表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

文学の黄昏。文学の終焉への潮流をとどめるすべはない。あるいは、活字文化の終焉

作者: 舜風人

文学というのは、基本的には「閉じた世界」です。

閉ざされた世界です。書物がそもそも閉じたものとしてそこにあるのです。

その閉じた書物を開いて、黒い活字を目で追い、その活字に対してたんなる記号ではなくて意味を付与して

読み解く作業、黒いインクの染みにすぎない記号(活字)からそれにあなたが意味を付与するという営為、

そして、意味を統合して、そこから小説世界をあなたの脳内に画像として、ビジョンとして、構築する。

つまりもっと、砕いた言い方ですと。本を読んで意味を理会してそこから妄想を膨らませる。

それが文学(小説)の読書という行為です。それが小説を読むということです。

こうした一連の精神の、脳内作業は、すごい孤独な作業なのです。

共同でなんかできませんよね。あなたが孤独に、根暗にやるしかないのです、

それが読書というものなのです。

だがその孤独な作業から、あなたは妄想の世界を膨らませて、しばし異世界に遊ぶ。、

それが読書の楽しみなのです。

孤独な妄想世界への飛翔、、それが読書の楽しみ、

書物とあなたとの、一対一の妄想交換?

それが読書の奥義?秘儀?なのです。



そもそも、ヨーロッパでは

読書というものが成立して近代小説が勃興したのが、17世紀後半ころからです。

特にイギリスとフランスが中心でした。ドイツがやや遅れてこれに続きます。

そうして、18世紀がその黄金時代を迎えます、

というのも近代小説の勃興は、「読者層」、があっての前提ですからその点ドイツはやや遅れていたわけです。豊かさを備えた近代市民階級の勃興で識字率も上がり、いわゆる良家の子女に、読書の需要が生まれたのです。この需要に対して供給として作家という職業というものも、出てくるわけです。

