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No.03 ありがとう、そら

 私が彼女と初めて会ったのは私が通う工場の広場、八月の焼けるような日差しが降り注ぐ中だった。

 私と同じ黒のもんぺを穿き、小豆色の木綿に身を包んだ彼女は木製の朝礼台に座り、空を見上げながら歌を口ずさんでいた。

「こーこはお国の何百里……。チャラーラーラー」

 どうやら続きを知らないらしい。私がそれに続いた。

「離れて遠き満州まんしゅうはー」

 私の声を聞いた彼女は私を見るなり明るい笑顔を見せた。口の両端に笑窪が見える。

「ありがとう、続きを歌ってくれて」

 私はすすで黒くなっている頬を少し赤らめて応えた。

「まあ私もあんまり知らないんだけど……、その歌好きなんだね」

 彼女は表情を曇らせて首を横に振った。

「全然、ほんとは華やかなものを歌いたいんだけど、この非常時にそういうもの歌ったらどこから文句を言われるか分かったものじゃないわ。だから軍歌で我慢しているわけ」

 四年前の冬から始まった戦争は私たちの生活から華やかさを奪っていった。横文字の言葉は敵国の言葉」とされ日本式にされたり、「贅沢は敵だ」と言っては質素な生活を押し付けられたり。それだけではなく最近は日々の食料を手に入れるのも一苦労だ。

 街を行くみんなは「非常時、非常時」と言って暗い表情を浮かべている。

 それとは対照的にラジオからは勇ましい兵隊さんの活躍が日々聞こえているが、どうもうそ臭く聞こえる。

 そんなみんなが沈んでいる生活を送っている中、空を見上げている彼女がなんだか新鮮に思えたのだ。

 工場のほうから休憩の終わりを知らせる鐘の音が響いてきた。

「大変、そろそろ仕事に戻らないと班長に怒られるわ、あなたも戻らないと」

 私が声をかけると、彼女は朝礼台から飛び降りて私の隣に並んだ。背は私より少し大きいといったところか。

「戻るけどさー、その前にあなたの名前を教えてよ」

「え、私? 私は中田安寿なかた あんじゅよ」

 私の名前について人は時々「敵国人っぽい」と難癖をつける。

 だから本当はあまり名乗りたくないのだけど、しょうがなく軍歌を歌う彼女なら平気な気がしたので、私は躊躇無く答えた。

「へー、安寿か。いい名前だね。私はそら。毛利もうりそらよ。昨日からこの工場で働いているの」

 そらは名乗ると笑顔で工場へ向かっていった。私も急いで彼女の後を追った。


 次の日も彼女は朝礼台に座り空を眺めていた。今日も八月の暑い日ざしが降り注いでいる。

「そらー、休憩時間とはいえそんなに日差し浴びていたら日射病で倒れちゃうよ」

 私が注意すると、彼女は私に視線を合わせず、空を見ながら答えた。

「このくらい暑さならかわいいものよ、どうってことないって」 

 ここで初めて私は彼女がいつも東の空を見ていることに気がついた。

「そらー、東の空に何かあるの?」

 彼女の表情が少し暗くなったような気がした。

「うん……、ちょっとね」

 休憩の終わりを知らせる鐘が広場に鳴り響いた。


 翌日は朝から警戒警報けいかいけいほうが発令され、工場は休みかと思ったが、午前十時過ぎにはそれが解除された。私はそれを知ると家の防空壕から出て工場へと向かった。

 そらも来ている。そらは私を見るなり

「今朝の警報、何も起こらなくてよかったね」

 と、笑顔を浮かべて私の手を握った。

 ひどく冷たい手。

「本当によかったね」

 そらは心の底から喜んでいるようだった。

 それから一時間が過ぎて十一時の休憩時間。今日もそらは朝礼台に座って空を見ていた。今日は朝からもやがかかって視界が悪く、それが晴れた後でも空は厚い雲が覆っていた。ただし雲の中央には一筋の裂け目が走り青い色を覗かせている。

