01. お前ほかに心残りないのか
アークディオス帝国の冷酷非情な第三皇子、ヴェルフランド・セス・アークディオス。
兄弟たちの中で最も玉座に近いとされている彼のもとには、国内外から数多くの婚約者候補が日々送り込まれてきていた。しかし、やがてその行為は命がけであるということが広く知れ渡るようになる。
どんなに美女でも、どんなに才女でも、第三皇子はどの女性も決してそばに寄せ付けようとはせず、それどころか相手が気に入らなければその場で即座に斬り捨てて殺してしまうのだ。
血の滴った剣をぶら下げて、真っ赤に染ったマントを無造作に肩に引っかけて闊歩する第三皇子には、よほど親しい数人の者しか近づけなかった。
だが、そんな彼にもたった一人だけ心を開く女性がいた。
彼女の名は、リンソーディア・ロゼ・ティルカーナ。『帝国の盾』と謳われる武の名門ティルカーナ公爵家のご令嬢で、訊けば兄と同様ヴェルフランドとは幼なじみに当たる間柄だという。
よって人々は口を揃えて囁いた。第三皇子の婚約者候補として最有力なのは彼女であると――。
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「いや、ふざけてるんですか。私があなたの婚約者? 名誉毀損で訴えますよ」
もはや芸術品とも称される美貌に凄まじい険を刻んだリンソーディアは、あろうことか冷酷非情と名高い第三皇子を睨めつけながら吹雪のごとき声音でそう告げた。この手の噂を聞くのは初めてではないものの、今この時に聞かされると、その荒唐無稽ぶりに憤慨するほかないらしい。
なお、本来であればこの場で切り捨てられてもおかしくはない態度と物言いのリンソーディアに対して、ヴェルフランドは剣に手をかけるどころか、なんとなく気まずそうに目を逸らすだけだ。どうやら彼女と目を合わせたくない心境らしい。
「全部が全部俺のせいではないんだが……まあ一応謝っておく。すまない、俺が悪かった。お前を風避けにして悪かった」
「やっぱり半ば意図的に私を風避けにしてたんですか、この悪党が。まったくとんだ風評被害です。あなたのせいで私がお嫁にいけなくなったら、あなたの靴下全部片方だけ処分しますからね」
フン、と鼻を鳴らしながら冷たい目を向けてくる幼なじみに、悪党とまで貶められたヴェルフランドも「地味に困る嫌がらせだなオイ」と肩を竦めるしかなかった。
しかし彼女が本気で激怒したら枕の下にサソリを仕込むくらいはやりそうなので、靴下が左右でチグハグになるくらいの嫌がらせに留めるということは、そこまで怒ってはいないのだろう。少なくともヴェルフランドはそう思う。
ちなみにここは、皇宮の中でも立ち入りが制限されている皇子宮の一室で、第三皇子のプライべートスペースだ。
現在リンソーディアとヴェルフランドは丸いテーブルを挟んで向かい合って座っており、テーブルの上にはティーセット一式が用意されている。そのため表向きは『第三皇子と婚約者候補の親睦を深めるためのお茶会』に見えなくもないが、そもそも幼なじみである二人にとっては今さら親睦もへったくれもあったものではない。むしろこれ以上知り合いたくない。
少し離れたところから様子を見守っている使用人や騎士たちの手前、リンソーディアは対他人用の上品な微笑みを顔面に貼り付けて優雅にティーカップを傾けた。その所作の美しさに「さすがは腐っても公爵令嬢だな」と感想を述べたヴェルフランドには後ほど毒草でも送りつけてやる予定だ。せいぜい気をつけるがいい。
「しかしだな、俺だっていい加減辟易としているんだぞ。なまじっかお前を知っているせいで他の女たちの粗がどうしても目についてしまってな。もはや異性どころか霊長類だとも認識できなくなってきた」
「微妙に私を褒めていますが、その程度ではほだされませんよ。まったく、あなたの婚約者にふさわしいのは私とかいう悪夢のような噂が出回っているせいで私の心は真っ暗闇です。どうしてくれるんですか」
お互い仮面の微笑みを貼り付けながら、日ごろ溜まりまくっている鬱憤を相手にぶつけまくる。会話の内容が聞こえていない使用人や騎士たちは「あの殿下があんなに楽しそうにお喋りを……」と感動しているのだが、彼らが真実を知ってしまったとすれば果たしてどんな顔をするのだろうか。
そんな大して意味のない応酬が一区切りついたあたりで、二人は揃ってティーカップをカラにした。二杯目が欲しいところだが、仮にも皇子であるヴェルフランドに給仕の真似事をさせるわけにもいかない。そのため仕方なくリンソーディアがティーポットを手に無言で立ち上がった。ヴェルフランドは頬杖をつきながら自分のカップに二杯目の白湯が注がれるのを黙って見つめる。
幼い頃から一緒に過ごす時間が多かったせいで、彼女との間に遠慮という言葉は存在しないし、昔からなにかとお互いの足を引っ張り合っては、喧嘩も言い争いも山ほどしてきた。それが普通。でも。
