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No.09 羅漢さん

 ねっとりした夢に沈んでいた。

 遠くに、青く澄んだ空が見えた。ちぎれ雲が浮かんでいる。そこまで行けば、自由になれるような気がした。やみくもにもがいて腕を振り回す。右手の甲が何かに当たった。痛みで意識が覚醒する。プールの底から浮かび上がる気分で、私は目を覚ました。

 秋だというのに、Tシャツが少し汗ばんでいる。窓を開けると、風に乗って金木犀が香った。

 足元にCDが一枚落ちていた。空色のジャケットには見覚えがあった。五月の晴れ渡った日に、尚哉から貰ったものだ。あれから五ヶ月が過ぎた。ケースを開くと、手製のメモが挟んである。書き殴ったような文字で、たった一行記されている。


 みーなへ  もし良かったら僕とつきあってほしい  尚哉


 こんなメモが入っているなんて、CDを渡された時には知らなかった。無造作に受け取った自分の態度を思い出し、胸が痛む。尚哉の気持ちが受け止められなかった私に、これを持っている資格はない。返しに行くべきではないか。不意にそう思った。


 尚哉と私は、幼稚園の頃からの腐れ縁だ。当時、私たちが住んでいたのは、日当たりの良さだけが取り柄の、2DKのアパートだった。一緒に登園し、帰ってからも毎日のように遊んでいた。疎遠になったのは、尚哉たち一家が戸建てに引っ越してからだ。小三の時だった。

 高台にある、白い壁とオレンジ色の瓦屋根の新居は、尚哉の母、真行寺のおばさんが手作りするバースデイケーキみたいにきれいだった。おばさんは引っ越した後も私を歓迎してくれたが、母はそれを快く思っていなかったようだ。

 こぎれいな一戸建てに移り住んだ真行寺家と、離婚が成立しても、父からの養育費が滞る我が家。高校生になった今なら、母の気持ちが少しわかる。彼女なりの羨望と嫉妬の表れだったのだと。


 寝乱れた髪の毛を手早く束ね、羽織ったパーカーのポケットにCDを入れた。緩やかな坂道を行くと、懐かしい家が見えた。

「まあ、久しぶりねえ、水菜みなちゃん。すっかりきれいなお嬢さんになって、見違えちゃったわ」

 無沙汰を詫びる私に、おばさんの眼差しは昔と変わらず穏やかだ。

「ちょうどよかった。さっきケーキを焼いたところなの。キャラメルシフォンよ。いま紅茶をいれましょうね」

 嬉しそうに語るおばさんの様子に、CDを返しに来ただけですとは、言い出せなかった。諦めてスリッパに足を通した。

 生クリームが添えられたシフォンケーキは、頬張ると淡雪のように溶ける。香りの良い紅茶を飲みながら、おばさんの話を聞いた。尚哉と私が幼稚園のお昼寝の時、隣同士じゃないとイヤだと互いに駄々をこねたこと。同じアパートに住んでいた頃、どちらかの家で遊び疲れると、そのまま寝て朝になってしまったことなど、あらためて聞くと気恥ずかしい。

 ふと首筋をひんやりとした空気が撫でた。窓も玄関も開いていない。不思議に思っていると、

「あら、いま羅漢さんが通ったのね」

 おばさんは事もなげに言った。唐突な言葉に、私は面食らう。

「風もないのに空気が流れる感じがするでしょう? この家は、霊の通り道になってるかもしれないわね」

 そんな現象に遭って怖くないのだろうか。

「風が流れるだけで、特に実害はないの。小学生の頃だったか、尚哉がそれを『羅漢さんが通った』って呼んでね」

 怖さはまったく感じないのよと、おばさんは微笑み、転がるようなソプラノで、懐かしいわらべうたを口ずさんだ。


 羅漢さんがそろたら まわそじゃないか よいやさのよいやさ


 歌声に呼応するように、ドアチャイムが鳴った。回覧板を届けに来た訪問者は、おばさんを話し相手に、帰る気配がなかった。諦めて食器を片づけに立ち上がる。きれい好きのおばさんらしく、台所は磨きこまれている。

