No.07 FUMIKIRI
体に強い風が当たった。
目の前で電車が駆け抜けた。
そんなこと当たり前だ。
だって踏切の前だもの。
ああ、そうか。
最近は車での移動が多かったからこんな風さえ感じなかったんだな。
黄色と黒の棒が世界を隔てる。
赤に点滅する矢印、鳴りやまぬサイレン。
ああ、もう日が沈む。
あと十分もすれば闇の世界がやってくる。
うーん。
ああ。
ふう……長い。
いつまで待たせるんだ。
いつまで俺をこの位置にとどまらせるんだ。
向こう側に自らが進む道は見えているというのに。
コンビニへと続くドリームロード。
この目にはしっかりと映っているのに決して届かない向こう側。
ああ、なんて文学的。
なんて言ってる場合じゃない。
がしかしだ。
考えてみると俺はこの空虚な時間に対する怒りを誰にぶつければいいのだ。
さっき鳴り始めた時に渡っちまっておけばよかったんだ。
しかし筋肉痛のこの足でのダッシュは荷が重すぎた。
ちくしょう。
それにしてもこんなにも何もすることがないことがあろうか。
こんなに豊潤な時代にすごしていて。
ああ、わかっているよ。
携帯の電源が切れてしまったからこんなにも退屈なんだ。
いや、そんなに女子高生ほどは使わないよ。
ちょっとニュースのトピックスとか見たりさあ、できるじゃんか。
うん、手持無沙汰ってこういうことを言うんだな。
百科事典に手持無沙汰のページがあったら今のこの俺を掲載してほしいよ。
……危ない。
体の血が一瞬で引いたような気がした。
踏切の向こう側で母親と並んでいた幼児が踏切をくぐろうとしているじゃないか。
そしてその母親はママ友と談笑して右を見ているが、その左側でよちよちと歩き出しているぞ。
おい、マジでやばいって。
電車来るって。
気づけ、気づけ、気づけ。
……気づいた。
またも強い風。
こんなに大きい音だったんだな、電車が通り過ぎる時って。
ああ、でも良かった。
こんなスリルほしくありません。
なかなかこどもは目が離せないよな。
親になったことないけど。
おれもこんなくらいの時はさんざん迷惑かけたんだろうな。
ああ、こんどは泣き出したよ。
母親が抱きかかえてるよ。
踏切の音でその子の泣く声は聞こえないけど、ありゃ相当の音量だろうな。
やっぱ母親は大変だ。
それにしても長いな。
ほら、沈み始めたよ。
踏切待っている間にロマンチックな夕景の一部始終を拝めそうだよ、全然うれしくないけど。
ああ、イライラする。
ねえ、おばさん。と声をかけたくなるくらい、おれの隣の車に乗っているおばさんは顔がイライラしている。
そしてハンドルを握った手の指でリズムをとっている。
わかりやすい描写。
まだいいじゃないですか。
そっちにはラジオなりテレビなり付いているでしょう。
そして車内だから空調もオッケーじゃないか。
……なんか寒くなってきた。
この頃太陽の有無での温度差が激しすぎる。
今まで俺の快適温度を保っていたおひさまが沈んでいるのだから当然だ。
やっぱり何かひっかけてくれば良かったけど出る前は暑いくらいだったんだ。
そして俺はいつまでここにいるんだ。
渡りたい、今までかつてこんなにも踏切を渡りたいと強く願った人物がいただろうか。上がれ、遮断機よ、上がれ。
……強い風。
また一つ通り過ぎましたと。
なのに矢印は両方点滅している。
いやいや、知っていますよ。
ここが開かずの何とやらだってことは。
もっとすごいところがあるらしいから準開かずの踏切ってことは知っている。
がしかし、こんなにも長いものなのか。
そもそも俺はどうして踏切を渡るんだ。
なんか理由すら分からなくなってきた。
そうだ、そうだ。
コンビニにビールを買いに行くんだよ。
仕事から帰ってあると思っていた冷蔵庫のビールがなかったんだよね。
この落胆のひどいこと。
夏は過ぎたといえ、やっぱり仕事帰りのいっぱいは準備しておきたいもんですよ。
仕方なく適当に着替えて今、ここですよ。
危うくビール買うことより踏切渡ることが第一目標みたいになってたよ。
あ、でも踏切渡らないとコンビニ行けないからそれで合ってんのか。
もうどうでもいいよ、そんな理屈。
やばい、退屈すぎて脳内がどうでもいいことを考え出したぞ。
