しんしんと雪は降る
小鳥の鳴き声が辺りに響く。
鬱陶しいくらいに自己主張する双子の太陽が、傷だらけの狼を照らしていた。
狼は座っていた。ジンジンと痛む傷を誤魔化すように、傷を舐めた。
ようやく落ち着いてくた頃に、狼は辺りを見回して首をかしげる。先程まで辺りは冷たかったのに、今は温かい風が吹いている。
何が起きた? 狼には分からない。
けれど、狼は考えた。考えれば腹が減る。腹が減れば狩りをした。警戒の「け」の字も知らないウサギは、手負いの狼一匹でも十分に捕まえられたし、沢山いたので見つけるのも簡単だった。
そんなこんなで毎日考えていた狼に、いつもと違うことが起こった。
「あなたはだあれ?」
狼はビクッと飛び上がり、考えるのを一端止めた。
「お前こそ誰だ?」
「私は妖精よ」
「妖精?」
「妖精を知らないの?」
「知らない」
ぶっきらぼうに答えて、狼は警戒を続ける。彼は愚かなウサギではなかった。
妖精と名乗ったのはとても小さな少女。狼の耳よりちょっと大きくて、4枚の羽がパタパタと音をたてていた。
「あなた、ケガをしているじゃない!」
「こんなものはなんでもない」
嘘だ。狼は日々増していく痛みを気にしていた。獲物にも水にも困らなければ、競争者も敵もいない。けれど、あの雪の日に轟音と共に飛んできた牙は、未だに癒えぬ傷を狼に負わせたのだ。
「ケガ、いたいでしょ」
「痛くない」
「嘘ね。妖精に嘘は通じないのよっ!」
じゃじゃーん、と自慢気に鼻を鳴らす妖精はその懐から小さなビンを取り出した。小さい妖精から見ても小さいビンだ。狼はその動作に身構えるが、なんでもないと考えて座り直した。
「何をするつもりだ?」
「まあ黙って見ていなさいっ」
「ちょっといたいけどね」
気になることを呟いて、妖精はビンのふたを開けた。ビンの中に入っていたのは綺麗な蜜だ。それを少し手にとって狼の傷に染み込ませた。
妖精に敵意がないことを読み取った狼はされるがままだった。狼がまだ小さな子供だった頃もこんな風にされるがままだった。あの頃は、母が舐めてくるのがこそばゆくてよく抵抗していた。狼が昔を思い出していると、妖精は狼から手を離す。心地よい時間はもうおしまい。
「終わったわよ」
「そうか」
「あら、照れてるの?」
「照れてない」
「へえ、そっかあ、照れてるんだあ」
「照れてなどいない!」
「へえ、へええ」
久しぶりに大きな声を出した狼は、孤独ではなかった。
それから一度目の雪の季節のことだ。
その雪の日はとても暖かい雪の日だった。
狼の背中の上でうたた寝する小さな少女。
「おい、風邪をひくぞ」
「大丈夫よ。私は風邪をひかないわ」
「そうか」
「そうよ」
両者の間で交わされる言葉は少なかった。けれど、そこに吹く風は優しかった。
狼の傷はすっかり癒えたが、何故か妖精と共に暮らすようになっていた。
「そういえば、あなたの名前を聞いていなかったわ」
「名前?そんなもの必要ないだろう?」
「じゃあ、あなたには名前がないのね」
「ああ、そうだ」
「じゃあ、私が名前を付けてあげる!」
「いらん」
妙にウキウキしている妖精を他所に、狼は冷たい対応だ。雪の日だから仕方ないだろう。
そもそも狼には名前というものはなかった。仲間を知るのに、名前は要らなかった。協力して狩りをするのに、名前は要らなかった。そして、仲間を愛するのにも、名前は要らなかった。故に答える。
「そんなもの、我の中にはなかった」
「じゃあなんで『名前』を知っているのよ」
この妖精は間抜けそうに見えて、よく核心を突いてくるのだった。
狼は知っていた。人間が彼ら自身に名前を付けることを。そして、彼らに従う「猟犬」という存在にも名前があることをだ。狼は人間を嫌っていた。憎んでいた。恐れていた。だから、人間の持つ「名前」を好きにはなれなかった。
「誰かが使っているのを聞いたからだ。ほら、もうこの話はいいだろう?」