 カウンターの上には、さっき食べたキャラメルシフォンの他に、リンゴのタルト。ブラウニーにパウンドケーキ。すぐにでもケーキ屋が開けそうな量だ。

 熟れすぎた果実みたいな匂いが鼻をつく。薄緑色の抹茶クリームを塗られているように見えたケーキは、近づくとカビに覆われていた。小さな悲鳴が漏れる。その隣には、形の崩れた焦げ茶色の物体がある。元はフルーツケーキのようだったが、透明なケーキカバーの内側では、小バエが二匹もつれあって飛んでいた。

「水菜ちゃん」

 呼びかけられてギクリとする。

「話の長い人で困っちゃうわ。あら、見つかっちゃったのね。うふふ、尚哉がね、母さんの作るケーキは世界一だから、たくさん焼いてって言うのよ」

 私は相槌も打てず、呆然と見つめ返す。楽しげに語るおばさんの表情から、仮面が剥がれ落ちるように笑顔が消えた。

「ああ、何を言ってるのかしら。尚哉は……もういないのに」

 支えを失ったように床にへたりこむ。か細い泣き声が、私の胸を衝いた。

「尚哉は死んだってわかってるはずなのに。水菜ちゃん、あなたが見つけてくれたのよね」

 あの日、学校の花壇のそばで倒れていた尚哉を発見したのは、下校しようとしていた友人と私だった。花壇のレンガには赤黒い染みが広がり、腕はありえない方向に曲がっていた。救急車を呼んだが既に事切れていた。校舎三階の庇には上履きで滑ったような痕があり、そこから転落したのではと思われた。事故と自殺の両面で捜査されたが、結論は出なかった。遺書も見つかっていない。

「尚くんに借りていたCDを見つけたんです。今日はそれを返しにきました」

 嗚咽がやむのを待って話しかけると、おばさんは泣き笑いの表情になった。

「あの子を思い出してくれてありがとう。尚哉の部屋は、まだそのままにしてあるの。どうかゆっくりしていってね」


 二階にある尚哉の部屋は、夕暮れの陽射しを浴びて、フローリングが鈍く光っている。机に積まれた辞書や参考書、ベッド脇に置かれた音楽雑誌。ただいまと言って鞄を置いたら、生活が始められそうだった。だが、この部屋に主が帰ってくることはない。使いこまれた勉強机に、私はそっとCDを置いた。

「警察の人は、発作的に自殺をするケースはありますって言ったわ」

 わたしにはそう思えないと、おばさんは悲しげに首を振る。

「あの子が夢に出てくるの。母さん、僕は自殺じゃないよって」


 図書委員なので、書庫で本の整理をしていました。帰りに吹奏楽部の藤巻さんと出会って、お喋りしながら昇降口を出ました。そこで……見つけたんです。とても驚きました。人が落ちたような音は……わかりません。いいえ、放課後、真行寺君の姿は見ていません。

 学校の先生や警察の人には、そう答えた。泣きながら語る私を見て、疑う人は誰もいなかった。


「亡くなる少し前、あの子は同じCDを二枚買ってきた。みーなに一枚あげたいんだって言ったわ。照れくさそうだったから告白するのかなって思った。尚哉は、ずっとあなたが好きだったもの」

 おばさんは震える声で言うと、私の肩に手を置いた。

「あなたは、亡くなる前の尚哉と会ったはずよね。何があったの?」


 あの日、書庫の整理に飽きた私は、いつもの場所で本を読んでいた。

 三階にある書庫の外側には、柵のない陸屋根がある。四畳ほどの空間を、私はこっそりお気に入りの場所にしていた。

 朝方まで降っていた雨で、眼下に見える新緑は鮮やかさを増していた。図書室にあるクッションを一個持ちこめば、快適な屋外席の出来上がりだ。

「いいなあ。特等席だね」

 急に声をかけられて、とても驚いた。この場所は、誰にも知られていないと思っていたから。私の戸惑いを気にせず、尚哉はCDを差し出した。

「これ、プレゼント。良かったら聴いてみて」

「ふーん、ありがと」

 読書を中断されたので、愛想のない返事をした。尚哉と会話をするのも久しぶりだった。

「何。まだなんか用?」

 問われて尚哉は、絞り出すような低い声で言った。

「いつから、君は援助をやっているんだ」

「急に何言ってんのよ」

「やめてくれ。みーな、頼むから」

「その名前で呼ばないで。それに私がどんなバイトをしようと、あんたの知ったことじゃないわ」

 尚くんでも真行寺君でもなく、あんたと呼んだことに、尚哉は傷ついた様子だった。

「見たんだよ。一ヶ月ぐらい前に、君が社会人っぽい男の人とホテルへ入っていくのを」

 はじめは恋人だと思った。少し驚いたけど、友達として喜ぶべきことだ。次の週末、駅前の噴水のところで、また君を見たんだ。誰かと待ち合わせしてるみたいだった。現れたのは中年の男性だったよ。それから気になって……悪いけど、君のこと尾行させてもらった。

