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リワールド・フロンティア-最弱にして最強の支援術式使い〈エンハンサー〉-  作者: 国広 仙戯
第三章 天才クラフターでスーパーエンチャンターのアタシが、アンタ達の仲間になってあげるって言ってんのよ。何か文句ある?

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●幕間3 干渉



 色々と迷ったけれど、結局は会うことに決めた。


 何の話かというと、ニエベスの件である。


 別段、改めて謝罪したい、などという名目を頭から信じたわけではない。


 だが思い返してみれば、彼だってヒュドラとの戦いでは頑張ってくれたし、気絶した僕を介抱してくれたりもした。


 根っからの悪人ではない――はずだ、と思う。


 多分。


 しかしながら、あの時の僕は完全に戦闘モードに入ってしまっていた為、お礼の一つも言えてない。


 ついでに言うと当時の僕はヒュドラに突っ込んでいく際、ニエベスがすぐ近くにいたにも関わらず派手に地面を爆発させて彼を巻き込んでしまった。後で聞いた話によると、その時の衝撃で彼は失神し、以降の戦闘には全く参加できなかったとのことだ。


 なんというか、なかなかに難しい状況だとは思う。


 僕はどうするべきなのか。


 謝るべきなのか、あるいはお礼を言うべきなのか。


 はたまた、いっそのこと開き直って『地面ごと吹っ飛ばして失神させてしまったのは確かに悪かったとは思うけれど、でも、そっちだって突然因縁をつけて殴ってきたり蹴ったりしてきたのだから、つまりはお互い様なのではなかろうか?』と手打ちにして、全てを水に流すべきなのか。


 どうバランスをとるべきなのかがさっぱりわからない。


 とはいえ、である。


 ここで逃げるのは簡単なのだ。


 アシュリーさんが言ったように、放置する、という選択肢だってある。今更、謝罪なんてしてもらったところで一エルロも儲からないのだ。顔さえ合わせなければ、きっといらぬ波風とて立つまい。


 だけど、アシュリーさんはこうも言っていた。


 放置した場合、彼は再びエクスプロール中の僕を尾行するかもしれない――と。


 それはとても困るし、それ以上に迷惑なのが僕以外のクラスタメンバー、つまりハヌやロゼさんやフリムに付きまとわれることだ。


 それだけは――それだけは何があろうと、絶対に許すわけにはいかない。


 だから、会うことにした。


 火の粉が降りかかってから払うのでは遅いのだ。


 むしろ火元に水をぶっかけて、完膚なきまでに火消しをしなければ、それは脅威を排除したことにならないのだ。


 今回、『開かずの階層』関連で僕が学んだ大きなことの一つが、それだった。


 そうだ。一丁ぶちかましてやればいい。


 僕の仲間に手を出すな、出したら承知しないぞ、と。


 何ならアシュリーさんがやっていたように、威嚇し、恫喝してでも。


 それがハヌやみんなを護ることに繋がるのなら、何だってしてやるつもりだった。


 そのつもりだった。


 そのつもりだった――のだけど。




「申し訳――ありませんでしたァァァァッッッ!!!」




 ジャンピングスライディング土下座。


『カモシカの美脚亭』の二階にある個室へ入った僕を出迎えたのは、ニエベスのそれだった。


「ッ!?」


 ずざざざざーっとドリフトよろしく滑ってきた土下座姿に度肝を抜かれ、息を呑む。いきなりすぎるわけのわからない行動に、咄嗟の対処が全く思いつかなかった。


「……え、えっと……?」


 どうやらニエベスと思しき土下座の人がそのまま微動だにしないので、僕は助けを求めて個室の中を見回した。


 すると、一つしかないテーブルについている人物が一人。


 シニヨンに結った赤金色の髪に、ややつり目がちの瑠璃色の双眸。


 アシュリーさんだ。


『NPK』の制服である蒼のロングジャケットを着用している彼女は、呆れた表情を隠しもせず溜息を吐いた。次いで、僕の足元で体を丸めて床に額を擦りつけているニエベスへ、鋭い視線を突き刺す。


「……挨拶も抜きでいきなり謝罪とは何事ですか。順序を守りなさい、ニエベス」


「――おはようございますゥッッ!」


 ビックゥッ! とニエベスの身体が跳ね、間髪入れず朝の挨拶が飛び出した。


 いや、何が何だかわからない。


 この状況は一体何なのだろうか?