「何よ。そんなこと言って本当は欲しいんでしょ?」
「欲しいわけあるか」
「じゃあいらない?」
「……」
狼は黙ってしまった。狼は「名前」を嫌っていた。それを思い出す度に、胸が痛くなるのだ。
しかし、他でもない妖精が言うのだ。故に、狼が「名前」に興味を持ったのも確かである。
「聞くだけ聞いてやろう」
「『ポチ』」
「断る」
「待って!嘘よ!嘘!ちゃんと考えたんだから!」
「……じゃあなんだ?」
「『ウルーズ』よ」
「そうか。長いな」
一体これのどこが長いのかと、妖精が騒いでいるが、狼は無視をする。
狼は、身震いして降り積もった雪と、妖精を振り落とした。
「ちょっと!何するのよ!」
「ほら、もういくぞ。雪が強くなってきた」
「……はーい」
渋々と先を行く妖精の後ろ姿は、とても寂しそうだった。
「……ル」
「ん?何よ?」
「『ウル』ならいいぞ」
「……!」
「ねえ、ウル!」
「なんだ?」
「なんでもない!」
「……おい」
ルンルンと前を征く妖精の後ろ姿は、鈍感なウルから見ても、嬉しそうだった。
━━このときのことは、ウルも一生忘れないであろう。常のウルならば、絶対に口にしないことだ。なんて馬鹿だったのだろうと今でも思うほどに。
「おい、待て。お前の名前は何だ?」
妖精は振り返った。
真っ白な雪と真っ赤な妖精。
「その、あれよ。ええと、『エリー』よ」
エリーにしては珍しく歯切れが悪い。要は、照れているのだ。ウルも、エリーも、照れていたのだ。
その日から、毎日が過ぎるのがとても早かった。
それから次の、落ち葉が音を立てる季節のことだ。
「悪いな」
「いいのよ。さすがに同じ場所でずっと暮らすのは退屈だもの」
「そうだな」
二人は少し遠くまで歩いて来ていた。勿論、歩いているのはウルだけで、エリーはウルの背中の上だ。
愚かなウサギと言えども、何度も狩りをしていれば、数を減らし、警戒するものだ。つまり、ウルの食事のために、二人は遠出しているのだ。
「━━ねえ」
「なんだ?」
「私とウルで、旅をしない?」
「旅?」
「そう、旅。色んな場所を見て、色んな誰かと出会うの。」
「旅、か」
「別に今すぐじゃないわよ。」
「まあそうだな。いつか、できたらいいな。旅を」
「珍しく乗り気ね。……逆に恐いくらいだわ」
「なんだと?」
━━エリーの言い出すことはいつも唐突だった。ウルはこの小さな妖精に何度も救われていたのかもしれない。そんなことを考えながら歩いたせいだろうか。
普段なら絶対にしない失敗を、ウルとエリーはしてしまったのだ。
「妖精……?……!妖精だ!」
人間の声だ。人間の声だ!
ウルは反射的に逃げた。背中に感じる熱を何度も確かめながら、ウルは全速力で逃げ出した。
ウルは人間というおぞましい存在を知っていた。奴らは仲間を殺した。そして、喰らわずにその皮だけ剥ぎ取り、肉を棄てた。
狼は忘れない。あの日抱いた全ての感情を。
O
「……」
「……」
無言だ。あれほど心地よかった無言は、今や嵐のように吹き荒れていた。
「━━ねえ」
「━━なんだ?」
「あのね。私達、ここでお別れよ」
「━━え?」
「どういうことだ?」
「あのね、私は妖精なの」
「ああ、知っている」
「妖精の蜜はね、どんなケガでも治しちゃうの」
「ああ、知っている」
「人間はね、それを欲しがるの」
「……ああ、そうか」
鈍感なウルにも、直ぐにわかることくらいあるのだ。できれば、わからないままでいたかったのに。
「だからね、私と、ウルは、ここで、お別れなの」
エリーにしては、歯切れが悪い。
いつかの雪の日のように、真っ赤になって俯いているエリーは、泣いていた。
それから、エリーは去っていった。とても速かった。本気の妖精の飛行速度は竜にだって追い付けない。
ウルは、エリーを追いかけた。しかし、その後ろ姿は小さくなるばかりだった。
小さな少女がどんどん小さくなっていった。




