忘れられない香り
銘尾友朗さまの『夏の匂い企画』参加作品です。
今、私は、生まれて初めてできた“彼氏”なる存在と共にその古巣に来ている。
有り体に言えば、彼の実家に遊びに来ているのだ。
別段、結婚間近でその報告に来ているとかではない。
なにせ、私と彼は先月付き合い始めたばかりという、初々しい間柄だ。この前初めてキスしたばかりという、極めてプラトニックな関係なのだ。
キスしておいてプラトニックを標榜していいのかという点に若干躊躇いがないでもないが、唇と唇が触れ合うだけの、いわゆるバードキスとかいうものだったし、まあ、プラトニックと言ってもさほど問題はあるまい。
自慢じゃないが──というより自慢できるようなことではないが、私は男性とあまり接点を持たないまま育ってきてしまった。
そのため、男性というものに対して、とにかく免疫がないというか経験に乏しい。
私は2人姉妹の姉で、父は私が小学生の頃他界した。
親戚など数えるほどしかいないし、そもそもあまり行き来がない。
身近に男性がいなかったので、接し方がわからない。
もちろん、小中高と公立育ちだから、クラスに男子は普通にいた。
だが、あいつらは学校生活に必要な最小限の関わりでやり過ごせた。
5年生の時にスカートめくりされたのが原因でどうも苦手意識が芽生えてしまったらしく、距離を取らずにいられなくなってしまった。
原因がわかったところで解決するわけでなし、私にとって男性というのは、最低限用事が足りる程度に話せればいい相手でしかなかった。
奨学金で短大を出て就職し、晴れて二十歳にして借金持ちという輝かしいスタートを切った私は、意識してつましく生きてきた。
3つ下の妹はまだ短大生だし、甘ったれで奨学金ももらっていないから、母さんの負担が大きい。
一足先に社会人になった私としては、少額なりと仕送りもしなければならない。
こういうところ、姉は損だと思うけれど、女手ひとつで私達姉妹を育ててくれた母さんへの恩返しと思えば、さほど腹も立たない。
不思議なのは、こんな面白味の欠片もない私と付き合おうと言ってきた彼の物好きさ加減だ。
就職して1年が経ち、ガラケーからスマホに買い換えたものの、いまだにSNSの1つもやっていない私のような女と付き合って楽しいのだろうか。
彼──西尾桂──は職場の先輩で、私の指導係だった人だ。
彼は高卒だったけれど6年先輩だったから、年は私より4つ上。
他の高卒の先輩達が、どちらかというと大卒の人に対抗意識を燃やしているのに、彼はどこ吹く風という感じで飄々としていた。なんというか、余裕という感じで。
私に対しても、柔らかく微笑んで、丁寧に指導してくれた。
どちらかというと要領がよくなくて頭でっかちの私に合わせて、どうしてそうするのか、それが後にどう影響するのかを説明しながら、辛抱強く面倒を見てくれた。
だからこそ、私は1年で、それなりに使える人間と目されるほどになれた。
多分、他の人の指導だったら、こうはならなかっただろう。大卒の同期は、指導係と合わなかったせいで伸び悩んだ。彼女は私よりずっと頭の回転が早かったのに、評価が低いように感じる。こういうのは、巡り合わせなのだろう。私は自分の運の良さに感謝している。
先輩の下で指導を受けたのは1年間だけだったが、それから1年空けて、ついこの間、暑気払いの飲み会の二次会で口説かれた。
曰く「君とは気が合いそうだし、付き合ってくれないかな?」とのことだった。
正直、彼には感謝しているし、尊敬もしているけれど、恋愛対象として見たことはなかったから、とても驚いた。
驚いたけれど、嫌悪感は欠片もなかったし、好き嫌いでいうなら、男性としてはともかくとして好感を持っていたので、試しにお付き合いしてみることにした。…断る理由はなかったから。
「あの…私、男の人とお付き合いしたことがないので、どうすればいいかわかりませんし、どうやったら喜んでもらえるのかもわかりませんが、それでもよろしければ…」
承諾の言葉は、今から思うと何様だと言いたくなるようなひどいものだったけれど、それでも先輩は笑って受け入れてくれた。
23にもなって、初心な私に呆れることもなく、ゆっくりと寄り添ってくれる。
誰とも付き合ったことがないという私の言葉も信じてもらえているらしく、手を繋いで歩くことから始めて、キスするまでにデート4回を要した。
今回の旅行は、先輩の帰省に付き合わされたかたちだ。