 はぁ、と先程よりも重い溜息がアシュリーさんの唇から漏れた。


「……よく来てくれました、ベオウルフ。とりあえずそこの短絡者はいったん無視して、扉を閉めていただけますか?」


「え? あ、は、はい……」


 扉を開けた途端にこれだったので、僕の体もまだ半分しか部屋に入っていない。茶髪の頭を踏まないように気をつけて室内に入り、扉を閉める。


 今まで開けっ放しだったから、さっきのニエベスの大声は店中に響いてしまったはずだ。何事かと思われてしまっただろう。帰るとき、ちょっと恥ずかしいかもしれない。


「あ、あの、アシュリーさん、これは一体……?」


 恐る恐る問うと、アシュリーさんは椅子に座ったまま瞼を閉じ、静かに答えた。


「どうやら本当に、あなたに謝罪がしたかったようです。よければ話を聞いてあげてください」


 それだけ告げて、彼女はテーブル上で湯気を立てている香茶のカップを手に取り、夕焼け色の液体を口に含んだ。


「は、はぁ……」


 ネイバーメッセージでニエベスと面会する場を設けてもらえるようお願いしたのは、昨晩のことだ。メッセージを送信した次の瞬間には、アシュリーさんから電光石火の『承りました』という短い返信があった。そこから何度かやりとりをし、トントン拍子で時間と場所が決まって現在に至る。


 そんなこんなで僕はメッセージに記されていた時間に、面会場所であるこの個室へ来たのだけど――


「あ、あの、顔を上げ」


 てください、と僕が言うよりも早く、


「本当に! 本当にすみませんでしたッ! この通りですッ!!」


 ニエベスがものすごい勢いでまた謝罪の言葉を叫んだ。


 自棄になっている――というわけではなさそうだった。だけど、何だか鬼気迫るものを感じる。


「――?」


 ふと気付いた。


 僕に向かって土下座しているニエベスの身体が、小刻みに震えていることに。


 まるで寒さに凍えるかのごとく、全身がカタカタと揺れている。いっそ歯の鳴る音が聞こえてこないのが不思議なほどに。


 体調不良? 風邪を引いているとか? もしかして、そんな体を押してここまでやってきたのだとしたら……?


「あの……」


 大丈夫ですか、と問おうとしたところ、またしてもニエベスは弾かれたように大声を出した。


「全面的に俺が悪かったと思ってます! 全ての責任は俺にあります! かっ、覚悟なら出来てます……! 煮るなり焼くなりお好きにしてください! だけど――だけどっ! どうか! どうか一つだけお願いが! お願いがありますッ!」


 僕の声が聞こえているのかいないのか、ニエベスは一方的にまくし立てていく。あまりの迫力に、僕は不可視の手で喉を締め付けられたみたく声が出せなくなってしまった。


 僕はオロオロしてアシュリーさんに視線を向ける。だけど彼女はカップを手にしたまま、まるでゴミ捨て場のカラスでも見るような目でニエベスを見ていた。


 直感する。


 ――あ、ダメだ。


 あの人、ニエベスのことを完全に軽蔑してしまっている。きっと取り付く島もない。


 しかし、アシュリーさんのそんな態度も――おそらく床の一点を見つめ、ひたすら頭の中にある台本を読み上げているであろうニエベスがこう続けるまでだった。


「――俺は、俺はどうなったって構いません! 責任は取ります! ……だけど! あいつらは! あの三人だけは! どうか勘弁してやってください!」


「――――」


 その台詞を聞いて、瑠璃色の瞳が不意を突かれたように見開かれた。


 カチャリ、とカップがソーサーに下ろされる。


「…………」


 無論、僕だって驚いている。


 さっきとは別の意味で、言葉を失う。


 僕とアシュリーさんが絶句する中、なおもニエベスは懇願する。


「あいつらは、俺に付き合っただけなんです! 俺が巻き込んだだけなんです! 何も悪くないんです! ですから、どうか――!」


 決死。


 その一言でしか言い表せない覚悟が、丸まった背中から迸っている。


 そして次の台詞で、声に泣きが入った。


「――おねがいですっ! 【ころす】のは、おれだけにしてくださいっ……!!」


 ――へ……?


 一瞬、何かの聞き間違いかと思った。


 しかし、何度頭の中でリフレインしても、聞き間違えではなかった。


 ――こ、【殺す】……!?


