06. 私は本当にどこでも良かったんですよ
「俺はお前たちの命なんてどうでもいい。だがディアはお前たちを助けるだろう。助けるだけの理由があるからだ」
身も蓋もないその発言にリンソーディアは遠い目をした。とはいえ彼が言っていること自体は間違ってなどいない。
この場で彼女たちを助けることは、物事を円滑に運ぶために必要なことなのだ。たとえ彼女たちがいなくても大きな問題はないとはいえ、使える手段は全部使って、楽できるところは楽したい。リンソーディアは真正面からグレースを見据えた。
「ええ、そうです。あらかじめ言っておくと、私は善意からあなた方を助けるわけではありません。あくまで自分たちのためにあなた方を利用しようと思っているだけです」
「利用?」
不穏な言葉にグレースが眉を上げた。リンソーディアが頷く。
利害関係になるのであれば、お互いに納得した上で話を進めたほうが後腐れなく物事が運ぶだろう。
「チェザリアンまであなた方を無事に送り届けることは約束しましょう。ただし条件があります」
「なにかしら」
「私たちがチェザリアンに入国する際に口添えをしてもらいたいのです。私たちは自分の立場や身分を証明するものをなにひとつ持っていないので、国境越えのときに抜き打ちで止められたりしたらいろいろと面倒なんですよ」
他国への行き来に関しては、同じ大陸、つまり陸続きの国であれば、許可証の類いは特に必要ないとされている。そのため比較的だれでも自由に国境を越えることができるのだが、時としてあえて身分を証明することにより通行がより有利になる場合もあるのだ。
大渋滞しているときに火急の知らせがある場合や、王侯貴族や任務中の軍隊を優先して通行させる場合、あるいはなにかしらの要因で国境で検問が行われている場合などがそうである。
特に上流階級の人間はきちんと身分を証明することにより、たとえ検問中でも手荷物検査すらされずに通行することが可能となっていた。ついでに同行している関係者も同様の恩恵にあずかれる。
上流階級の特権であり弊害でもある制度なのだが、リンソーディアの狙いはまさにそこにあった。
迷いの森で消息を絶ったことにより、ウィズクロークはヴェルフランドを事実上死亡という形で処理しているだろうとは思う。
しかし彼はアークディオス帝国の次期皇帝と目されていた存在だ。ウィズクロークからすれば最大限に警戒すべき相手であり、わずかでも生きている可能性があると判断された場合、確実に息の根を止めようと罠を張ってくることは容易に想像できた。
他国へ逃げられてしまうと手を出すことは一気に難しくなる。そのため国境を越えられないよう画策してくる可能性は十分にあった。
瞬く間に大国アークディオスを掌中に収めたその手腕は、敵ながら見事だったとリンソーディアは思っている。そもそも帝位継承権を放棄しているティルカーナ公爵家を全滅させたあたり本当に抜け目がない。
「どうでしょうか? 利害は一致していると思いますが」
リンソーディアの提案に、グレースは腕を組んで考え込んだ。
チェザリアンに帰るために腕利きの護衛が必要なグレースとエミリー。素性を隠してチェザリアンに入国したいリンソーディアとヴェルフランド。確かに利害が一致しているのでいい感じに協力できると思う。
「……そうね、条件としては悪くないわ。でもダンハウザー家の護衛であることを証明する制服も記章もないんだけど、どう説明したらあなたたちにとって都合がいいのかしら?」
「旅の途中で雇った傭兵とかで十分ですよ。ああ、いっそ荷物扱いしてくれても構いません」
とにかく穏便に国境を越えることができればそれで十分なのである。この際なので木箱か麻袋にでも潜り込んでやり過ごすのもありだと思うリンソーディアだが、見かねたヴェルフランドが待ったをかけた。
「荷物はやめておけ。なりふり構わなすぎて人であることを辞めるな」
「いや別に人を辞めるつもりは毛頭ありませんけど」
なにかを危惧したらしき幼なじみに真剣に止められてしまえばリンソーディアとしても強行はできない。荷物に紛れる作戦は次回以降に持ち越しである。