それまでは作家専業なんてありえませんでした。

物語作者は、牧師だったり、ほかに仕事があって片手間に小説物語を書いていただけです。

それがこのころから需要に応じて、出版社もでき、作家専業も出現したのです。

私はこの時代を勝手に「文学(小説)の黄金時代」と呼んでいます。

そのころ映画もゲームもDVDもアニメも何にもない時代ですから

小説しかなかったのです。だから小説の一人勝ちですね。

大げさに言うとこの時代は空前の小説ブームが巻き起こったのです。

小説の主人公に読者が自己同化して、泣き、悲しみ、はては同情自殺さえあったのです。

今でいえばアイドルが若くして死ぬとあと追い自殺があるようなものでしょうね。

そのころ小説は絶大な力を持っていたのです、その影響力もすごいものでした。

今、現在の小説にそんな力はありませんものね。。。

今は小説のほかにいくらでも心くすぐり感動し魅了するモノがいくらでもあるからです。

今、小説は、ほかのメディアや映像媒体にお株を奪われて衰退してしまったというわけです。

今  「小説」  というか「文学」全体がすっかリ衰退してしまいました。

それは18世紀のあの頃、言葉しか表現手段がなかったころのようには、ムリなのでしょうね。

今現代ではもう、

言葉への絶対な信頼、同化、投影という物は消滅して、、コトバのパワーの衰退一途であったわけです。

昔、言葉は神であった。言葉はすごい世界を変えるような力を持っていた、

今言葉は軽くなり、適当に発せられ、深い意味も喪失し

言葉の霊力。魔力は完全に失われたのだ。

大昔、、たった一言の言葉(呪文・言霊)で世界をひっくり返すこととすらできた、

今は、、もう無理です。これから、、、言葉の軽量化?うすっぺらさ?はますます進むのでしょうね。


17世紀ヨーロッパとは、、どんなだったのか?想像してみてください、

テレビもない、ゲーム機もない、映画もない、ユーチュブもない。漫画本もない。電話もない、

何もないんですよ、

文芸的なお楽しみなんて皆無ですよ。たまに演劇を見るとか、見世物を見るくらいが関の山ですよ。

当時の、日常生活では、いわゆる異世界疑似体験としては

小説本を読むくらいしかほかにお楽しみななんてなかったんですよ、

小説本が最大の最高の娯楽だったんですよ、本を読むことが最高のお楽しみだったんですよ。

それ以外になかったんですよ。日常生活を抜け出して別人になり疑似体験をするっていうのはね、

そういう意味では本(読書)は言葉の魔力をいまだ持ち得ていたといっていいでしょうね。

今、コトバはその信頼性も、影響力も、浸透性も、すっかり褪せてしまいましたものね。

そのころはまだコトバの霊力?があったころです。

言葉に自己同化して自己投影できたころです。

言葉の信頼性というか言葉の破壊力があったころです。

言葉は力であり、パワーがあり、言葉は世界そのものだったんですよ。

つまり、

もっとゲスな言い方でいうと、言葉にまだ

催淫力があったころですね。今、現在では言葉でなんかだれも、催淫されませんものね。

言葉がすごい影響力を持っていたころの、

そういう時代の小説たちなのです、だから18世紀は小説の黄金時代だと私が言うのです。

昔エロ小説がが発禁になったのもまだ言葉が影響力がパワーがあったからなのです。

今エロ小説なんて、発禁ですらありませんね。

今やエロ小説なんてそんなもの読んでも誰も催淫されないし、影響力があまりないからなのです。

大げさに言えばコトバのパワーの失墜現象ですよ。

それがひいては文学の衰退でもあり黄昏でもあるのでしょう。

今は言葉よりも映像文化全盛ですから。

言葉というシンボル・記号だけでは誰も催淫されなくなった?ということなのでしょう。

コトバの喚起力の低下、あるいはコトバの妄想力の劣化、

言葉ではもう誰も妄想を膨らませられない、という現代人の状況です。

それが文学の劣化?にも通じているのでしょう。

今は言葉よりも映像文化全盛ですから。

言葉というシンボル・記号だけでは誰も催淫されなくなった?ということなのでしょう。

コトバの喚起力の低下、あるいはコトバの妄想力の劣化、

昔の読者は言葉だけでものすごい妄想を膨らませて、わくわくして疑似体験できたということです、

それが、、今では、言葉なんかではもう誰も妄想を膨らませられない、というのが現代人の状況なのです。


そういう現代人の妄想力の貧弱化が

それが文学の劣化?にも通じているのでしょう。

だって文学なんて言葉という記号の羅列ですよ、

その記号が了知できなければただの無意味な記号にすぎないんですよ。

マヤ文字が無意味な記号としか見えないのと同様ですね。

文学とは小説とは、文字が読めてなんぼ、意味が分かってなんぼ、

そして最も重要なのが、、そこから妄想を膨らませられてなんぼ、、なのです。

こういう妄想力がないと、小説なんて無味乾燥な記号の羅列でしかないという事実なのです。

つまりどんなにエロイことが書いてあったとしても、その言語が読めなければ記号の羅列でしかないのです。催淫なんかされません。その言語が読めて意味が分かって妄想しての上でのことだからです。例えば私はフランス語が全く読めませんのでフランス語のエロ小説は意味不明ですから全くただのアルファベットの羅列でしかありません。私にとっては無意味そのものです。

ここが映像文化と違うところです。映像は万国共通だからです、読解力も言語力も不要です。見れば即わかりますね。文盲でも映像文化は見ればそれでわかるのです。

それに対して、文学は言語力と読解力の前提です。


しかも、たとえ読めても、

その肝心な妄想力が劣化しているのが現代人なのです。その一つの原因が映像文化の蔓延でしょうね。

映像文化は妄想力不要です。直に映像が現前するからです。

アニメ、映画、漫画、テレビゲーム。などなど

こういうのに慣れてしまうと、

もう言葉だけの羅列でしかない小説を読んで、そこから妄想を膨らませて小説世界を

自己の脳内に現出させるという作業が不可能になるんですよ。

小説はただ文字面を読んでもダメです。そこからさらに自己の脳内にその小説世界を再構築して

自己の脳内に小説世界をありありと現出させるという精神作用が必要です。

そこで初めて小説が面白いということになるのです。

そういう面倒くさい精神作用の行程が、現代人には無理なのですね。

とまあ、そういうわけで小説・文学はこれからももっと衰退し続けるでしょうね。



翻って、、わが日本でも、小説、あるいは文学全体の衰退が言われて久しい。

かって昭和40年代、

文学全集全盛時代がありましたね?