草食系と噂される彼にしては、珍しく強引だった。
「歌織ちゃん、都会育ちだろ。
見せたい景色があってさ。着替えと水着だけあればいいから」
と、やたらと強く推してくる。
付き合うようになって、それまでの「中野さん」から「歌織ちゃん」に呼び方が変わったもののどこに行くにも何をするにも「~しようと思うけど、どうかな?」といって私の意思を確認してくる先輩が、この件だけは「一緒に来てほしい」とはっきり言ってきた。
はっきり言ってきたことは別に問題でもなんでもないし、むしろ普段が私に気を遣いすぎているくらいなのだけれど、私が固辞しても食い下がってくるというのは初めての経験だった。
色々話を聞くと、どうやら先輩は、うっかりご両親に私のことを話してしまい、連れてくるようしつこく言われていたらしい。
断り切れなくなった先輩は、ならばと私を海に誘うことで、実家に行く実益めいたものを求めたようだ。先輩の実家は海の近くにあり、海で泳いだことのない私を連れて行く理由になると考えたというわけだ。
私の水着姿など、先輩にとって益があるのかという疑問は残るが、とにかく一緒に先輩の郷里に行くことになった私は、先輩の選んだ水着と共に、ご実家にお邪魔することになったのだった。水着のデザインは、パレオ付きのワンピースというおとなしめのものにさせてもらった。
キスはした──拒否しなかったけれど、先輩のことを男性として好きなのか、私にもわからない。
男の人から好意を向けられたことはなかったし、男性を好きだと思ったのも、小学校1年の時の初恋以降一度もなかったから。
ただ、キスされて嫌だと思わなかったのだから、私も先輩に好意を持っていることは間違いないのだろうと思う。
手を繋いで歩くのも、気恥ずかしくはあるけれど、少し嬉しい気持ちになる。
ただ、今回の帰省に私が連れてこられた理由は、やっぱりわからない。
先輩が実家住まいならともかく、普通はご両親に会うのは、結婚が決まってからではないだろうか。
先輩のお母様に、なんて言ってご挨拶したらいいのだろう。
そもそも先輩のことだって、いまだに名前で呼べないというのに。
そうしてドキドキしながら、一応菓子折を持って、先輩のご実家にお邪魔するべく電車に乗った。
駅を出ると、先輩のお父様が迎えに来てくださっていた。先輩のご実家は、バスの便が悪くて、どうしても自家用車の移動になるのだそう。
「あの、中野歌織と申します。
お手数お掛けして申し訳ありません」
と挨拶したら、
「あ~、あんたが歌織ちゃんかあ。
気にせんでいいって。どうせ桂1人でも迎えに来ねばなんねえんだ」
と返された。これは、気を遣われているのだろうか。
それにしても、初対面でちゃん付けとは驚いた。先輩は、私のことをどのように説明しているのだろう。
ご実家に着くと、今度はお母様が出迎えてくださった。
「中野歌織と申します。このたびはご迷惑をおかけします」
と挨拶しつつ菓子折を手渡すと、
「桂、あんた、歌織さんにこんな気ぃ遣わせて」
と先輩が怒られた。
驚いて口を開こうとしたら、先輩が“いいから”と目で言ってきたので黙っていたけれど。
先輩は、悪くないのに。
客間に通されて改めて自己紹介して、しばらく4人でお話したけれど、とても緊張した。
その後、お母様から、私が泊まらせていただく部屋に案内された。
8畳の和室だった。まるで旅館のよう。私1人なのに、こんなに広い部屋に泊まっていいんだろうか。
部屋の隅に畳まれている布団を見ると、お泊まりに来たんだという実感が湧いてくる。
外泊なんて修学旅行以来。よそのおうちに泊まるなんて、それこそ初めてだ。
目を背けてきた不安が頭をもたげてくる。
…先輩、どうして私をここに連れてきたんですか?
夕飯をいただく間、話題は、職場での先輩の様子と、私と付き合うようになった経緯だった。
ご両親向けにオブラートに包んだ話になったけれど、考えてみると、入社したての時にお世話になって、その流れでお付き合いを始めた…という言い方をすると、とても自然な流れになる。
実際、私は先輩のお陰で仕事に慣れることができたのだし、尊敬もしている。その延長でお付き合いすることになったのも事実だ。
ただ、そういう話をしているうちに、ご両親、特にお母様の目が輝いていくのを感じた。やっぱり期待されているようだ。
襖がノックされた。
日本間でノックって、違和感がひどい。
って、返事!