それから大まかに設定を詰めた一行は、リンソーディアが釣ってきた魚と解毒効果のある水薬で腹拵えをしたのち、『ダンハウザー侯爵令嬢とそのお供』という体でチェザリアンへと向かうことになったのだった。
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「……良かったのか?」
常歩で馬を進ませていたヴェルフランドがぼそりと小声で訊いてきた。彼の背中にくっついていたリンソーディアが「なにがですか?」と問い返す。
なぜか相乗りしている二人だが、それもこれもヴェルフランドが「ディア以外とは絶対に相乗りしない」と断固譲らなかったことが原因だった。
護衛するにあたり、リンソーディアは自分たちがグレースとエミリーを一人ずつ受け持つのが一番守りやすいと主張した。しかし肝心のヴェルフランドが「知るか」の一点張りで取り付く島もなかったのである。嘘泣きでの泣き落としも試みたが不審者でも見るような目で見られたためこの作戦も失敗に終わり、ついにはその一部始終を見ていたグレースに「危ない時だけ駆けつけてくれればいいから、あなたはあの人と乗ってあげなさいよ」と肩を叩かれるハメになった。
そんなわけで仕方なくこの組み合わせで馬に乗っている一行である。ちなみに後ろの馬はエミリーが操っていた。グレースも乗馬は結構得意らしいのだが、ドレス姿のお嬢様にしがみつく行為はエミリーの使用人としての矜恃が許さなかったらしい。
「お前、本当はルーダロットに行きたかったんじゃないのか」
「ああ、そんなことも言いましたっけ」
海を渡るのも大山脈を踏破するのもしんどかった時の話だ。あの時は一番楽に行ける遠方の地として大陸最南端のルーダロット王国の名を挙げたわけだが。
「私は本当にどこでも良かったんですよ。あなたが無事に生きていけるところなら、どこでも」
もし他に方法がなかったとしたら、どれほどしんどくても海を渡って逃げたと思うし、死ぬ思いをしてでも大山脈を突っ切って逃亡しただろう。
それでヴェルフランドが生きていてくれるのなら。
彼がどこを選んでも、リンソーディアは一緒に行くだけなのだから。
「それにしてもチェザリアンですか。フラン様は行ったことありましたっけ?」
「一度だけだな。それも随分と昔の話だ」
これから向かうチェザリアン王国は大山脈地帯の向こう側に位置しており、方角でいうと最北端だ。
それを考えると、最北端のチェザリアンから最南端のルーダロットに嫁ぐ可能性があったらしいグレースは、未来の侯爵夫人としてだけではなく正反対の気候にも慣れる必要があったということになる。他人事ながら結構大変そうだ。見合いすらすることなく逃げ出したようだけれども。
そういえば彼女が馬車から逃亡してまでこの見合いを拒否した理由をまだ訊いていなかった。興味はあるがお互い深入りしないほうが賢明なので、こちらから尋ねることはまずないだろうけど。
「じゃあ住みやすいかどうかまでは分かりませんね」
「ああ。しかも俺が行ったのは夏だったからあまり参考にはならないな。チェザリアンは半年近くが冬だというし、俺たちには未体験の気候だろう。特に盆地の地域なんかは極寒らしいぞ」
アークディオスとて冬は寒いし雪も降ったが、除雪が必要なほど降ることはあまりなかった。しかしチェザリアンでは『雪が降っているから今日は少し暖かい』という概念があるらしい。気温が低すぎると逆に雪が降らないのだとか。アークディオス育ちには驚異の環境である。
「今からでも行き先は変えられるぞ?」
ヴェルフランドが気遣わしげに提案してくれるが、今さら行き先を変えるのも計画を立て直すのも面倒臭い。なによりここまで来てグレースたちを見捨てることなどリンソーディアにはできなかった。
「大丈夫です。私の適応能力は野生動物並みだとよく褒められていましたので、豪雪地帯だろうと極寒地域だろうと特に問題はありません」
「お前が野生でも生きていけそうなことは昔から知っている。そうじゃなくてだな」
声を低くしてヴェルフランドは続けた。
「あいつらの護衛とか面倒臭くないか。今すぐ逃げてもいいんだぞ」
「さすが青い血が流れていそうな輩は言うことが人でなしですねえ」