「「…………」」


 愕然とするしかなかった。


 僕だけでなく、アシュリーさんも目を点にしていた。


 だけど土下座している状態の彼には、僕らの顔色などわかるはずもなく。そのまま、えぐっ、えぐっ、と子供みたいな嗚咽をし始め、


「おれが、わるいんですぅ……! あいつらは、あいつらはわるくないんですぅ……! おねがいですから、ころすのはおれだけにして、あいつらはたすけて、やってくださいぃ……!」


 ぐりぐり、と床に額を擦りつけて、霰もない泣き声で哀訴嘆願する。終いにはしゃっくりまで始まって、ひうっ、ひうっ、と陸に上がった死にかけの魚みたいにニエベスの体が跳ねた。


 僕とアシュリーさんは、お互いに呆気にとられた顔を見せ合い――


 ガタッ、と椅子を蹴ってアシュリーさんが立ち上がった。


「落ち着きなさい、ニエベス。あなたは一体何を――」


 あまりの事態に困惑し、説明を求めようとしたアシュリーさんを、


「とめねぇでくれ!」


 しかし怒声が遮る。


「おれぁ、ここにけじめをつけにきたんだぁっ! あんたはすっこんでてくれぇ!」


 ガクガクブルブルと震えながら、しかし気丈にニエベスは吼えた。決して土下座の体勢を崩そうとしないけど、顔が大変なことになっているであろうことは想像に難くなかった。


 ニエベスは大きく息を吸い込み、涙を振り切った強い声を放つ。


「……頼む、この通りだベオウルフッ! いや、お願いします! 俺はどうなったっていい! 全部、俺の責任なんだからよ! だから……だから今回の件は、俺の命だけで手打ちにしてくれ! してくださいっ! この通りです……っ!!」


 少し頭を浮かしたかと思うとすぐさま、ガン! と床に打ち付ける。


 よほど必死なのだろう。さっきから一度も面を上げようとしない。願いが聞き届けられるまでは梃子でも動かないという強い意志が感じられた。


 ただ問題なのは――それが壮絶なる勘違いであるということだけで。


「あ、あの、こ、ころすって……?」


 とりあえず、顔を上げてと言っても埒が明かないと判断し、そのまま質問する。


 すると、


「しらぁ切らねぇでくれ! 俺は憶えてるんだっ! ベオウルフ、あんたが言ったことをよぉ! なぁ頼む! 本当にこの通りだ! 俺だけで勘弁してくれ! あいつらは俺のダチなんだ……! 俺なんかのせいで死なせたくねぇんだよぉ……!」


 悲壮感全開で、むしろ僕が責められる始末だった。


 ――僕が言った……? ニエベスを殺す、って……?


 まるで身に覚えがない。彼と初めて顔を合わせた頃から記憶を遡っても、心当たりがない。


 いや、そういえば、彼から殴る蹴るなどの暴行を受けた際、次の標的は小竜姫だと聞いた時は流石に殺意を覚えたことがある。しかし、それを口に出して言ったつもりはないのだけど――


「ベオウルフ、あなた……?」


 僕が記憶の抽斗をひっくり返していると、アシュリーさんが怪訝な視線を向けてきた。本当にそんなことを宣告したのか、と瑠璃色の瞳が尋ねている。


「い、いえっ!? ち、違いますっ!」


 僕はブンブンと首を横に振って否定する。SBやゲートキーパーが相手なら独り言でそのようなことを言っていたかもしれないが、いくらなんでも人間相手に『殺す』だなんて、そうそう口にする言葉じゃない。


 だけど。


「とぼけねぇでくれ! 聞き間違えでも憶え間違えでもねぇ! 俺は確かに聞いたんだよ! あの化け物に突っ込んでいくとき、俺に向かって『ころす』って! あんた俺にそう言ったじゃねぇかっ!」


「――あ……!」


 不意に記憶野を刺激されて、当時の感覚が蘇ってきた。


 あれはそう――ヒュドラに意識の大半を吹っ飛ばされて、だけど戦意だけで体を動かしていた時のことだ。


 ニエベスの介抱を受けて――正確には〝SEAL〟に刺激を受けて――【肉体と本能だけ】が目覚めた僕は、確かにそう呟いてヒュドラに突進していった。まさにその時、〝アブソリュート・スクエア〟状態で全力で地を蹴ったため、土砂が逆巻く瀑布のごとく噴き上がり、近くにいたニエベスを吹っ飛ばしてしまったのである。


 ――って、いやいや。


「ち、違いますよ!? あれはフロアマスターに言っただけで――!? ご、誤解ですっ!」


 ようやく勘違いの焦点が判明し、僕は大慌てで訂正した。


「あなたじゃないです! 僕は敵に向かって言っただけで、いやあの、無意識だったのでちょっと自信はないですけど、その、と、とにかくあなたじゃないです! 誤解です! 勘違いですからっ!」


