に抱え続けてきただけだけれども。
アリッサと彼は昔、王都で一度だけ言葉を交わしたことがあった。田舎から出てきたばかりの彼女に、リシャールは励ましの言葉をくれた。それきり会うこともなく、漏れ伝え聞く彼のうわさに胸を弾ませることしかできなかったのだがーー。
どういう巡り合わせか、再び言葉を交わすことができた。それどころか、アリッサは今日から彼の住まうこの城で暮らすことになったのだ。
憧れの人を間近で拝むことのできる環境は、死ぬほどうれしい。誰も見ていない状況なら、無表情のまま小躍りしていたことだろう。
ただ、大きな問題がひとつ。たとえばこの城で侍女をするとかそういうことなら、アリッサは大喜びで受け入れて、その幸せをかみ締める。だが、彼女に与えられた使命は彼の妻になることなのだ。
(――無理、無理よ。リシャールさまの隣に立つ女性が蝋人形と呼ばれるこの私だなんて! 彼の美貌を損なうだけじゃないの)
ジリジリとアリッサは後退し、彼と距離を取る。そんな彼女の様子にリシャールは弱ったように眉尻をさげた。
「どうも嫌われてしまったようだね。まぁ、まるで身代わりのような結婚……喜ぶ女性がいるはずもないか」
アリッサと彼の結婚は、もちろん政略によるものだ。
シガシーン王国は天使と精霊の加護を受ける美しい王国。大陸の西端に位置しており、紺碧にきらめくシア海と、炎を吐く偉大なるホリッカ神山からの恵みをたっぷりと受けることで繁栄してきた国だ。王都のある中央は王族が、それ以外の地域は五侯爵と呼ばれる大貴族がそれぞれ治めている。
ここエスファーン領は王国のなかでももっとも西に位置しており、シア海に沈む真っ赤な夕日を望むことができる。領主はリシャール・エスファーン侯爵。数年前に亡くなった父親の跡を継いだばかりの、二十四歳の青年だ。美貌、知性、騎士としての才覚、すべてを兼ね備えた『大天使さまの化身』
対するアリッサは、落ちぶれてしまった貧乏男爵家の娘として生まれた。飛びぬけた才能はないけれど、明るく愛嬌のある子どもであった。貧しいなりに幸せな生活を送っていたある日のこと、アリッサの額に聖女の証である聖石が発現した。九歳のときだ。聖女の力を持つ者は身分にかかわらず、突然変異的に生まれてくるがその数はとても少ない。力のある者は全員、王都の大聖堂の預かりとなり、その力を国のために捧げるべく修業を積むのだ。
エスファーン領をぐるりと囲むシア海はこの王国に多くの恵みをもたらしてくれるけど、その反面大規模な水害を起こすこともある。同じくホリッカ神山も、大噴火となれば甚大なる被害が及ぶ。
聖女はこのマイナスに作用するパワーを浄化することができるのだ。ゆえに聖女はとても大切にされる。大聖女と呼ばれる強い力があるものは、王族もしくは五大貴族のもとへ嫁ぐ栄誉が与えられるのが慣例だった。
本来、リシャールの婚約者はアリッサより五歳年上のマルゴットという名の聖女だった。が、彼女は能力を制御しきれず身体を壊して亡くなってしまったのだ。その代わりに選出されたのがアリッサだったわけだ。
この選出には裏事情があった。アリッサの婚約者候補であった第四王子のメルムは「いくら大聖女でも蝋人形だけは勘弁願いたい」と彼女を毛嫌いしていた。そこで彼は自分の母である王妃に頼み込み、王に「マルゴットほどの大聖女の代わりならアリッサしかいない」と進言してもらったのだ。
居丈高なほかの大貴族と違い、リシャールは人当たりのいい紳士だ。メルムは彼ならば「蝋人形なんか気味悪い」などとは言わないだろうと踏んだのだ。そして、その目論みどおりにリシャールはアリッサを歓迎し、ふたりの婚姻が成立した。
リシャールは穏やかな笑みでアリッサに言った。
「ゆっくりで構わないよ。少しずつ、夫婦になっていけたらと俺は考えている」
彼はアリッサの長い黒髪をひと房取ると、そっと口づけた。
「――では、おやすみ。アリッサ」
彼はくるりと踵を返し、部屋を出ていく。アリッサはその背を見つめながら、無表情のままパニックを起こしていた。
(ど、どうしよう。これは大変な事態になったかもしれないわ。聖女になって十二年。初めて能力を失う危機に瀕してしまったかも――)
アリッサは膝からがくりと崩れ落ち、床に両手をついてうなだれた。その頬は、よくよく目をこらせばわかるかも?程度にほんのり赤く染まっていた。
(リシャールさまのそばにいたら、聖女の力を失ってしまう!)