「はい、どうぞ」
声を掛けると、「入るよ」という声と共に、先輩が少し申し訳なさそうな顔で入ってきた。
「悪かったね、父も母も妙にテンション高くてさ」
と謝ってくる。
「いえ、それは。
でも、先輩は、私のことをどういうふうにお話しになったんですか?
なんというか、妙に丁寧な扱いというか…」
「居心地が悪い?」
「良すぎて逆に悪くなっています。
少なくとも、職場の後輩で最近付き合い始めたばかりの女に対する扱いではないなと」
そう、まるで、結婚の挨拶に来た相手に対するもののように感じる。
それは、全く考えていないとは言わないけれど、まだそこまで考えられるような段階ではないのに。
私の言葉に、先輩は照れ笑いした。
「ああ、それは、まあ、ね。僕が彼女を連れてくるなんて言ったからはしゃいでるんだと思うよ。
ちょっと大げさすぎるとは思うけど、悪気はないからさ。許してやってよ」
「いえ、許すもなにも、私の方こそ突然お邪魔した立場ですから」
先輩のご両親が、結婚を期待しているであろうことはわかっている。
先輩は、こうなるとわかった上で、私を連れてきた。ならば、そういうつもりがあるということになる。…気が早すぎないだろうか。私にそれほど入れ込んでいるようには思えないのだけれど。
結局は、これも私の気持ちの問題なのだろうけれど、私にもわからないのだ。自分がどうしたいのかが。
「ああ、そんなことを言いに来たんじゃないんだ。ちょっとスイカでも食べようと思って誘いに来たんだよ」
スイカ? さっき夕飯をいただいたばかりなのに?
「スイカはほとんど水分だからね、寝る直前だとあれだし、今くらいがいいかなって。実は、僕は子供の頃、風呂の前に縁側でスイカを食べるのが好きだったんだけど、母がそれを覚えてて、用意してくれたんだ。
悪いけど、付き合ってくれないかな」
ああ、なるほど。
ご両親が気を遣ってくださったのか。それなら、ご厚意を受け取らないと。
「はい、ご相伴にあずかります」
縁側のあるおうちなんて、初めて見た。
連れられていった縁側には、線香みたいな匂いが漂う中、薄い三角錐に切られたスイカが、大きな皿にこれでもかと載せられていた。大玉の半分くらいあるんじゃないだろうか。皿の脇には、どんぶりが2つとふきんが2枚。塩やスプーンの類は置かれていない。そのままかぶりつけ、ということのようだ。一応、私は23の女性なのだけれど、その辺りは考慮されているのだろうか。
「あの、先輩? いったい何人で食べるんですか?」
「2人分だよ。うちじゃあ、1人四分の一くらいは食べるから」
それは、多分、常識的ではないと思います。
「このどんぶりは、皮入れですか?」
一応、訊いてみた。
「ああ、皮もそうだけど、主に種だね」
先輩は、スイカを一切れ取ってかぶりつき、どんぶりにぷっぷっと種を吐き出した。私にもそれをやれと?
「スイカはさ、こうやって食べるのが美味しいんだよ。お行儀悪くさ。
歌織ちゃんに、こういう田舎っぽいこと経験してほしくて、ここに連れてきたんだよ。
ほら、蚊取り線香なんて、向こうじゃ見ないでしょ」
たしかに。
先程から漂っている匂いは、蚊取り線香だったのか。
縁の下に置かれた円い缶の中から、白い煙がたなびいている。
「ほんとはさ、蚊帳も見せてあげたかったんだけど、さすがにもうないらしいんだよね」
「カヤ?」
カヤって、木の種類だっただろうか。それを見せたかった? なぜ?