 ニエベスに負けないぐらいの勢いで、僕も一気にまくし立てた。そうでもしないと、またこっちの言葉を遮って異議をつけてきそうだったからである。


 途端、しん、と部屋の空気が静まり返った。


 沈黙が下りて、けれどニエベスの全身の震えは全く収まらず、どこか身の内に残る激情を持て余しているように見えた。


「……ほんとう、なのか……?」


 不意にか細い声が、面を伏しているニエベスから発せられた。


「……ほんとうに……俺の、勘違い、なのか……?」


 徐々に確かな滑舌になっていくその確認に、僕は首が引っこ抜けるほど何度も頷いた。


「は、はいっ! はいっ!」


 応えた瞬間、ぐふっ、と変な息の吐き方をニエベスがした。


「……ま、マジか……お、俺……殺されると、思って……あの時から……は、吐き気がするほどの……ううっ……ぅぷっ……!」


 どうやら僕の『ころす』発言を聞いてからずっと、凄まじいストレスを抱え込んでいたらしい。安堵した途端、我慢が効かなくなったのだろう。重苦しく呻いたかと思うと、ニエベスはそのまま体を丸めて、胃の中身を嘔吐し始めてしまった。


「お、おぇえぇぇ……!」


 ビチャビチャと立つ水音とツンと鼻を突く異臭に、僕もアシュリーさんも揃って顔を顰めるしかない。


 期せずして、いつだか彼が言った『自分の吐瀉物の上で土下座しろ』という行為を当の本人が実行する形になったわけだけど、無論、そんな姿を見たところで爽快感など微塵もなく、僕としてはかなり色々と勘弁していただきたいという感想しかなかった。


「……すまねぇ……すまねぇ……本当に、すまねぇ……! もう二度とあんなことはしねぇ……許してくれ……!」


 せっかく誤解が解けたというのに、ニエベスはなおもその場に突っ伏したまま、謝罪の言葉を譫言のように呟き続ける。


 重圧の原因となってしまった僕が言うのも何だけど、よほど怖かったのだろう。この部屋に来てからの彼の行動を思い返せば、その大きさが痛いほどよくわかった。


「え、えっと……その、と、とにかく顔を上げて下さい……」


「すまねぇ……すまねぇ……」


 嗚咽しながら――いや、ほとんど嘔吐きながら、ニエベスは面を上げる。


 うっ……と思わず出かけた声を、僕は必死に呑み込んだ。


 大泣きした子供がそうなるように、泣きすぎたニエベスの顔はそれはもうひどい状態になっていた。その上、己が吐いた吐瀉物にまみれているのだから、尚更だ。


 はぁぁぁ、と安堵か呆れかわからない息を大きく吐き、アシュリーさんが言った。


「……とりあえず店員を呼びます。あなたはそのまま動かないで下さい」






 その後、アシュリーさんは個室に備え付けのインターフォンで店員さんを呼び出し――掃除用具を持って現れたのは看板娘のアキーナさんだった。彼女は顔色一つ変えず、満面の笑みのまま迅速に清掃して退室していき、僕はその姿に不屈のプロ精神を見た――部屋が綺麗になると、ニエベスには顔を洗ってくるよう指示を出し、場を改めさせた。


「――で、どうしますか、ベオウルフ? 先程ニエベスから謝罪を受けたわけですが、あなたはこの男を許しますか? それとも……」


 ようやく三人揃ってテーブルにつくと、アシュリーさんはおもむろにそう問いかけてきた。


 僕は反射的に向かい側に座っている、顔を洗って多少はすっきりした感のあるニエベスを一瞥してから、こう答える。


「あ、いえ、その……許すも何も、色々とありましたが、最終的にはあのフロアマスターと力を合わせて戦ったわけですし……僕もなんだかんだで迷惑をかけてしまっているので、もうお互い様ってことでいいんじゃないでしょうか……?」


 右斜め前の下座から、じっ、と瑠璃色の瞳が僕を見据えてくる。ちなみに現状は、僕とニエベスがテーブルを挟んで向かい合い、アシュリーさんは仲介役のため下座に位置するという席順である。


 アシュリーさんは一瞬だけ口を開きかけ、しかし何も言わず、何かを諦めるようにまた溜息を吐いた。


「……まぁ、あなたがそう言うのなら、それでいいでしょう。よかったですね、ニエベス。あなたの友人も、あなた自身の命も助かりましたよ。何か文句はありますか?」


 実に無感動な声で言って、今度はニエベスに問う。


「も、文句なんてとんでもねぇ……! それこそ、俺は殺されても文句が言えねぇことをやっちまったんだ……すまねぇ、恩に着る……!」


 再び両目から滂沱と涙を流しながら、ニエベスが述懐した。


 何だろう、本当に驚くほど殊勝というか神妙というか。もはや別人なのではないかと疑ってしまうほど、人が変わってしまっている。短い付き合いではあるが、こんなことを言う人物には見えなかっただけに、驚きもひとしおだった。