「……お前のそういうところは、昔から結構好きだぞ」
「は? なに狙いの発言ですかそれ。鳥肌立つんでやめてください」
心底ゾッとしたような目のリンソーディアが、腹立たしげに小さなパンをちぎって礫のように投擲する。しかしヴェルフランドは余裕の表情で口でパンのかけらをキャッチした。ますます腹立たしい。そしてそれを見ていた外野たちは「殿下があーんしてもらっている!」と見当違いに沸き立っていた。どうやらものすごいフィルターがかかっているようだ。もさもさとパンを咀嚼しながらヴェルフランドは笑った。
リンソーディアとの間に遠慮という言葉は存在しないし、喧嘩も言い争いも山ほどしては、お互いの足をこれでもかと引っ張り合ってきた。それは本当。でも。
でも、彼女は一度だってヴェルフランドの評判に傷をつけるような真似などはしたことがなかった。
普段はどれだけふざけていても、『皇子』としてのヴェルフランドの邪魔をしたことは一度もなくて、出会ってから十年以上経った今でもそのやり方は変わらない。今日のお茶会でもそうだ。あくまでヴェルフランドを皇子として扱い、人前で恥をかかせるようなことは絶対にしない。
本人にとっては無意識に近い行動なのだろうが、こういうところも彼女が皇子の婚約者としてふさわしいと評価されてしまう要因の一つだったのだろう。
異様なまでに静まり返っている皇子宮に留まり続けながら、リンソーディアはわざとらしく嘆息した。
「あのふざけた噂が鎮火されないまま生きていくはめになるとは……それだけが心残りです」
「お前ほかに心残りないのか。というかそもそも生き延びられること前提か」
「当たり前じゃないですか。あのポンコツ陛下が生きて皇宮に帰還できたのは誰のおかげだとお思いで?」
皮肉げに笑うリンソーディアに「それもそうだな」と苦く返すヴェルフランド。
思い出すのは四日前のこと。ほとんど実戦経験のない皇帝陛下が、遠征先で隣国ウィズクロークの軍に襲われたのだ。
窮地に陥った皇帝は命からがらなんとか生きて皇宮に帰還したのだが、それは紛れもなくリンソーディアを含めたティルカーナ公爵家の決死の奮戦のおかげだった。たった二百の手勢で千を超える敵軍を相手取り、皇帝陛下を逃がすために時間を稼いだのである。
その結果、ティルカーナ公爵家は残らず討ち死にした。父に皇帝の命を託されて、隙を突いて皇宮まで不眠不休で駆け抜けたリンソーディア以外は、全員。生き残ったのは彼女だけ。リンソーディアは椅子の背にもたれかかって腕を組んだ。
「こうなったら仕方ないですね。乗りかかった船です。この私があなたを守るためにも一肌脱ごうじゃありませんか」
「いらん。よそで脱げ」
「まあまあまあ、そう言わずに。どうせこの国はもうダメです。でもそう簡単にあなたの命をくれてやるわけにはいきませんからね。諦めて守られてください」
「おい、先走るな。いいから俺の話を聞け」
勇んで立ち上がりかけるリンソーディアの手首を掴んで「座れ」と告げれば、彼女は渋々といった雰囲気丸出しで再び椅子に腰を下ろした。その様子を見て「あっ、殿下が公女様を引き留められた!」「もはや離れがたく思っておられるに違いない!」と無駄に沸き立つ外野どもはこの期に及んで元気である。いい加減うるさいので、ついにヴェルフランドは強制的に人払いすることにした。
なにか言いたげな彼らの手には十分すぎるほどの退職金を握らせる。ただしそれを使う日が来るかは、彼らが生きてこの皇宮から脱出できるかによるだろう。
そんな光景をぼんやりと眺めつつ、リンソーディアは皿に残っていた小さなパンをひとつ口の中に放り込んだ。
調えられたティーセット一式。けれどティーポットの中身は紅茶ではなく白湯であり、お菓子のかわりに用意されたのは砂糖なしの小さなパンだけ。
それでも貴重な薪を使って水ではなく白湯を用意し、ほぼカラに近い小麦粉を使ってまでパンをいくつか作ってくれた。
滅びを間近に控えた今この瞬間まで、ヴェルフランドのために尽くしてくれた彼らには心からの感謝を。
もともとは訳アリ軍団な第三皇子の部下たちだが、まさか落城間近になっても逃げ出さないほどヴェルフランドのことを慕っていたとは。他の皇子に仕えていたまともな連中は、とっくの昔に主人を置いて皇宮から逃げ出したというのに。空っぽな部屋の中、リンソーディアはひとり微笑んだ。
「だからこそ、地獄の底へは私と殿下だけで行きます」
もういいから逃げて生きろと、ヴェルフランドに突き放された忠義の部下たち。彼らの安否を確認できる日は、きっとこないのだろう。それはリンソーディアの中で二つ目の心残りとして確かに傷跡を残した。
皇帝の帰還と同時に始まった籠城は今日で四日目。
遠くで聞こえるかすかな戦闘音から、ついに籠城が崩れたのだと察しがついた。
この部屋に敵兵が辿り着くまで、あと少しだ。