消えた僕のチョコレート
からっとした晴天の日――といっても、冬の真っ只中だ――に、僕は急いで学校に走っていた。寝坊をしてしまったのだ。まずい、間に合うか?冷たい空気の中を走っていくけども、10メートルほど手前で、先生が校門を閉めてしまった。はぁ、はぁ、間に合わなかった……。先生に声を掛けて入れてもらうことはできるけど、怒られるのめんどくさいんだよなぁ。よし、裏口からこっそり入ろう。学校の裏に回り、塀を飛び降りる。
「よっと……えっ」
着地点で、泥で汚れた水たまりを踏んでしまった。ああ、靴が泥で汚れちゃったよ。誰だよ、こんなところに泥だんごを作ってたやつは。まあいいや、教室まで急ごう。
あと数分でホームルームだ。なんとか間に合った。
「おはようございまーす」
教室の中に入ると、男子も女子もそわそわしていた。なんてったって今日は2月14日、バレンタインデーだ。
「えっ、今!?」
一つ上の六年生は卒業でいろいろ忙しいみたいだけど、僕たち五年生は呑気に気持ちを浮かせていた。今年はもらえるかな。
「朝一に渡して一日中意識させてやるんだって言ったのは誰よ」
今までもらったことないし、今年もないかな……。そう思いながら席に着くと、一人の女子が近づいてきた。
「ねぇ」
唐突に声を掛けられた。誰かと思えば、学年トップのクラスメイトじゃないか。彼女は完璧主義でプライドの高い女子だ。テストでもいつも満点を取る。すごい人だなぁと思っていたけど、彼女とは特に接点はないし、それだけだ。僕、何かした?
「あの、これ」
そういって、ぼくに小さな箱を差し出してきた。その箱はブラウンの蓋付きの箱に、ピンクのリボンだけで簡素に十字に結ばれていた。
これって、チョコレート!?
ドッキリじゃないよね?
「ぼくに…… ?」
箱と彼女の顔を交互に見る。
「気持ちだけでも、渡したかったから……ごめんなさい」
何を謝っているんだろう。でも、目の前のチョコレートの方が気になって、そんな疑問は明後日の方向に飛んでいった。バレンタインにプレゼントをもらうのは初めてで、心がウキウキになって、軽やかにその箱を受け取った。と思ったら、僕の手から消えていた。
「こら、授業に関係ないものを持ってくるんじゃない」
やべ、先生だ。僕のバレンタインチョコは先生の指にリボンで結ばれた部分を摘まれ、取り上げられてしまった。
「バレンタインに浮かれるのもいいが、そういうのは放課後にしなさい」
「はい……」
「帰りに取りに来い」
もらうくらい、いいじゃんか。
あれから一日中、気がつくと彼女のことを意識して、目で追ってしまう。彼女の一挙手一投足が、いつもより目に入る。
「ごめん、お茶貰ってもいいかな」
「いいけど、どうしたの? 今日忘れて来ちゃった?」
お昼の休憩に、同級生の女子と話しているのが見える。へぇ、いつもお茶、飲んでるんだ。
「ちょっと今日は、いつもの水筒を忘れちゃって」
いつもしっかりしてるけど、ドジなところもあるんだ。そういえば、キャラクターものの可愛い水筒を持ってた気がする。いつも気にしてないから、何のキャラクターかは思い出せない。
「ありがと。ふーふー、やっぱり温かいお茶よね」
「それで、出来はどうなのよ? 『完璧な物を作るわ』なんて豪語してたくらいだから、すごいのができたのよね」
多分、朝にもらったチョコレートの話をしているんだと思う。そっか、頑張って作ってくれたんだ。ちょっとだけ口角が上がる。
「彼の反応が楽しみね」
「もう! そんなにからかわないでよ……」
困った顔、と言うより、苦い顔をしながら言い返している。
「ほら、噂をすれば彼も見てるよ」
あっ、見てるのがバレてしまった。
「うぇっ!? あ、あんたも! しばらくこっち見ないで!」
よくわからないけど怒られてしまった。
そして放課後。職員室に向かい、先生にガミガミ叱られながらチョコを返してもらった。持ってきたのは僕じゃないのに……。まあいいさ、僕にはチョコがある。わくわくしながら教室に戻ってくると、我慢ができずにその場で箱を開けた。きれいに結ばれたリボンを解いて、蓋を開けると……。箱の中には何も入っていなかった。
「先生! 返してください!」
踵を返して、職員室の中へ飛び入って思わず叫んでしまった。ぎょっとしたような表情で先生は僕を見る。
「な、なんだ、チョコは返したじゃねぇか」
「ないんです! どこにも!」
先生が勝手に食べたんだ。そう確信して、先生を問い詰めた。
「はぁ? 俺が食べるわけねぇじゃねえか」
「だって、教室で開けたら何も入ってなかったんです!」
「あら、生徒のチョコを取り上げて食べちゃったんですか~?」
近くを通りがかった別の先生が茶化しにきた。
「人聞きの悪いことを言うんじゃない。俺はそんなことしないぞ」
それでも、なかったのは事実なんだ。せっかくもらったチョコレート……。
「まあ、どの先生もみんなチョコは食べてないのは確かね」
「どうして食べてないって、そんなことが分かるんですか」
「今日没収したチョコレートはあの棚の上にみんな置いてあったのよ」
僕の肩ほどの高さがある、窓際の低いアルミの棚を指して言った。中は扉が閉まってて何が入っているか分からないけど、上にはカゴが置いてあって、まだいくつかチョコレートっぽい箱や包みが入っていた。
「今日は5人くらいだったか? 毎年いるんだよな、持ってくるやつが」
「あんな場所に置いてあるチョコレートを食べようなんて思ったら、職員室の全員に見られるのよ」
衆人環視っていうものらしい。この間探偵小説を読んでたら出てきたから知ってる。
「それじゃあ、この箱の中は開けられもしなかったってことですか……?」
そんなことがありえるの?