「ええ、そうですね。確かに、もし相手が私達の団長だったのなら、誰が何と言おうとあなたは私達の手で八つ裂きになっていたでしょうから。ベオウルフの優しさに感謝しなさい」


「えっ……?」


 何か今、しれっとものすごいことを言われた気が。


「ありがとうございます……! ありがとうございます……!」


 泣きじゃくるニエベスがテーブルに額をくっつけるほど頭を下げた。


 ――あれ……? もしかして、僕が認識していないだけで、これってかなり重大な問題だったりしたのだろうか……?


「運よく拾った命です。大事にしなさい。――では、用件はこれで終わりですね。ベオウルフの気が変わらないうちに帰りなさい。それとも、まだ他に言いたいことがありますか?」


 アシュリーさんがいっそ冷酷に聞こえるほど冷ややかな声で告げると、ニエベスは、ずびびびっ、と音を立てて鼻をすすってから立ち上がった。


「――本当に、本当にありがとうございました! 失礼します!」


 やっぱり別人としか思えないほど折り目正しく頭を下げると、ニエベスは部屋を辞していった。


 彼の靴音が遠ざかっていき、静かになってから、んん、とアシュリーさんが咳払いをする。


「……先程のは、あくまで一般論です。決して、私達が団長を誹謗した人間を殺して回っているわけではありませんので、そこは勘違いしないでください」


「え? あ、は、はいっ」


 いきなりそう言われたので、すぐには何の話か理解できず、ちょっと挙動不審っぽい反応をしてしまった。


 そのせいかアシュリーさんは、むっ、と眉根を寄せ、さらに言葉を重ねてくる。


「あなたに起きたようなことが私達の団長に起きた場合、私達は団長の意志に従います。あの方が相手を敵だと認識したのなら全力で殲滅しますし、そうでない場合は出来うる限り平和的解決を目指します。我々『蒼き紅炎の騎士団』はならず者の集団ではありません。そのことを、しっかりと、ご理解いただければ幸いです」


 言葉遣いは丁寧ながらも、語調はどう聞いても剣の切っ先を喉元に突き付けているかのごとく鋭かった。


「は、はい……」


 とはいえ、である。ここまでアシュリーさんが、自分達はそういった輩とは違うのだ、と声高に主張するのはつまり――


「……で、でも、ということは、他のクラスタだと、さっき言ったみたいな……?」


 クラスタリーダーがよそ者に暴行を受けた場合、報復として相手を殺すこともある――ということがあるのだろうか?


 という僕の問いに、こくり、とアシュリーさんは頷いた。


「よくあることではありませんが、そういった話を何度か耳にしたことがあります。遺跡レリクスは一歩でも踏み込めば、そこからは何でもありの無法地帯です。それ故に個人間や組織間のいざこざが高じ、殺し合いにまで発展することは大して珍しいことではないでしょう」


「な、なるほど……」


 僕は背中に冷や汗を流しつつ、頷く。


 いや、エクスプローラー業界の苛烈さは知っていたつもりだったけれど、現実にそういった現場を目にしたことがなかったせいか、無意識に侮っていたのかもしれない。


 そういえば、ほとんど裏切りに近い形で『NPK』を辞めたダインも、なんだかんだでヴィリーさんやカレルさんと再会するまでは図太く生き残っていた。アシュリーさんの言う通り『NPK』は、地の果てに追い詰めてでも殺す、というスタンスではないのだろう。


 しかし、そう考えるとニエベスがあそこまで怯えていたのにも合点がいった。彼は本気で、僕に殺されると思っていたのだ。それどころか、あの三人――赤コート、鼻ピアス、ノッポも巻き添えにして、血祭りにあげられると。


 別に、僕はそこまでするつもりもなかったので驚いてしまったが、業界の常識がそういうものだったのなら納得である。


「ところでベオウルフ、彼らを許すのは構いませんが、その話はクラスタのメンバーにきちんと周知していますか?」


「え?」


「あなたの独断であれば、あなたを大切に思う仲間が意に沿わぬ行動に出る可能性はゼロではありません。意思統一を図っておかねば、いらぬ騒動の種になりかねませんよ」


 そう言われて、思い浮かぶのが僕の仲間である三人の女傑である。




「……あやつら、妾のいぬ間にラトに手を出したじゃと……? ようやってくれたではないか。妾の親友を傷つけた愚か者がどのような末路を辿るのか……その身にしかと刻み込んでやろうではないか……!」