「そらー、今日も空の観察?」

「うん、私空を見るのすきだから」

 いつもより彼女の声と笑顔に元気があるような気がした。今朝何も無かったのがほんとうに嬉しかったのだろう。

 しかしその直後、彼女は顔を曇らせ呟いた。

「来る……、こっちへ来る……。やっぱりここが……」

 そらは立ち上がるなり私に向かって叫んだ。

「みんなを呼んできて、そして防空壕ぼうくうごうへ逃げて!」

「え? だって警戒警報はもう解除されたんじゃ……」

「いいから!」

 彼女の真剣な声に圧倒された私は広場にいる仲間に向かって大きく叫んだ。

「みんなー、防空壕へ逃げてー」

「早く、あいつが来る前に早く!」

 そらも叫ぶ。あいつって誰だ? 聞いてみたいけどそんな暇は無さそうだ。

 みんな怪訝そうな顔をしながら防空壕へと入っていった。その様子を見たのか工場の中からも数名ほどが外へ出て防空壕へ向かう。

「こら! お前らどこへ行くんだ! 工場に戻って働かんか!」

 いかにもたくまし体つきの班長が防空壕へ向かう女工たちを捕まえようと胴巻声を上げながら外へと飛び出してきたが逆にそらに捕まってしまった。

「班長、緊急事態です。防空壕に逃げてください!」

 班長の太い腕をそらは力強く掴んだ。

「も、毛利! 痛い、痛いって」

 班長が痛がるなんてそらはどれだけの強さで掴んでいるのだろう。私は不思議でならない。

「早く、あいつが来る前に早く防空壕へ」

「ああ、分かった。なんだか分からないがお前の言うとおり防空壕へ行く。行くからこの腕からその冷たい手を離してくれないか。痛くてたまらん」

 そらが手を離すと班長の腕にはくっきりと彼女の手のあとが残っていた。

 そらに導かれるままに私と班長は防空壕へと向かう。

 防空壕は工場の裏山にある。分厚い鉄製の扉を開けて数十メートル坂を下りていくと。人が三十人ほど座れる空間に出る。そこに私たちの班三十一人全員が座った。

「いいですか、私がいいと言うまで決して外に出ないで下さいね」

 そらはそこにいる一人ひとりの顔を見ながら低い声で注意を促す。

「そら、さっきから『あいつ』とか『来る』とか言っているけど、いったい何なの?」

 私が尋ねるとそらは「それは……」と頭を抱えた。

「詳しくは言えない。だって私もよくは知らないから……。だけどこれだけは言える。地獄だよ」

 地獄? その昔親戚の葬式でお寺に行ったとき地獄絵図を見たことがあるけど、その地獄なのかな? その絵図には地獄の業火に焼かれる人々、赤い血の池で溺れる人々、針の山に苦しむ人々などが描かれていた。まさに地獄とはこのようなものなんだな、と私はその時思ったのだが……。その地獄が現実のものとなるのだろうか?

「みんな耳をふさいで、姿勢を低くして。来る! 来るよ!」

 そらが激しい声を上げる。私はそれに従い耳をふさぎ、土の上に正座して背中を丸めた。みんなも同じ姿勢をする。

 それから数秒後……。外から大きな激しい音が響いてきた。続いて激しい揺れが防空壕の私たちを襲った。

「な、なんだ? 敵の空襲か?」

 顔を上げて辺りを見回す班長の頭にパラパラと土が降り注ぐ。

 揺れは十数秒ほど続き、やがて止まった。そして静寂がこの防空壕を支配する。かすかに遠くから聞こえる音を除いては。

「もう、出ても大丈夫かな……」

 班の一人が頭に降った土を払う。

「もうしばらく待ったほうがいいんじゃない」

 私が止めるとその子は立ち上がろうと浮かした腰を下げた。

 それからどのくらいの時間が経ったのか分からない。外からは雨の音が聞こえてきた。

「あ、雨だ……」

 雨の場合、上空を雲が覆っているため敵機も狙いを定めにくい。もう安心だと思った誰かが立ち上がり、出口へと向かう。

 それに続いて一人、また一人と立ち上がり、出口へと向かう坂を上っていく。座ったままの私の耳にやがて分厚い鉄製の扉が開かれる音が聞こえてきた。続いて聞こえてきたのは悲鳴。