 苦い薬を飲み下すみたいな顔で、尚哉は一気に喋った。シャツの下をイヤな汗が伝う。

「ストーカーみたいなことしないで。ほっといてよ」

「僕は知っていることをすべて、永井先生に話すよ」

 顔から血の気が引いた。いま担任の永井にチクられたら、太鼓判を押されている学内推薦がフイになる。

 卒業後は、専門学校に進みたいと考えていたが、我が家の経済状態では厳しかった。貯えなど無きに等しい。在学中から資金を貯めようと思った。もちろん普通のバイトもした。援助に手を染めたのは、単に効率が良かったからだ。

 私の処女は五万で売れた。名前も覚えていない男との行為に、何の感傷も湧かなかった。心が麻痺しているのかもしれない。

 私を激昂させたのは、立ち去ろうとした尚哉の、憐れみに満ちた視線だった。何不自由なく暮らす彼に、私の気持ちがわかるはずもない。

「待ちなさいよ」

 夢中で細身の体にむしゃぶりついた。揉み合いながら、コンクリートの床に倒れた。後頭部を打ったらしく、私には数分間の記憶がない。目を開けると、澄みきった青空が見えた。雲がゆっくりと動いている。おそるおそる下を覗き、動かなくなった尚哉を見つけたのだ。唇を噛んで悲鳴を堪えた。心臓が早鐘のように鳴っていた。

 制服のホコリを払い、クッションと本、CDを抱えて、片開きの窓に体を押しこんだ。私が尚哉を殺したのかもしれない。書庫に戻ってからも動悸は鎮まらなかった。そこから先は、警察の人に話した通りだ。あの日見た空が、網膜に焼きついて離れない。責めるように、毎夜夢に出てくるのだ。


「お願い、本当のことを教えて」

 振り向くと、おばさんの手に鈍く光るモノが握られていた。喉がひりついて言葉が出ない。あの包丁が、体にめりこんだら痛いだろうか。背中に当たる切っ先を感じながら、瞼を閉じた。

 不思議なことが起こったのは、その時だ。

 窓も開いていないのに、風が舞った。柔らかく温かい風だ。つむじ風のように首筋にまとわりついた。

「尚哉なの?」

 おばさんが甲高い声で叫ぶ。風が、そよと頬を撫でた。

「わたしったら……何てことを……」

 ゴトリと音がして、おばさんは包丁を取り落とす。床にうずくまったまま、尚哉、尚哉と呟き続けていた。風は薄い膜のようになって、私の体を覆っている。人肌の温もりに包まれ、私は風の囁きを聞いた。


 みーな、みーな、思い出して


 ヒトゴロシの私に、何を思い出せと言うのか。脳裏にあの日の青空が浮かんだ。ぐるりと景色が回る。記憶の中で誰かが叫んでいる。

「みーな、危ないっ!」

 コンクリートの床に倒れた時、誰かの手が私を守ってくれた。


 あのね、おひるねすると、こわいゆめをみるの。みーな、ねむれない。

 じゃあ、ぼくのとなりにおいで。てをつないであげる。

 うん。みーな、なおくんとてをつないだら、こわくないよ。わるいひとがゆめにでてきたら、なおくん、やっつけてね。

 だいじょうぶ、ずっといっしょにいるよ。


 卑怯者の私を、最後まで守ってくれたのは、尚哉だった。こんな私のために。胸の奥から熱い奔流が突き上げる。

 失った記憶の断片を取り戻すと、風は嘘のように止んでいた。

 おばさんは床に座りこみ、小さな声でわらべうたを歌っていた。遠くを見つめ、穏やかに微笑んでいる。

 羅漢さんがそろたら まわそじゃないか よいやさのよいやさ

 私は話さなければならない。本当のことを。

「おばさん、あのね……」


 了


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