「私も行きます。生きながら地獄を見せる術ならよく知っていますので」


「――弟をイジメていいのはお姉ちゃんだけよ? それをおバカさん達に教えてあげないといけないじゃない?」




「あ……」


 さーっと音を立てて顔から血の気が引いていく感覚があった。


 やばい。


 アシュリーさんの言うとおりだ。


 耳の奥に蘇ってきた不穏な台詞の数々に、僕は何の迷いもなく確信する。


 ちゃんと説明しておかないと、冗談抜きでまずい。あの時はどうにかこうにか説得して引き止めたけど、彼女らの中ではまだ問題は未解決なのだ。


「す、すみません! すぐにメッセージを……!」


 慌てて〝SEAL〟のメッセンジャーを起動させ、三人に向けた文面を作成し始める。


 彼女達が納得してくれるような文章を考えつつ文字入力していると、やおらアシュリーさんが立ち上がり、テーブルを挟んだ僕の向かい側へと移動した。ついさっきまでニエベスが座っていた席である。


「ベオウルフ、メッセージを作成しながらで結構ですので、私の質問にお答えください」


「あ、は、はい、なんでしょうか?」


 怒涛のごとく文章を綴っていくかたわら、腰を据えたアシュリーさんの声に耳を傾ける。術式のマルチタスクに比べればこんなものは屁でもない。


 瑠璃色の双眸が僕をまっすぐ見つめ、こう言った。


「私個人による、あなたへのお詫びとお礼なのですが……もしよろしければ、〝剣術の指南〟というのはいかがでしょうか?」


「えっ……?」


 思いもよらなかった言葉に、うっかり思考がつまずいた。メッセンジャーに入力していた文章が乱れたので、動揺しつつもロールバックしながら聞き返す。


「――け、剣術を……ですか……!?」


 耳を疑う、とは正にこのことだった。


「はい。見たところ、あなたの基本スタイルは二刀流ですね? 憚りながら、私も同じく二刀を扱う剣士です。ご指導できるところが多いと思うのですが」


「そ、そんなっ……! う、嬉しいですけど……ほ、本当にいいんですか!?」


 驚きのあまり声が上擦ってしまった僕に、アシュリーさんは真面目くさった表情を変えず、すんなりと首肯した。


「ええ、構いません。私の働いてしまった無礼に加え、あなたは命の恩人ですから。これでもまだ足りないほどです」


「……!」


 剣術にせよ格闘術にせよ、技術というものは高度になればなるほど、価値もまた高まる。術式を購入するのと同じように、高度な技術の習得に相応の金銭が必要になるのは、現代ではもはや常識だ。


 その中でもエクスプロールに関する技術の修得は、即お金に繋がることだけに、非常に高価なものとなる。


 ましてや名高き『蒼き紅炎の騎士団』の幹部、〝カルテット・サード〟の一角、アシュリー・レオンカバルロの双剣術である。


 剣士であれば、例えその一片であっても垂涎の的になるだろうこと間違いない技術だった。


 それを、クラスタの仲間でもない僕に教えてくれるだなんて――!


「無論、あなたにはあなたの師がいるでしょうし、その流派の型もあるでしょう。ですから、無理に私の剣術を押し付けるつもりはありません。吸収出来るところだけ吸収してもらえればと思います」


 このあたりのスタンスはやはり、僕に体術を教導してくれているロゼさんと同じだ。一口に剣術と言っても、その種類は千差万別。ロゼさんの体術がそっくりそのまま僕に馴染まないように、アシュリーさんの剣術にだって同じことが言えるのだ。


 けれど。


「あ、で、でも、大丈夫でしょうか? 僕、あの……正直、まだそこまでの実力があるわけでもないですし……」


 いくら水を与えても、地中に埋めたばかりの種と既に根を生やしている草木とでは、吸収の度合いがまるで違う。アシュリーさんの伝授してくれる技術がどれほど素晴らしいものであろうと、受け手である僕にそれを受け止めるだけのキャパシティがなければ、せっかくの指南もほとんど無駄になってしまうのだ。