各出版社がこぞって「世界文学全集」なんてのを

全80巻とかそんな膨大な全集本を発行していたのです。

それで町の書店が各家庭に予約を取り、、毎月とか隔月とかに


一冊づつ予約者に月報とともに届ける、、配本する。

そんな時代もあったのです。

そういえば、、月間漫画雑誌「おもしろクラブ」とか「少年」とか、予約すると毎月、町の書店屋さんがバイクで配達してくれたものでしたよ。懐かしいなあ。豪華十大付録も楽しみでしたよね。


いま?そんなの、ありえないでしょ?

出版業界は構造不況業種?とさえ言われる時代ですよ。

そんな全集出したって売れるわけがありませんよ。

いま、かろうじて?売れているのは

漫画雑誌と、文庫本くらいでしょ?

堅い本、、古典文学なんて売れるはずもないです。

まあこうした文学の衰退も時の流れ?

今、、映像文化全盛時代に、活字を眼で追って

意味を咀嚼して、、理解し

脳内にその文字から得られた情報を構成して

小説世界を再現する、、という

これが文学ですよね?確かに面倒ですよ。

文字の意味が分からなければ辞書引かなければならないし、、

こんなことするくらいなら

アニメ映画でも見たほうがそのものずばり、

座って眺めてりゃあいいだけですからね。

白い紙にびっしり並んだ活字を目で追い、、

意味を理解しそこから自分の脳内に、小説の世界を再現するという面倒さはないですからね。

まあこうした映像娯楽、、映画、テレビ、ネットゲーム、などなど、

今更、、文学など面倒なだけ、、という結論でしょう。

ただし、こうした時代背景以外にも、

文学自体の自己崩壊も?あると、私は思うのですよ。

文学の本質はその(物語性)だと私は思うのですね。

文学は高等文芸だと威張ってみても、

所詮は「お話」であり『物語』が本質なのですよ、

それをいわゆる、「現代文学」は、、否定しようとして、、

物語性の否定という暴挙?に出たと私は思うのです。

その結果、、文学は、、根底から崩壊してしまった?

(と、私は思うわけです)

古代中世までは文学なるものはまさに物語その物であり、「何とか物語」であり、

「何とか奇譚」であったわけですね。

それがそんな物じゃあダメだといって

現代文学はもっと難解に?

もっと高尚に?した挙句、、自己崩壊してしまった

(と、私は思うのです)

私は個人的には、ドイツロマン派を持って、文学・小説なるものはある意味の絶頂期をむかえて、

その後写実主義が巻き起こって一気に衰退し、

さらには、自己満足だけの、、難解さのための難解さを追求した?現代文学に

よって完全に終焉したと思っているので、はっきりいってどうでもいいことではあるが、

しかし、

改めてここで、なぜそうなのか?をより詳しく?再述しておきたいと思う。

そもそも、文学、あるいは物語といってもいいだろう。

それが発生したのは、歴史的記述としては、なじまない、ジャンル

つまり、伝説、噂話、空想、ほら話、願望、伝説、夢、異国譚などを、

記述するために始まったといってよい。

であるからして、そもそも、それは人の興味を引くような、珍しい話であるべきものだったのだ、

西暦0000年、どことどこが戦ってどこが勝った、では歴史であって文学ではない。

人はその例えば噂話に、自分の願望やら理想やらも付け加えたりもした。


そして、面白くするためさらに奇譚として脚色もした。

かくして滔滔たる物語文学の流れができて、読者は胸躍らせて読みふけり、ひと時の世の憂さを忘れて、

物語世界に浸り、あるいは、自己に引き比べて、胸なでおろしたり、主人公の薄倖に涙したりもできたのだった。

そうして物語はやがて、小説としてより体裁を整えていったが、しかし、その原型は物語性であり続けた。物語性、が小説の本質なのだ。


フランス語のロマンというと洗練された純愛物?っていうイメージ?だが、

ドイツ語のエアツエールンクというのはもっと泥臭い本当は怖い?民話系の

語り物っていう意味だろう。

それを如実にあらわしているのがまさにグリム童話集初版である。

そうした民話系の泥臭い、残酷な?モノを昇華して?

