狼は咆哮する
人間は実に強欲だ。故に、妖精の蜜を独り占めしてしまおうと考えるのは当然だろう。
人間は実に臆病だ。故に、森の奥深くへ行くのに、己を護衛する狩人を雇おうとするのも当然だろう。
「本当に妖精がいたのか?」
「ああ、本当だ。この目で見たんだからな」
「……アレの生き残りってことか」
「……おい、てめえ。何を考えてるかは知らねえが、分け前は九対一だ。いいな?俺が九だ。」
「ああ、分かっている」
ひょろひょろの男は、狩人の後ろを追うばかりだ。しかし、その傲慢な態度は、狩人の遥か先を行っていた。
「……、おい止まれ。」
「なんだ?見つけたか?」
「いや、妙だ。ウサギが居ない」
「ああ?ウサギ程度放っておけ!俺は妖精の蜜を探しに来たんだ!」
これだから放浪の狩人は宛てにならねえ、と悪態をつきながら男は先に進んだ。大きな油断は、命をも奪うことがあるというのに。
そして、狩人も男を止めようとはしなかった。
男が足を踏み出した途端、影が走り、激痛に襲われた。
牙が首を貫いたのだ。
男の命はそこで途絶えた。
━━見たこともない獣だ。愚かな男の残骸を尻目に、狩人は冷静に身構えていた。数多の獣と死闘を繰り広げた狩人ですら、見たことがない獣なのだ。それは、警戒に値する。
しんしんと降る雪の中、狼と狩人はみつめあう。
今ここに、狼と狩人の闘いが始まった。
O
ウルは硬直してしまった。これは、ウルにとって予想外の事態だった。
妖精の蜜を狙いに来た人間はたった二人。たった二人なのだ。
そして、一人は警戒の「け」の字も知らないウサギのような愚か者。
それが油断となった。
匂いもなく、音も立てない研ぎ澄まされた一撃を、下らないことに使ってしまった。
そう、ウルは歴戦の狩人を前に、無防備な姿を晒してしまったのだ。
本能が警鐘を鳴らす、圧倒的な強者との邂逅。
そんな中、ウルは自分で自分を可笑しく思った。
臆病風に吹かれ今にも逃げ出そうとする四本の足。
それとは裏腹に、胸を焼くほど燃え上がっている狼の中の何か。
狼の周りには、嵐があった。とても熱い、火の嵐だ。
━━勝てない。 狼の直感がそう告げる。
故に、ウルは咆哮した。
駆けて、駆けて、骨肉の限りを尽くして戦った。
今まで逃げ続けた狼は、ここで初めて逃げなかった。
鈍い音が森に響いた。
そして、音が途絶えた。
━━永遠に続くかと思われた命のやり取りは、ここに終わったのだ。
狼の敗北だ。それも圧倒的な敗北。
辺りの赤は、狼の血だ。
狩人は刃を突きつける。敗者に死を与えるために。
そして、刃は振りおろされ━━
「まってええええええ!!!!」
━━ない。
Ο
「宝物は、妖精の蜜は、全てお渡しします。だから、これ以上ウルを傷付けないでください」
実際はもっとたどたどしかったが、そんなことを妖精は言った。
そして、狩人は顔をしかめた。
当然だ。あの妖精が蜜を全て差し出すと宣言したのだから。
妖精にとって蜜は命と同じ価値を持つ宝物なのだ。妖精がそれを少し施すことはあれど、全てを捧げることなど有り得ない。
蜜を全て失ってしまえば、妖精はもう他の妖精と話すことはできないのだ。妖精がどんな種族とも会話できるとは聞いたことがある。だが、狩人は妖精がどれだけ仲間を大切にするのかも知っている。
お話好きの妖精にとって、孤独は誰よりもつらいはずだ。
狩人の頭を、あり得ない考えがよぎる。
━━まさかこの妖精は、この獣のために全てを捧げるつもりなのか?
「……はは」
幾多の死線をくぐっても、狩人はこれほどの感情を抱いたことはなかった。
「……ははは」
狩人は久しぶりに笑った。
愚かな男に護衛を頼まれたときは、こんなことが起こるなんて想像もできなかった。
「あっはっはっはっは」
大きな笑いだ。
こんなに笑ったのはいつぶりだろうか!
狩人は、笑いながら山を降りた。