「こ、工場が! 燃えている!!」

 私は仲間をよけながら坂を駆け上がり防空壕の外に出た。


 燃えているのは工場だけではなかった。周りの家々、木々がすべて燃えていた。あるいは焼け爛れていた。辺りを燃やす火は雨が降り注いでもその勢いは止まらない。

 灰色の雲から降り続ける雨。私は空を見上た。頬に雨が当たる。その感触がいつもの雨とは違うような気がした。頬についた雨水を指で拭って見る。

「……!」

 真っ黒な雨。何かの灰だろうか。灰が雨水と共にこの街に降り注いでいた。

「班長ー、『そら』の姿が見当たりませーん」

 誰かの声に私はそらの存在を思い出した。

「何言っているんだー。うちの班には『そら』なんて者はいないぞー」

 班長の声に私は驚いた。私は班長に詰め寄る。そらはさっき班長と話しをしていたではないか。

「『そら』はいないって、確かにさっきまで『そら』はいたじゃないですか。さっきほら、こうやって、班長の腕を……」

 班長の腕からは先ほどそらがくっきりと残したはずの手のあとが消えていた。私は愕然として辺りを見回す。

「そらー、どこに行ったのー!」

 黒い雨が降り注ぐ中、私は叫んだ。しかし何度叫んでもそらからの返事はない。彼女は忽然と姿を消してしまったのだ。

 だけど私たちにはそらを探す時間が無かった。いやそれどころではなかった。なぜなら、そらの言う「地獄」がこの街を襲っていたのだから。

 私たちは自分の身を守るだけで精一杯だった。その中で「地獄」の被害にあったであろう人を何人も見た。どの人も、かつて見た地獄絵図よりもひどい有様だった。

 私たちの住む長崎ながさきを襲った「地獄」が何者であったのかを知ったのは、それから数年後のことである。


 そらと出会ってから十年後――。私は彼女と再会した。場所は広島ひろしま市の平和記念資料館へいわきねんしりょうかん

 資料館の完成を祝うために長崎市民の代表として訪れた私は、そこで原子爆弾が落とされる直前と、落ちた後の広島の様子が映し出されている写真を鑑賞した。

 その中に一枚の写真があった。

 

 ――広島県産業奨励館ひろしまけんさんぎょうしょうれいかんで働く人々――


 その写真の中にそらがいた。初めて私と会ったときの笑顔を見せて――口の両端に笑窪をくっきり浮かべて――。

 この奨励館は爆心地の近くにあったため建物は外枠を残して崩壊し、中にいた全員が原爆の熱線と爆風にやられ、即死だったという。瞬間的に私はそらがあの日――八月六日にこの奨励館にいたんだな、と思った。あの日、雲ひとつ無い広島の空を飛行機が一筋の線を描いた。そしてその線から原子爆弾が投下された――。

 そらと初めて会ったのがその翌日の八月七日である。そらは次に原子爆弾が落とされるのが長崎だと知り、一人でも多くの人を助けようとしたのかもしれない。私たちはそらに助けられたのだ。

 そらがいた奨励館は今「原爆げんばくドーム」と呼ばれている。周囲にある柵に手をかけてドームを除いてみる。ドームの瓦礫はその当時のままらしい。その瓦礫の中にそらが座っているのが見えた。彼女はもんぺ姿で空を見上げていた。

 あれから十年――私はもんぺを脱いで上質の絹に身を纏っているけど、あの日で時間が止まった彼女の姿は変わらない。

「そらー、ありがとー!」

 私はたまらずそらに向かって叫んだ。そらは私の声を聞くと振り向いてあの笑顔を見せてくれた。

――久しぶりだね、安寿。元気だった?――

 その笑顔を見て互いに頷いた私たちは空を見上げた。目が痛くなるほどの青い空に飛行機が一筋の雲を描いている。

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