聖女の能力にはその力を引き出す根源――マナが必要だ。これは聖女によって違う。植物からパワーをもらうもの、月の光や歌声がマナとなるもの。
アリッサのマナはちょっと特殊だ。彼女は自分の感情をマナとして力に変える。
あらゆる感情を内にとどめておく訓練を重ね、身につけた自分なりの力を蓄える方法がこの無表情なのだ。人とのかかわりを極力避け、蝋人形と揶揄されるほど顔色を変えない。こうすることで、アリッサは大聖女と呼ばれるまでの力を手に入れた。
聖女は自身のマナを人に明かしてはいけない決まりになっている。弱点になりうるからだ。そのため、アリッサも無表情の理由をひとに話すことはできない。周囲の人間はただ、「アリッサはものすごく根暗な性格なのだろう」と考えているはず。
(――大ピンチよ。彼にほほ笑みかけられたら、抑えようとしても感情が流出してしまうじゃないの! この結婚は大失敗だわ)
アリッサは途方に暮れた。
二、性悪侯爵の胸のうち
エスファーン侯爵リシャールのもとに、王都から大聖女アリッサが嫁いできてひと月が経った。
今宵もリシャールは妻の寝室を訪ねる。閨のためではない、かたくなな彼女の心を少しでも溶かすためだ。
「こんばんは、アリッサ。調子はどう?」
艶やかな黒髪に透き通るような白い肌。聖女の証である聖石はアメジスト。瞳も同じ濃紫色だ。
くるりとカールした睫毛や果実のような唇は、腕のいい人形職人の作品のよう。この人形めいた美貌で無表情だからこそ、彼女は蝋人形などというあだ名をつけられているのだろう。
「普通、です」
機械仕掛けのように唇が開き、このひと月、毎晩聞いた答えが今夜も返ってくる。
聖女は日に三回、祈りを捧げる時間がある。これによって王国から災厄を遠ざけてくれているのだ。それ以外の時間は「自由にしていい」と伝えてあったが、彼女はあまり部屋から出ることもなく読書などをして過ごしているようだ。
「しばらく、そばにいてもいいか? 俺は君とこうして静かに過ごす時間を気に入っている」
「はい。どうぞ、お好きなように」
リシャールは新妻をそれはそれは大切にしていて、毎晩欠かさず通っている。
(と、城の人間に思い込ませることが肝要だ。これも領主の仕事のうち)
冷めきった心でそんなことを思う。
天使のように優しげな容姿を持つリシャール、見かけに反して案外と性悪だ。優しい微笑をたたえながら、腹のうちでは邪悪なことを考えていたりする。
リシャールはふぅと細く息を吐き、丸テーブルを挟んで向かい側に座るアリッサをしげしげと眺めた。
(前評判どおりの奇妙な娘だが……まぁ、いいだろう。本を読んでいるだけで無駄な金はかからない。俺に色目を使ってくることもなければ、うるさいことも言わない。考えようによっては、これ以上ない良妻だ)
リシャールは幼い頃から神童と称賛されるほど優秀だった。それゆえ、『誰からも愛される素晴らしい領主』を仕事として完璧に演じることができてしまうのだ。本来の人格とはすっかりかけ離れたものになっているが、それで万事うまくいくのであれば不満もない。彼の本性を知るのは幼い頃からの側近、アヴァンだけだ。
リシャールは仕事として、優しい声で妻に話しかける。
「アリッサはなにが好きだ? 食べものでも、本の趣味でも。よかったら教えてほしい」
「好きなもの? ――私は、美しいものが好きです」
リシャールは少し驚く。これまで、『とくにない』『普通』『なんでも構わない』の三択の返事しかもらえたことがなかったからだ。まともな回答が返ってきたのは初めてだ。それに、今の一瞬だけ、彼女は蝋人形ではなくなった。瞳がキラリと輝き、口元がわずかに緩んだように見えたのだ。
びっくりすると同時に、なんだか腹が立つ気もした。
(美しいものが好きなら、なぜ俺に興味を示さないんだ?)