いかんいかん。
そもそもだよ、奥さんとか彼女とかいればさあ、ビール冷やしといてみたいなことを言えたわけだよ。
でも独り暮らしじゃんか、俺。
なんか寂しさもプラスされてきた。
踏切で待つってあんまりいいことないなあ。
レントゲン一回分くらい寿命が縮みそうだ。
横でいきなりアクセルの音が聞こえた。
さっきのおばさんだ。
ついにしびれ切らしたんだバックして引き返したよ。
どこか別の方面から回るんだろうなあ。
ここから行けば少し遠周りになるけど高架下の道路があるからなあ。
でそうやって遠回りしたとたん、この遮断機が上がったりするんだよなあ。
……甘かった。
まだまだかかりそうだ。
はい、強い風。
もう日も半分くらい沈んだよ。
お空も暗くなり始めてるよ。
……うわ、すごくきれいだ。
今日は天気が良かったのか夕焼けがめちゃくちゃきれいじゃないか。
西日がぽっかり浮かんだ雲に反射して一枚の芸術を見ているようだ。
空には茜色と薄い青、雲の影が薄くグレーに映って素晴らしい景色だ。
写真とっておこう。
携帯、携帯……そうそう、そうだったね。
電源切れた携帯ってなんの役に立つんだよ。
プラス思考に行こう。
ここで踏切に引っかかったからこそこんな素敵な空を見ることができるんだ。
目を正面に戻す。
こどもが泣きやんでいる。
母親はこどもを抱えたまま、まだママ友と談笑している。
よくそんなに話すことがあるんだなあ、俺もかなり自問自答してるけど。
アクセルの音。
さっきのとは別の車がおれの横にとまる。
今度は男だ。
まだ表情は余裕だ。
なんだか腹が立つ。
この遮断機が上がればみんな一斉にわたる。
俺はこんなに待っているのにこの車と同じタイミングでここを渡るのだ。
おれの今までの苦労はなんだったんだ。
リタイア者もいる中での過酷なレースを勝ち抜いてきたこの俺の努力 は……はい、無駄な妄想、終わり、そして強い風。
やった、点滅の矢印が一つになった。
次の電車が行き去ればこの鉄壁の壁が開く。
頼む、次の電車が来るまでもう一方の矢印は我慢してくれ。
……遅いな、なかなか来ない。
でもまだ点滅は一つの矢印だ。
いいぞ、その調子だ。
やったな、もうすぐ渡れるぞ。
心の声で正面のこどもにメッセージを送ってみる。
届くわけないって
……うっ。
そのこどもの隣にやってきた女性。
なんてタイミングだ、あれはエリちゃんじゃないか。
もうそろそろ一年くらいの片思いの相手だよ。
気まずい、気まずい、気まずすぎる。
今誰か俺のこと、小心者っていっただろ。
その通りだよ。
うわ、なんか合わせる顔がねえ。
なんか学生の頃、あんまり話したことないけど一応クラスメイトですって子と道でばったり会った時の感じ。
わかるだろ。
わかるよね。
俺、誰に話しかけてんだよ。
ああ、ちょっと訂正、訂正。
遮断機上がるな、上がるな。
幸い向こうは俺に気づいていない。
俺も相手の姿を確認してからは適当に顔の方向をそらす。
できれば引き返したいけどこれだけ待って引き返すのは試合を棄権したような感じで嫌だからな。
何の試合かはわからないけど。
このまま視線そらしたまんま気づきませんでしたよという感じですれ違えばいいんだ。
それが一番だ。
でもなんか気になってちらちら向こうを見てしまう。
ちら、ちら、もっかい、ちら
……あ、目が合った。
というか向こうは口をあけている。
完全に気付かれた。
そして俺は目線をそらす。
最悪だ。
なんか俺の印象すごく悪くないか。
どうしよう、このまま目線そらしたままだとなんか空気がおかしい。
いや、まてよ。
これは見方によればチャンスじゃないか。
もう一度、もう一度見よう。
相手の目をまっすぐに
……強い風、そして車輪が線路にぶつかる音。
体内の鼓動、これは電車の振動か、それとも。
矢印は一つ、つまりこの電車が行くと間違いなく遮断機が上がる。
風は俺の髪を、服を、そして心までを揺らす、揺らす、揺らす。
風がふと止む。
遮断機が上がる。
空はもう薄い夜の色だ。
アクセル音が聞こえる。
主婦の談笑が聞こえる。
ひとりの女性が向こう側にいる。
目線が合った。
俺、何のために踏切渡るんだっけ。