隙あらばいつでもグレースたちを見捨てそうな幼なじみは相変わらずの冷血漢ぶりである。しかも新しい環境で生活することになるであろうリンソーディアを気遣っているのもまた事実なので、リンソーディアとその他諸々への温度差が酷くて聞いているこっちが風邪を引きそうだ。
一方、後方からついてきているグレースとエミリーも、やはり前には聞こえないような声音であれこれと話し合っていた。
「お嬢様、本当にあの方々を信用して大丈夫なのでしょうか」
「あら、エミリーは彼らのことを警戒しているの? 少なくともあの女の子のほうは信じてもいいと私は判断したけれど」
確かに胡散臭いどころか怪しすぎる謎の二人組ではあるが、あくまで利用し利用される関係であることを事前にはっきり伝えてくれたことは誠意の表れだとグレースはきちんと理解している。
ただ、問題はあのフランという名の青年のほうだった。あれはエミリーの言う通り警戒すべき相手だと思う。
幸い彼の連れであるディアがグレースたちを助けると明言してくれているので、その言葉を無視してまでこちらに危害を加えてくる可能性は低いだろう。しかし自分たちのせいでディアが傷つくようなことにでもなれば瞬時に消されることは目に見えている。くれぐれもディアには丁重に接しようとグレースは心に決めた。
「それにしても、ここがあの有名な『迷いの森』なのね」
「はい。迷い込んでしまえば二度と生きては出られないという死の森です」
その名の通り、足を踏み入れた瞬間に迷子になってもおかしくないほどの鬱蒼とした森である。
生息している野生生物たちは凶暴なものが多く、他の生息地のものより体が大きいとも言われているが、数多の困難に阻まれて詳しい調査は一向に進む気配がない。
植物に関しても毒性を持つものが極めて多く、森の中の空気自体がなんとなく毒っぽいとさえ言われているほどだ。そのため毒に耐性がない人間は短時間の滞在で死に至る場合もあるらしい。
そんな危険な森の中で、平然と野宿していたのがディアとフランの二人組である。自分たちが生き残っていたのは完全に奇跡や偶然の類いだし、今もこうして問題なく動けているのはディアがくれた解毒の水薬のおかげだ。そもそも彼らの護衛がなければ、遅かれ早かれ獰猛な野生生物に襲われていたことだろう。エミリーはぎゅっと手綱を握り締める。
先導してくれている二人は自分たちの正体を明かさなかったが、その所作は間違いなく貴族のそれであった。口には出さないが、恐らくグレースも気がついてはいるのだろう。
しかし訳ありなのはお互い様だ。この利害関係を維持するためにも、詮索し合わないのが最善であるということも分かっていた。エミリーが独り言のように呟く。
「本当に何者なのでしょう。お嬢様よりも少し年上でしょうが、まだまだお若い方々です。あの年齢でどれほどの修羅場をくぐり抜ければあのような……」
急にエミリーが言葉を切った。前方を行く護衛たちの動きに変化があったからだ。
歩かせたままの馬からディアがひらりと飛び降りる。そして驚いているグレースとエミリーに短く告げた。
「巨大な熊が二頭ほど私たちを追いかけてきているようなので片付けてきます。お二人はこのまま進んでいって大丈夫です」
「え」
後方へと走っていく彼女を慌てて目で追えば、確かにそびえ立つような巨体を持つ熊たちが自分たちを追いかけてきているのに気がついた。ものすごい勢いで迫りくるその猛獣の姿を直視してしまい、心臓が突き上げられたかのような恐怖に襲われる。
「きゃあああああああ!?」
「おい、大声を出すな!」
思わず漏れた悲鳴にフランが即座に苦言を呈する。しかしすでに出てしまっていたその悲鳴に触発されたのか、熊が大きな唸り声をあげて襲いかかってきた。その瞬間。
「大熊王の番ですか。肉を熟成する時間さえあれば美味しくいただけるというのに、無念です」
ズバッと。急所を目がけて躊躇いなく振るわれた二振りの短剣が、あっという間に一頭目を絶命させた。そして何が起きたのか理解できないままの二頭目もあっさりと仕留めてしまう。
二つの巨体がズンと地面に崩れ落ちた。あまりにも鮮やかなその手腕にグレースとエミリーは閉口する。
……たぶん、ディアが守ってくれているうちは何が起きても大丈夫だろう。
それは根拠がなくとも確信として二人の脳裏をよぎった結論だった。