異性の好色な目つきはなによりも不愉快なものだが、まったく反応されないのもそれはそれで悔しい。人間とは、勝手でおろかな生きものなのだ。
それから数か月。リシャールは変わらず、仕事としてアリッサのもとへ顔を出す。
(そう、これは仕事だ。よき夫であるという任務)
まるで言い聞かせるように、リシャールは何度も心のうちでつぶやいた。
彼女も変わらずに例の三つしか言葉を発さない。そして、王国一の美貌と謳われるリシャールを前にしても眉ひとつ動かさないのだ。
それどころか、アリッサの視線はほとんどリシャールに向くことがない。
(アリッサの考える美しいものとは、いったいどんなものなんだ?)
それがどうしても気にかかる。あれこれと手札を替えて聞き出そうとするが、やんわりとはぐらかされた答えしか返ってこない。
「俺に自分のことを知られたくない、ということか。なぜそんなに俺を嫌う?」
眉根を寄せた、どこか不機嫌そうな顔でリシャールは聞く。
アリッサはどんな言葉をかけても、あまり反応を示さない。誰かといる意識が薄れるせいか、警戒心まで緩んでしまう。いつの間にか紳士の仮面が取れかけてしまっているのだが……リシャール自身はそのことにまだ気がついていなかった。
「嫌いではありません」
淡々とした口調でアリッサは答えた。それから、ためらいがちに口を開く。
「あの、リシャールさま」
「なんだ!?」
リシャールの声が大きくなる。彼女のほうから声をかけられたのは初めてだったから、食い気味に返事をしてしまった。
(これでは……声をかけられて喜んでいるようじゃないか)
リシャールはしまったと言うように下唇をかむ。
「なぜ毎晩ここにいらっしゃるのでしょう?」
来るなと言いたいのだろうか。仮面をかぶることをすっかり忘れたリシャールはムッとして返す。
「それはもちろん、夫婦だからだ」
本来は同じ寝室を使ってしかるべきなのだが、身代わりのように嫁入りさせられた彼女に配慮して最初は別々の部屋を用意した。そのまま、今に至っている。
蝋人形のほうがまだ愛想があるのでは?と文句のひとつも言いたくなるほど、リシャールに無関心な彼女と褥を共にする日は遠そうだ。
(毎晩通って甘い笑顔を送り続ければ、簡単に篭絡すると踏んでいたのに手強いな)
そもそもこのところは、自分が甘い笑顔など送っていないことにも気がつかずリシャールはチッと舌打ちした。
「……それはつまり、閨をという意味でしょうか?」
彼女の口からそれが語られるとは思っておらず、リシャールは固まる。なんと言葉を返していいのかわからない。
アリッサは飄々とした様子で続ける。
「私などではなく、どうぞリシャールさまのお好きな女性を。私は形式だけの妻で構いません。聖女の仕事はしっかりこなしますから」
アリッサは大聖女だ。五大侯爵にとって、大聖女を娶ることは名誉であり、リシャールには彼女を大切にする理由がある。だが、実務面だけでいえばアリッサが毎日祈りを捧げさえすれば、その地位が正妻だろうと下働きだろうと王国に災厄が訪れることはない。彼女は侯爵夫人の地位に執着がないのだろう。
(いや、俺自身にもか)
リシャールのなかでプツンとなにかが切れ、仮面が完全にはがれ落ちた。