「……ええ、確かに。先日も言った通りあなたの剣の腕は……私達のナイツの誰よりも未熟だと思います」


「うっ……」


 以前と違って少し言い難そうに言ってくれたのが、逆に辛かった。ナイフの刃は鋭いよりもむしろ、ギザギザに刃こぼれしている方がよほど痛いのだ。


「――ですが、同時に大きな才能を秘めている、とも思っています。年齢も考えれば、あなたはこれからが伸び盛りでしょう。大丈夫です。あなたは間違いなく強くなります。僭越ながら、それはこの私が保証しましょう」


「えっ……? あ、い、いや、その――あ、ありがとうございますっ……!」


 すぐさま入ったフォローに、心に翼が生えて浮かび上が――りかけたが、すぐに思い直し、スキップする胸の鼓動に待ったをかける。今のはきっと社交辞令というやつだ。真に受けてはいけない。こういう言葉を素直に信じてしまうのが、僕の悪い癖なのだ。


 とはいえ、自慢ではないが、僕は褒められることに慣れていない。思わず顔が熱くなって、口元がにやけてくるのをどうにか我慢しなければならなかった。


 アシュリーさんは真剣な表情で僕の顔をしっかり見据え、頷きを一つ。


「とにかく、あなたに足りていないのは基礎体力や基礎理論です。二刀流に合わせたそれらを、出来るだけ鍛え、可能な限り詰め込みます。基礎さえしっかり出来れば、剣筋も自然とあなたの体や癖に適応したものとなっていくでしょう。そこからはあなたの精進次第です」


 それはやはり、根本的な部分でロゼさんの指導方針によく似ているように思えた。


 つまり、あちらは身体操作の基本で。アシュリーさんのはきっと、二刀流の基本なのだ。二人は決して、僕を自分の色に染めようとはしない。


 故に、それらの教えを受け取り、自分の身にあったものへと昇華していくのは、あくまで僕自身なのである。


「わ、わかりました! えっと、あの……ふ、不束者ですが、どうぞよろしくお願いします……!」


 文章入力を中断して立ち上がり、僕は思いっきり頭を下げた。これから貴重な教えを受けるのだ。ちゃんと礼儀を尽くさなければいけない。


 これに対し、アシュリーさんはどこかくすぐったそうに、んん、と咳払いをした。


「……いいえ、これは私からのお礼なのですから。仰々しくそのようなことをしなくとも結構です。どうかお座り下さい。……それよりもベオウルフ、話は変わるのですが、一つ確認したいことがあります」


「? は、はい、何でしょう?」


 言われた通りに腰を下ろし、再びバックグラウンドでハヌ達に送るメッセージを作成しながら僕は聞き返す。


「先日の第一一一階層に、あなたの仲間である『BVJ』と、我々のナイツが救助に来たときのことです。もしご存じなら、あのときの経緯を知りたいのですが……」


「?」


 反射的に首を傾げてしまった。それぐらいのことなら、別に僕に聞かなくてもナイツのメンバーに聞けばいいんじゃないだろうか、と思ってしまったからである。


 僕の反応からその疑念を察したのだろう。アシュリーさんはわずかに視線を逸らし、舌を重そうに動かした。


「……実は……私にも色々とありまして……何と言いますか、仲間には聞きそびれてしまったものですから……」


 既に空になっているカップを両手で持ち、意味もなく撫でたり弄ったりするアシュリーさん。確かに、あれからもう何日も経っている。様子を見るに、本当にタイミングを外してしまって今更聞くわけにもいかない状態のようだ。ある意味、この人らしいといえばこの人らしいけれど。


「え、えっと……僕もハヌやロゼさんから聞いた話ですが、それでもよければ……?」


 僕はそう言うと、すかさずアシュリーさんは視線を戻し、やや被り気味で食いついた。


「お願いします。何故、どのようにして皆が来てくれたのか、ずっと気になっていたのです」


 瑠璃色の瞳に好奇心の光が煌めいている。


 アシュリーさんの気持ちは痛いほどよくわかった。僕もあの時のことについては不思議に思っていたので、入院中、お見舞いに来てくれたハヌにこう聞いたのだ。


 どうしてあそこにいるのがわかったの?――と。


「ええと、確か……」


 僕は空になってしまったアシュリーさんの香茶と、自分の分のホットコーヒーを店内システムで注文してから、ハヌから伝え聞いた経緯を語り始めた。






 まず最初にアシュリーさんの緊急信号を受け取ったのは、当然ながらゼルダさんだった。


 今にして思えば、ここが重大な起点であったのは間違いない。彼女が信号を受け取ることができていなければ、きっと僕達はあそこで全滅していたに違いないのだから。


 あの日もアシュリーさんとツーマンセルで僕――とフリム――の観察をしていたゼルダさんは、だけど途中で尿意をもよおして少しの間だけ席を外していた。


 他の遺跡でもそうだけど、数少ない安全地帯には簡易トイレが設置されていることが多い。と言ってもパーティーションで人目を遮るだけのものが大半で、排泄行為そのものは自分で持ち込んだ携帯トイレキットを使わなければならないのだけど。