「やっぱり知らないよね。
蚊帳っていうのは、蚊が部屋に入ってこないようにするために下げる網でね、部屋の四隅から吊すんだ。全部網でできた室内用のテントみたいなものって言えば伝わるかな。
僕もほとんど使ったことないけど、昔は重宝されたらしいよ」
どうやら、カヤというのは、部屋の中に網戸を張り渡すようなものらしい。
部屋の中に網でできたテントを張るというのは不思議な感覚だけれど、部屋の中に置く防音室なんかもあるわけだし、そういうものがあってもいいのだろう。
話しながら、先輩はもう四切れ目のスイカに手を着けている。
本当に、1人で全部食べかねないほどの勢いだ。
先輩が目で促してくるので、私も一切れ手に取ってかぶりつく。
「…甘い」
かぶりついたスイカは、なぜだかとても甘かった。
「だろ? このスイカは、水で冷やしたからね」
「水、ですか?」
どういうことだろう。
「冷蔵庫で冷やすと冷たくなりすぎて、甘みを感じにくくなるんだ。
だから、たらいに水を張って、そこで冷やすんだよ。
これくらいの冷え方が一番甘いと思うんだよね。
あと、このスイカは、今日市場で買ってきたものだから、食べ頃になってるってのもある」
「そうなんですか。本当に甘いです」
知らなかった。冷たくした方が美味しいと思っていた。
手に種を吐き出してどんぶりに入れていると、先輩が笑った。
「そんなにお上品にしてちゃ駄目だよ。
こうやって、手をベタベタにしながらかぶりついてごらん」
さすがにそれはどうかと思うけれど、先輩は食べながら私に促してくる。
仕方がないので、どんぶりに直接種を出してみた。
「そうそう、そんな感じで」
何が面白いのか、先輩はまた笑った。
蚊取り線香の匂いの中、縁側に座って食べるスイカは、たしかに美味しかった。
結局、スイカはほとんど先輩が食べたのだけれど。
翌日、朝ご飯をいただいた後、先輩は私を連れ出して小学校へと向かった。
先輩が卒業した小学校は、もう廃校になって、解体を待っている状態だそうだ。
校舎の周りをぐるりと柵が囲んでいて、近寄れないようになっている。
「来年には、解体されるらしいよ」
そう言った先輩の顔は、寂しそうだった。
先輩のおうちに戻った後、先輩から、お昼用のおにぎりを握ってほしいとお願いされた。
握ったことありませんと言うと、「じゃあ、お互いの分を握ろうか」と返される。
具として用意されていたのは、梅干し。お母様が漬けたものだそうだ。
「暑いってこともあるけど、僕はやっぱりおにぎりの具は梅干しが一番だと思うんだよね」
なんて笑いながら、ボウルに張った塩水に手を浸して、熱々のご飯を握る。
「熱いから覚悟してね」なんて言われたけれど、冗談じゃないくらい熱くて、落としそうになってまた笑われた。
ちょっとムッとしたけれど、先輩も「熱ち、熱ち」なんて言いながら握っている。これでは、怒れない。…怒る? 私が、先輩を?
そう考えて、先輩を少し近く感じていることに気付いた。
職場の先輩としてではなく、西尾桂という1人の男性が私の中に存在していることに、初めて気付いた気がする。
ようやくできあがった不格好なおにぎりを持って、海に出掛けた。
先輩の家から車で20分くらい走ると、海水浴場がある。
ここもまた、先輩の思い出の多い場所らしい。
綺麗な砂浜で、波消しのテトラポッドの向こうには、どこまでも広がっているかのような海があった。
むせるような潮の香りと、灼けた砂の匂い、下から照り返してくる太陽と、何もかも初めてだ。これまで、私にとって海というのは、電車の窓から見えるものだった。
着替えや貴重品などを海の家に預け、砂浜にパラソルを立て、シートを敷いて、その上にタオルの入ったバッグとおにぎりの入った保冷バッグを置いた。
先輩のバッグは、着替えが入っているにしてはやけに大きい。
「歌織ちゃんは、海で泳いだことないんだったよね」
「はい」
「じゃあさ、とりあえずは波打ち際で波と戯れてみようか」
先輩は、私の手を引いていく。ええと、ビーチサンダルはどうしたらいいのだろう。脱いだら、きっと足下が熱いはずだ。
「ああ、サンダルは、波打ち際で脱げばいいから」
なるほど。言われてみれば、波打ち際には、何足ものサンダルが揃えられている、サンダルを買う時に安物でいいからと言われたのは、こうやって放置することになるからだったのか。
腿の辺りまで水に浸かったところで、先輩に手を握られたまま2人で並んで、寄せてくる波を受け止める。
高いものだと腰の上まで来たりして、意外と力があって。
「きゃっ!」