彼は椅子から立ちあがるとアリッサに近づく。彼女の頬を強い力でグッとつかみ強引に自分のほうを向かせた。冷たい怒気のにじむ瞳で、座ったまま呆然としている彼女を見おろす。
「そんなことは絶対に認めない。俺の妻は君なのだから」
リシャールはゆっくりと腰を折り、彼女に顔を近づける。
「お好きな女性を、と言ったね。俺の子を産むのはアリッサ、君だけだ」
唇が重なる。
(――あぁ、ちゃんと温かいじゃないか)
蝋人形などではない。アリッサの唇は柔らかく、女性特有の蜜の香りがリシャールを誘う。
リシャールはそのまま彼女の身体を暴く……つもりだったが、できなかった。
彼はたしかに性悪だが、育ちはいい。非道な鬼畜にはなりきれなかった。
「そういうことだから、覚えておくように」
くるりと身をひるがえし、捨て台詞を残して部屋を出た。
ぱたりと扉を閉めた彼はようやく、自分が彼女の前では仮面を外していることに気がついた。扉に背中を預けたままズルズルと床にへたり込む。
(――どうかしている)
なぜ、こんなにも彼女が気になる? アリッサがなにを好きでなにを嫌いだろうが、リシャールにはどうでもいいことのはずなのに。
彼女が笑顔を見せてくれないことが、リシャールの心に夜毎小さな傷をつけていた。今夜、その無数のひっかき傷からとうとう血が噴き出してしまったのかもしれない。
三、夫婦の時間
アリッサが城に来てからというもの、リシャールは一日も欠かさず部屋を訪ねてきてくれる。
「やぁ、アリッサ。今日の薄紫色のドレスは君によく似合うね」
「日々の祈りで疲れてはいないか?」
「俺は君と過ごす時間を楽しみにしているから」
蝋人形にも、こんなふうに優しい言葉をかけてくれるのだ。
(リシャールさま、昔とは別人のようだわ。そうよね、あれから何年も経っているんだもの)
アリッサはかつて一度だけ、彼と言葉を交わしたときのことを思い返す。
(あの頃のリシャールさまは、もっとフランクな言葉遣いで……)
最大限にオブラートで包んだ表現をしたが、ずばり言ってしまうと……当時のリシャールは口の悪い小生意気な少年だったということだ。
幼き日の彼の声が耳に蘇る。
『聖女候補生? ふぅーん』
華やかな王都とこれから始まる生活への不安をアリッサが口にすると、彼は不敵な笑みを見せた。
『自意識過剰だな! お前みたいなあか抜けない田舎娘に大聖堂もたいして期待してないだろ』
ものすごく馬鹿にされたわけだけれど、不思議と腹が立つよりホッと肩の力が抜けた。身体のこわばりが解けて、楽に呼吸ができるようになった。
『リシャール! なにをしてるんだ』
父親らしき人が彼を呼ぶ。
『げっ。じゃーな、田舎娘』
(リシャール……さま……)
去り際の彼の笑顔。それがアリッサの心に住み着いてしまった。
「どうした? ぼんやりして考えごとか?」
当時よりずっと低く、男らしい声がアリッサの耳をくすぐる。ふと気がつけば、大人になったリシャールが心配そうにアリッサの顔をのぞいている。
(ち、近いわ)
アリッサは無表情のまま、スッと彼と距離を取る。すると、彼がふふっと噴き出す。
「いつもそれだ。アリッサは美しい蝶のように俺の手をすり抜けていってしまうな」
(大人になられたのね、きっと)