「小学生のやることだ。悲しいことにからかい目的でやった可能性もある」
「あら、もしかしてそういう経験がおありで?」
「お前はいちいちうるさいな」
そうだよな。僕がチョコなんてもらえるわけないよな。女子たちにからかわれていたんだ。ないものはないんだ、しょうがないから帰ろう。
帰り支度をして、校舎を出る。
「あ……」
まるで待ち伏せしていたみたいに彼女がそこにいた。どうしているんだろう。
「今から、帰り?」
「ああ、うん……」
沈黙の時間が始まる。気まずい。彼女が本当に空箱を渡してきたのなら、どんなつもりで渡してきて、今どんな気持ちなんだろう。
「一緒に帰らない?」
まるで最初からそのつもりだったように彼女が誘う。その言葉に従って、横にならんで生徒玄関を出る。多分、チョコレートがないことを知ってることを、彼女は分かってる。
校舎と、それから校門を出る。また沈黙が僕たちを襲う。
「チョコレートさ」
そう言って彼女の顔を見ると、びくっと反応して、少し泣きそうな顔をしていた。続きを言うのをためらったけど、僕は知らなきゃいけない気がする。
「先生から返してもらって、教室で開けたんだけど、何もなかったんだ」
俯いて苦い表情をした彼女の顔を見て、適当な推理を披露することにした。
「あれはね、やっぱりきっと先生が食べちゃったんだ。あの先生は食いしん坊だからね」
食いしん坊なのかは知らない。でも、そうやって言い訳することで、僕たち二人は救われる気がした。あははと笑って、先生のせいにして、言い訳をする。なんで僕が言い訳をしているんだろう。もらえなかった虚しさが身に染みる。
「それ、本当に先生が食べたと思ってる?」
彼女は立ち止まって、僕に向き直って言った。まるでそんなことは間違っていると言いたげな瞳で僕を見る。一呼吸置いて、彼女は意を決したように言う。
「ねぇ、怒らないで聞いてほしいの。分かっていたんでしょうけど、本当は最初からチョコなんてなかったの」
本当に、最初からなかったんだ。呆然としている僕に、彼女は続けて言った。
「ちゃんと作ってはいたんだ。朝の朝には、本当にあったの。でも、渡すときにはもう……」
もう?
「捨てちゃった」
せっかく作ったのに!?
「どうして捨てちゃったのさ!」
驚きのあまり、声が大きくなる。
「どうしても、うまく作れなくて……。ママには『気持ちがこもっていれば大丈夫よ』って言われたけど……。私にはどうしても妥協できなかった。だから、気持ちだけでも伝えたかったけど、あんまり意味なかったというか、余計なこと考えさせちゃったね」
そんな……僕の初めてのチョコレートが……。
「ど、どこに捨てたの!?」
「まさか、探しにいくつもり?」
ちょっと驚いた、というか引いたような彼女は、諦めたように言った。
「見つけたら食べてもいいけど、多分、もうないよ」
もうない?
「そ、消えちゃったのよ」
近くの公園のベンチに座って休憩する。
「はい、チョコレートの代わり」
そう言って、自販機で買ってきたココアの缶を渡してくる。
「うん、ありがとう」
「ねぇ、諦めたら? もうないよ」
うーんと頭を悩ませていると、そんな風に彼女が言う。
「君も何か買ってきたの?」
「私はお茶。私はこれが一番なの」
お茶……。お昼も友達からもらってたな。
「分かった! ねぇ、着いてきて!」
突然ひらめいた僕は、ちょっと、という彼女の制止を待たずに、手を引っ張って学校の敷地内に戻った。まだ閉まっていない校門を抜け、校舎には入らずに、裏手に回る。そこには、泥団子、もといチョコレートが浸かっている水たまりがあった。水たまりの表面は、薄く氷の膜が張っていた。
「どうしてここが……」
驚いた彼女に、今朝のことを説明した。
「僕、今日はちょっと遅刻をしちゃって、ここから学校に入ったんだ。ちょうどここに着地して、運が悪かったなと思ってたけど」
こんな乾いた冬に、しかもチョコレートを溶かすくらいの熱湯の水たまりができるはずはない。少し残っている茶色の塊を見ながら言った。
「運がよかったみたい」
「運なんて良くないわ。見つかっちゃうんだったら、自分で食べればよかったわ」
出来の悪いチョコレートを消滅させるべく、熱いお茶で溶かそうとしたみたいだけど、彼女の奮闘虚しく、水筒ほどの熱湯ではすぐに冷えてしまったらしい。
「あんなこと言ったら、朝一に渡すしかないじゃない。どう、一日中意識しちゃった?」
「普段からお茶を飲んでるなんてことを、今日初めて知るくらいにはね」
本当はずっとチョコレートと彼女のことしか考えてなかった。授業の内容なんてこれっぽっちも覚えてない。
「見つけて満足した? もう帰りましょう」
帰りたがっている彼女を尻目に、もう原型を留めていない、どんな形だったかも分からないチョコレートを指で摘む。そして、僕はそれを口の中に放り込んだ。
「ちょっ、やめて! 汚いよ!」
砂混じりのじゃりっとした食感が、チョコを味わうことを邪魔する。たどり着いたカカオの味も、水で薄くなってしまっていた。
「ちょっと砂っぽいね。でも、美味しいよ。気持ちがこもってる」
にこりと微笑むと、抑えきれなくなった彼女は泣き叫んで……
「もう! ばかぁーーー!」