波の勢いに負けて足を取られたら、先輩が手を引っ張って支えてくれた。いやだ、私、水着越しとはいえ抱きすくめられて…。
「大丈夫?」
きっと真っ赤になっているはずの私の顔のことには触れず、先輩はすぐに離れた。
それからもう少し波と戯れた後、一旦パラソルに戻って昼食だ。
保冷バッグの中には、おにぎりの他に冷たい麦茶のポットが入っている。
私の作ったおにぎりは先輩が、先輩の握ったおにぎりを私が、それぞれ食べた。
具が梅干しだけの単純なおにぎりなのに、とても美味しくて。もちろん、お米が美味しいとか自家製の梅干しが美味しいとかっていうのもあるのだろうけれど、そんなことより、浜辺で、先輩と2人で食べていることが一番の理由だったと思う。
そして、食べ終わって一息ついた頃。
「さて、海で泳いだことのない歌織ちゃんのために、こんなものを用意しました」
にっこり笑って先輩がバッグから出したのは、大きな浮き輪。
レジャープールにあるような大人用のものだけど、上が透明で金魚の絵が描いてあるファンシーな感じだった。
先輩は、バッグの中から黄色いポンプを取り出すと、あっという間に浮き輪をふくらませてしまった。
「早い…」
「さ、これ持って一緒に海に入ろう」
「あの、浮き輪1個しかありませんけど…」
「もちろん、これは歌織ちゃんが使うんだよ。ほら、くぐってみて」
子供のように浮き輪を腰に抱えた格好で先輩に手を引かれ、海へと足を進める。今度は、さっきより深いところまで。先輩は笑って手を引いて、どんどん先に進んでいく。
「あの、どこまで行くんですか?」
思わず訊いたら、
「そこのテトラポッド辺りまでだね。
そこから先は、離岸流にさらわれるかもしれないから」
と笑う。とても楽しそうに。でも、言っていることは笑いごとじゃないような。
「さらわれるんですか!?」
海って怖い。
「大丈夫、テトラの内側なら、そんなことないから」
「あ、あの、足が着かなくなったんですけど」
ずんずん進むうちに、足が着かなくなってしまった。もちろん、浮き輪があるから溺れるようなことはないのだけれど、初めての経験で不安が募る。
「大丈夫、そのための浮き輪だから」
先輩は、それでも私の浮き輪を押して先に進む。
今、私は、砂浜に背を向けて、両手で浮き輪を掴んだ先輩に押されながら進んでいる。先輩と会話はしているけれど、顔が見えないから、少し不安になる。顔を見て話したい。
「この辺でいいかな」
そう言って、先輩は進むのをやめた。
浮き輪ごと体を回されて先輩の方を向くと、先輩は浮き輪に腕を載せて体を波に浮かせていた。
やだ、先輩の顔がちょうど胸の前に…。
でも、先輩はなんでもないみたいに、私を見上げて
「どう? 波に揺られてるのも楽しいでしょ」
と笑った。
時折、岸に戻って休んだりしながら夕方まで遊んで。
私が着替えている間に、先輩がパラソルなんかを片付けてくれて、また先輩に手を引かれて高台に連れて行かれる。
「なんですか?」
「テトラポッドがあるせいで、ここからじゃないと見えないんだ。
ほら、もうすぐ夕日が沈むよ」
先輩が指差す先を見ると、夕日が海面のすぐ上に見える。
そうか、日本海だと、夕日が海に沈むんだ。
そのままじっと見ていると、夕日はゆっくりと海に吸い込まれていった。
「綺麗…」
「歌織ちゃんに見てもらいたかったんだ。
これが僕の原風景だよって。
昨日のスイカも、今日の学校もそう。
僕はさ、こういう田舎で育ったんだ。きっともうここに戻ってくることはないけど、でも、僕は都会人の感覚にはなりきれなかった。
周りから草食系って言われてるのは知ってる。たぶん、こういうゆったりしたところで育ったせいでのんびりしてるからだと思う。
歌織ちゃんには、それをわかった上で僕と付き合ってほしいんだ。できれば、一生」
それって、プロポーズ、ですか? まだ付き合い始めたばかりなのに。
でも…。
「私、は…そんな先ぱ…桂、さんが、好きです。
意外と子供っぽいところも、ガツガツしていないところも。
男の人は怖くて苦手ですけど、桂さんは怖くありません。
でも、本当に私でいいんですか? 思っていたのと違うかもしれませんよ」
「一昨年1年、傍で見てたんだ。歌織ちゃんの人となりはわかってるつもりだよ。
了承と受け取っていいね?」
桂さんは、そう言って私を抱きしめてくれた。
うっすら汗ばんだ体から感じる男の人の匂い。でも、嫌な匂いじゃない。
ドキドキして、でも落ち着く、不思議な感じ。
「はい。よろしくお願いします」
この潮の香は、きっと一生忘れない、と思った。