アリッサは感情をマナとして扱う聖女、他人の心の機微にも常人よりは敏感だ。
リシャールが部屋に通ってくる理由は義務感なのだろうということは、最初から察していた。
マルゴットの代役となったアリッサへの同情、大聖女を大切にするという侯爵としての責務、そういう感情が彼の足を動かしているのだろう。
アリッサに向けられる優しい言葉も同じ理由からだと理解している。
(でも……リシャールさまの負担になるのなら、私のことなど捨て置いてくれていいのに)
そんな内容のことを幾度か彼に伝えたつもりだったが、アリッサは説明下手なので伝わらなかったのかもしれない。
彼は今も、この部屋を訪れ続けている。もう少しでひと月になるだろうか。
「まったく、王都の連中は理解力が低くて困る」
「この髪飾りより、そっちのほうが君には似合う」
「……俺になにか不満があるのか? どうしてそう、かたくななんだ」
(あ。私の知っているリシャールさまだ)
彼はすっかり大人になってしまい、かつてアリッサが恋をした小生意気な少年はもうどこにもいない。と思っていたが、そうでもなかったらしい。
リシャールがふとした瞬間に、彼らしい表情を見せることが増えてきた。毒舌で皮肉屋。意外と感情的。あの少年が大きくなったら、きっとこんなふうだろう。アリッサがずっと想像してきたとおりの青年がここにいる。
(ふふ。うれしいな)
リシャールは背を向けていて気づいていないが、無意識に自分の頬が緩んでしまっていることに
アリッサは慌てた。ハッと表情を引き締めて、自分をいましめる。
(笑ったりしたらダメよ、アリッサ。私の使命は聖女の務めを果たすことだもの)
貧乏貴族の娘だった自分が、リシャールの妻として高貴な暮らしをさせてもらっているのは聖女の能力のおかげだ。責務は果たさなければならない。
わかっていても、訓練を重ねたアリッサでさえ感情を完璧に制御することは難しい。いつしか彼女は、リシャールが訪れる時間を心待ちにするようになっていた。彼が素の姿を見せるのは、かぎられた人間だけ。それを理解してからは、なおのこと。そこに深い意味などなかったとしても、彼の〝特別〟になれたような気がしたのだ。
けれど、弊害は目に見える形で表れはじめた。アリッサの額の聖石の色が薄まっている。聖石の色は力の強さをあらわすのだ。
「このところ、シア海が荒れることが多いわね。昨日も船の事故で数名が負傷したらしいわ」
「あら。大聖女さまの手に負えないパワーが動いているとしたら、恐ろしいわね」
侍女たちの雑談が耳に入り、アリッサがグッと自分の胸を押さえた。
(私の力が足りていないせいかもしれない)
祈りを捧げるたびに、それを自覚していた。リシャールと過ごすとき、アリッサの感情は通常の何倍も豊かになる。それ自体は悪いことではない。きちんと制御し、うちに閉じ込めることができるのなら――。
でも、今のアリッサにはそれができていない。感情が外に流れてしまっているのだ。
(リシャールさまといると楽しくて、それを彼に伝えたい、知ってほしいと思ってしまうから)
人が関係を築いていくことは感情を交換し合うことだ。恋人なら『好き』という気持ち、ライバルなら『負けたくない』だろうか?
