這い上ってくる影
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ある日の昼下がり。気温の低い、肌寒い日和の日だった。
わたしは山手の方にある公園に来ていた。広い公園だった。グラウンドの占める面積が大きく、その他には幾つかの遊具がある。滑り台とかシーソーとか、そういった普通の遊具だ。
わたしは公園で――公園にはわたし以外に誰もいなかった――小高く盛り上がるドームの上に座っていた。石のドームだ。冷たい感触がする。だが、はしごを使ってのぼると、ちょっとしたビウーを見ることが出来る。大したことはない。ちょっと高い視点で、彼方の山並みを眺めることが出来るだけだ。
息を吐くが凍ることはない。前は白く凍ったものだ。冬も終わりで、春が近づいている。カレンダーを見ると早くも三月だ。年を跨いだのはごく最近のことの気がする。光陰矢の如し。時間の経過というのは早いものだ。
ドームの上に、海のライフセーバーが何かを監視するのに似た格好でいるわたし。寒い。手をすりあわせていささかの温もりを得ようとする。しかし得られる温もりなどほとんどない。
こんな時、過去に仲のよかった男が思い出される。その名前も思い出される。すると、たくさんのものがよみがえってくる。記憶という書物が開く。何とも感慨深いものだ。
彼はわたしを愛していた。わたしも彼を愛していた。相思相愛だった。しかしある時破局を迎えた。きっかけはしょうもないことだ。わたしと彼は口喧嘩をした。彼は堰を切ったように憤懣をぶちまけてきた。わたしは彼の鬼の如き形相を見たことがなかったし、また怒鳴られることもなかったので、心底肝を潰してしまった。わたしと彼の間に起こった喧嘩は、青天の霹靂であった。変動であった。
わたしは恐れ、怯え、彼のとうとうと出てくる暴言の流れをせき止めることが出来ず、ただ聞き入れ、受容し、忍耐するばかりだった。彼はわたしの肩を強く揺さぶると、地面に投げ付けるようにして倒した。
その時わたし達は公園にいた。この公園ではない別の公園。しかし時分はおおむね同じ、昼下がりだった。公園には二人の他には誰もいなかった。
倒れたわたしは勢いでグラウンドの砂利がめりこんだ手を眼前にかざしまざまざと見つめた。ぼこぼこにへこんだ手のひら。真っ赤に染まっていた。出血していたわけではない。恐怖という感情で昂奮していたのだと思う。彼もそうだったし、加えてそのわたしの手も、空恐ろしかった。
しばらくして彼は霧が晴れるようにして消えた。その後の動向は分からなかった。彼の連絡先は消え、わたしに残ったのは、その名前と、彼との付き合いで得た記憶だけだった。彼の顔立ちとか声とかはすっかり忘れてしまった。ひょっとすると、彼への恐怖が忘れさせたのかも知れない。
名前ばかりがわたしの記憶の書物のある範囲において、主語として多用されている。奇怪に感じるものだ。名前の付いた透明人間が、わたしと愛し合い、そして最後、がみがみとがなり立て、バイオレンスを振るうのだ。
春を迎えようとする冬の日。空は青く晴れ渡っている。雲は流れ、鳥が気持ちよさそうに翼を広げて滑空している。
ふと、はしごよりその金属の音がした。気のせいかも知れない。わたしは首だけで振り返る。すると、ドームのてっぺんにぬっと手が置かれ、わたしははっとし、首をのばしてよく見てみる。ごつごつとした男の手だ。勘違いをしていたのだろうか。公園には、他に人がいたのだ。それも、男だ。
ごくりと固唾を飲み込んで待ち受ける。だが、旋風が巻き起こり、わたしは目を閉じざるを得なくなる。ビュウと風が鳴って旋風が去ると、わたしは閉じた目を開く。
すると、男の手はもうなくなっている。気配さえない。思わず身震いする。寒いのだろうか。
青空にぱっと閃光が現出したように見える。強い光を鏡に当てた時のあのまばゆい閃光だ。一瞬だった。稲光に似た刹那的現象だった。また全身が揺さぶられるような揺動を感じた。地震だろうか。わたしは急激に惑った。そして、過日経験したものと同じ怯えと恐れを胸中に感じる気がした。
ふと見ると、わたしの手は真っ赤だった。
(終)