創作メルヘンとして、芸術化?したモノがドイツロマン派のメルヒェンだろう。

語り物としての

その最高形態がドイツロマン派であると思う。物語性、伝奇性、天馬空を行くその夢想力、どれをとっても、ハイレベルに高められていた。

しかし、

その後、リアリズム、自然主義が台頭し、文学はあらぬ方向へとゆがめられ、文学の衰退をまねいてしまったのだ。

そもそも、事実をそのまま述べることが文学でありえない。事実を、例えば、哀れなフランス下層階級の

女の一生を述べたいなら、ドキュメントとして述べれば良いことであって文学形式を借りる必要はないのだ。延々と続く、悲惨な、女の一生の記述に、読者はどうしたらいいのだろう。

気は滅入り、これでもかこれでもかという、悲惨に、じゃあどうしろってんだとでも叫びだすしかあるまい。、プロテストがあるなら、小説ではなく、ドキュメントとしてやればいいことだ。

あるいは市井の、こまごました日常を述べたいのなら、日記でいいではないか。

しかし、さらに、現代文学は、実験文学と称して、やたらこむずかしい、理屈を捏ね回すだけの小説なるものまで登場して、よりいっそう、小説の衰退を招いてしまったのである。

ジェームスジョイスの難解?小説、[ユリシーズ」今そんな物を誰が読むだろうか?というより、そんなもの、てにとりもすまい。実際読んでも、メタメタで、チンプンカンプン、ばかばかしくなって破り捨てたい衝動を抑えるのが精一杯だ。

そんなものを誰も求めていないのに作家の自己満足や一人よがりで、

やたら小難しく何を言っているのかも分からないような小説が1部の評論家によって持ち上げられていったのだった。

しかし読者は誰もそんな物求めていない。

読者は、聞いたこともない、珍しい話を聞きたい。

見たこともない国の珍奇な話を読みたい。

あるいは、心優しい、少女の感動譚を読みたい。

因果応報の、話で、自己を正したい。

しかし、作家は、わけも分からぬ、文学実験に身をやつしているばかり。

その乖離が、現代小説の衰退の原因だ。

そして、結果、小難しいだけの現代文学なんて誰も読まなくなった。

なぜって、単純につまらないからだ。

涙さそう感動もないし、心躍る冒険もないし、あるのは言葉の羅列化、無意味な言語実験ばかり。


しかし、今その反動からか、自然主義リアリズム全盛期には、捨て置かれた、

ファンタジー文学が近頃は脚光を浴びている。

すなわち、

トールキンの指輪物語であり、

CSルイスのナルニア国物語であり、

ハリーポッターであるのだ。

そこには感動があり、冒険があり、夢があり、涙があり、天馬空を行く、ロマンがあるのだ。

何のことはない、これはまさにドイツロマン派のテーマの再来ではないか。

結局はドイツロマン派こそ文学の最高点でありそれを超えることはできないのだ。

これが私の偽らざる結論である。

今のファンタジー文学全盛とは?

また、、ただ難解だけの言語実験みたいな現代文学へのノンを突き付けているということだろう

(と私は思う)


確かに文学の現状は衰退としか言いようもないが、

それでもこうしたファンタジー文学という、、一種の先祖がえり?で

いささかは、息をついているという現状だろうか?

しかし、

これからもっともっと映像文化は興隆してくるし、

その中で活字文化が活況を呈するなんてことは

まずこれからはあり得ないだろうことは

断言できるのではないだろうか?


文学のたそがれ、、


文学の衰退、、。



文学の終焉。



この流れを止めるすべはあるのだろうか?



ファンタジー文学に一縷の



かすかな


一条の希望のともしび?はあるかもしれない、



しかし


全体的な流れ、、潮流は


文学、


活字文化の


衰退、あるいは最悪、消滅という


奔流をとどめるすべはない。


(と、私は思う)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