(私はリシャールさまになにを伝える気なのだろう? それは決して許されないのに)
この王国のためにも、リシャールの名誉のためにも、アリッサは大聖女でい続けなくてはならない。
アリッサは幸せでたまらない彼との時間を捨てようと、決意した。
(リシャールさまは『ゆっくり夫婦になっていければ』と言った。それはつまり……いつかは私に妻の役目を期待しているということよね? 私はその期待に応えることはできない)
一緒に過ごすだけで力に陰りが見えているのだ。閨をともに……など自殺行為だった。
だから、彼にほかの女性をすすめたのだ。リシャールの目にはアリッサは無表情に見えただろうが、心のなかは身を裂かれるような苦痛にあえいでいた。
『そんなことは絶対に認めない。俺の妻は君なのだから』
リシャールと初めてキスをした。
うれしい、怖い、どうしよう、好き。
アリッサのなかにさまざまな感情が湧きあがり、どんどん外に流れ出していく。
(あぁ、私はもう聖女失格かもしれない)
アリッサは気がついていなかった。額の聖石が燃えるように輝き、紫の色がぐっと濃くなっていることに――。
四、聖女失格
ホリッカ神山が爆発したのはその夜のことだった。王国中の聖女が、これ以上に被害が拡大しないよう祈りを捧げた。もちろんアリッサもだ。もうなんの役にも立てないかもしれないけれど、寝食を忘れて残るパワーをすべて使った。
聖女たちの献身の甲斐あって、ホリッカ神山の噴火は最初の爆発のインパクトから考えるとずっと少ない被害で済んだ。
祈りの塔から二日ぶりにおりてきたアリッサをリシャールが出迎える。
「アリッサ!」
「……リシャールさま」
力を使い果たしたアリッサは彼の胸に倒れ込んだ。そのまま丸三日、コンコンと眠り続けてしまったようで、目が覚めたときにはリシャールのベッドに寝かされていた。
「アリッサ、アリッサ!!」
アリッサの顔をのぞき込んでいるリシャールは、大病でも患ったかのようにげっそりした様子だった。アリッサをゆっくりと上半身を起こし、彼を見つめる。
「――リシャールさま。眠っていないんですか? ひどいお顔」
これでは、どちらが病人かわかならい。実際、よく眠ったアリッサの顔色はすこぶるよく、身体も軽かった。
リシャールは勢いよくアリッサの身体を引き寄せると、確かめるようにギュッと抱く。
「君のせいだ。聖女の力は暴走すると大変なことになるのだろう。マルゴットがそうだったと聞いている。もしやアリッサも……そう考えたら、とても眠るどころじゃなかった」
リシャールの目尻に涙がにじんでいる。どうやら、とても心配をかけてしまったらしい。
「すみません。でも、私の身体はなんともありませんので」
アリッサはいつもの彼女らしい飄々とした調子で答える。それを見た彼がふっと泣き笑いみたいな顔になった。
「その無表情をうれしく思ったのは初めてだ。もう俺に笑いかけてほしいとは言わない。アリッサが生きて、そばにいるだけでいい」
(リシャールさまから、こんな言葉をかけていただけるなんて。もう十分だわ)
アリッサは意を決して彼に向き直る。
「申し訳ありません、リシャールさま。私はもう……あなたのおそばにいることはできません。その資格を失ってしまいました」
(ホリッカ神山の噴火が私のせいとまでは思わないけれど、力の弱った聖女が侯爵の妻でいていいはずがない)
「そうか。残念だが……」
わかってくれたのだろうと胸を撫でおろしたが、続く言葉はアリッサの想像とは真逆だった。
「それは絶対に認められないから、諦めてくれ」
「え?」
「アリッサは俺の妻。俺はたとえ死んでも、君を手放す気はない」
「ですが――」
「この議論は時間の無駄だよ。放さないと言ったら、放さないからな」
(リ、リシャールさまが私ごときに執着している!)
なんとも不思議なことだが、事実のようだ。仕方なくアリッサは彼に事情を打ち明けることにした。
人にマナを教えるのはタブーだが、やむを得ないだろう。
「リシャールさま。私がこれから話すこと、絶対に秘密にしてくださいますか?」
なぜか、彼はどこかうれしそうにニヤリとする。
「アリッサと俺だけの秘密ということか……悪くないな」
五、どうか、そばに……
話し終えたアリッサはひと息つく。
「そういうわけなので、私はリシャールさまのそばにいると聖女の力が弱まってしまうのです。なのでもう妻という立場は……」
「それは、つまり……」
リシャールの唇がわななく。さすがの彼も、聖女の役目を果たせなくなることには複雑な思いがあるのだろう。
ところが次の瞬間、彼は喜色満面になって言う。彼のこんな顔を見るのは初めてだ。
「アリッサは俺が嫌いで笑わなかった、わけではないんだな!?」
「は、はい。笑うとマナが減ってしまうので……リシャールさまのことは嫌いでは……」
そう言いかけてアリッサは思う。
(ううん。嫌いじゃないは正確でないわ。私は――)
「リシャールさまのことは……その……とても好いております」
アリッサは、おそらく初めて彼に笑顔を見せた。照れたような、はにかむような、控えめな笑みだ。
「アリッサの笑顔はいいな。何物にも代えがたい」
リシャールの顔が子どもみたいに無邪気に輝く。まぶしくて直視できずアリッサはパッと顔を背けた。
「そんな顔を見せるのは、今日を最後としてください。このままでは、本当に聖女の力を……」
リシャールは柔らかく笑むと「少し待て」と言って、奥の戸棚になにかを取りに行った。戻ってきた彼が手にしているのは小さな手鏡だ。リシャールは「見ろ」とアリッサの顔の前にそれを突き出す。
「アリッサの聖石は以前にも増して濃く、強く輝いているぞ」
「えぇ!?」
アリッサは鏡に映った自分の顔を凝視する。たしかに……額のアメジストは以前よりずっと強い輝きを放っていた。
「どういうことでしょう?」
「君の力は本当に弱まっているのか、よく思い出してみろ」
「間違いありません。このところ、力が弱くなっていたことは誰よりも私が一番……あ、でも!」
ホリッカ神山に祈りを捧げた、二日間はそうではなかった。内側から強いエネルギーが湧きあがるのを感じていた。
「力を失う前の『最後の灯』と思ったけど、違ったのかしら?」
「なにか、心当たりはないのか? マナに影響を及ぼしそうな……」
「え~っと、噴火の前はたしか……」
そこでボッとアリッサの顔が火を吹く。思い出してしまったのだ。噴火の前に、初めてリシャールがキスをくれたこと。
彼はアリッサの思考を読んだように、不敵に笑む。
「あぁ。俺と君の初めてのキスか。それは、なにか関係がありそうなのか?」
アリッサは真剣に考え込み、ブツブツとひとり言をつぶやく。
「たしかに、うれしくてドキドキして感情が膨れあがったけど……制御はできていなかったし……流出量より生み出される量が多かったってこと?」
「心配ないよ、アリッサ」
リシャールはにっこりと笑み、彼女の肩に手をかける。
「キスが関係あるのかどうか、確かめてみればいいだけのこと」
「え、えぇ!?」
「今日から朝と晩に必ずキスをしよう。それで、君の聖石の色に変化があるのか、祈りにどう影響しているか、実験してみればいい。データ数は多いほうがいいから、最低でも一年は続けたいところだな」
(リシャールさまともう一度キス!? ありえないわ)
自分の感情がどうなってしまうのか、恐ろしい。
「で、ですが……」
尻込みするアリッサの後頭部に手を回し、リシャールは逃すまいとする。
「うれしくてドキドキしたんだろう? 君が嫌でないのなら、この実験を中止する理由はない」
「リ、リシャールさま?」
「それに、君は俺に弱みを握られてしまったことを忘れてるな」
彼の瞳が嗜虐的に輝いた。
「マナを知られてしまったんだ。俺の機嫌は損ねないほうがいい、だろう」
背筋にぞくりとくる艶めいた声で言って、彼は長い指でアリッサの顎をすくう。
美麗すぎる顔面が近づいてくる。
「なに、そう難しい要求をしているわけじゃない。アリッサはただ、永遠に俺のそばにいればいいんだ」
鼻先がぶつかり、アリッサの肩がびくりと跳ねる。
「リ、リシャールさま。今は昼です。朝でも晩でもありませんが」
「あぁ。覚えておいて。俺が朝だと思えば朝だし、夜と言えば夜だから」
「そ、そんなっ」
「――もう黙っていろ」
唇が重なる。アリッサの心は幸福に包まれ、大波のように感情があふれ出す。彼女の額のアメジストは、それはそれは美しく、光り輝いた。
〈終章〉
リシャールの朝は一日に五度訪れ、夜は十度ほどやってくるらしい。そのおかげか、気がつけばアリッサは王国史上一の大聖女と呼ばれる力を手にしていた。
ヤンデレヒーローが書きたくて。いつか長編化しようと思っています。