 ルナティック・バベルで言えば中央エレベーターシャフト周辺がSBがポップしない安全地帯で、簡易トイレはそのエリア内に設置されている。


 逆算してみると、アシュリーさんと別れたゼルダさんがそこまで戻ってきた、ちょうどその時だったという。


 僕らがトレインを形成してしまった挙げ句、『開かずの階層』と呼ばれていた第一一一層の怪しいゲートへ飛び込んでいったのは。


 用を足したゼルダさんは持ち前の素早さですぐ元の場所へ戻ってきたのだけど、しかし観察していたはずの僕とフリムの姿はなく、しかもアシュリーさんとは連絡がつかない。姿を消しているのはわかっていたため、ルーターを介して念話を送ったのに全く反応がないのだ。


 そうこうしている内に、いきなりアシュリーさんから緊急信号が届いた。この時、通常の何倍も強い波長で発せられるそれでようやく届くほど、アシュリーさんが遠く離れた場所にいることがわかったという。


 ゼルダさんはすぐさま発信元へ向かって駆け出し、途中で見かけたエクスプローラーに聞き込みなどをした結果、つい先刻トレインが発生したとの情報を入手した。


 それに違いない、と確信したゼルダさんは教えてもらった方角へ向かって全力疾走し、瞬く間にトレインの尻尾を捉えた。


 そして、アシュリーさんの名前を叫びながら立ち塞がるSBのことごとくを蹴散らし、階段を昇っていった先に見つけたのが、あの漆黒の空間と黄緑のゲートである。


 彼女が辿り着いた時には、アシュリーさんの緊急信号はまだ受信できていた。ルーターを介して共有していたアシュリーさんの位置情報ログもまた、あの黒い空間を最後に途切れていた。だが、それらも数セカド後にはひっそりと消えてしまったという。


 死んだかもしれない、とは一切思わなかったそうだ。


 だけど、一人で助けに行くには確実性が薄すぎる。その点は流石の〝カルテット・サード〟というべきか。ゼルダさんは自分一人による救助は不可能だと即断し、踵を返すと、ナイツに助けを求めるため躊躇なく街へと戻った。


 都庁の会議室へ飛び込み、そこでまだ『ヴォルクリング・サーカス事件』関連の作業を行っていたヴィリーさんとカレルさんに事の次第を説明し、アシュリーさんの救助を訴えた。


 勿論、間髪入れず救助作戦の準備が始められた。


 ヴィリーさんもカレルさんも手がけていた作業を中断し、電光石火で『NPK』全メンバーに出撃命令を飛ばした。


 一方で、ゼルダさんはカレルさんにこう指示されたという。


「今すぐ小竜姫を呼んできてくれ。おそらく遺跡の最前線あたりにいるはずだ」――と。


『蒼き紅炎の騎士団』随一の駿足を誇るゼルダさんは力強く頷くと、再びルナティック・バベルへと戻り、ハヌとロゼさんの捜索を始めた。彼女はあの広い遺跡内を駆けずり回り、なんと驚くべきことに、ごく短時間でエクスプロール中のハヌとロゼさんを発見したのである。


 二人に事情を説明し、再び都庁へ戻ったときには『NPK』の準備も完了していた。


 いざ、救助へ。


 しかし――ゼルダさんの案内によって迅速に『開かずの階層』のゲート前まで来たのはよかったのだが、ここで一悶着があった。


 純白から漆黒へ反転した遺跡内。そこにポツンとある、【いかにも】なゲート。


 これに『NPK』メンバーの一部が難色を示したのだ。


 対策もなく飛び込むのは危険ではないのか。何かの罠である可能性もある。そもそもアシュリーさんは生存しているのか。下手に踏み込んで、ミイラ取りがミイラになる愚は避けるべきではないのか――と。


 これは全くの正論であり、遭難したアシュリーさん本人でさえ似たようなことを言っていた。こんな場所に救助が来るはずがない、まともなエクスプローラーならまずもってあんな怪しいゲートには飛び込まない――と。


 だけど、これに対し『今更何を言うのか』という声も上がった。ここまで来たのは救助のためであり、それを諦めたのではここまで来た意味がない。第一、仲間であり幹部である彼女を救いたくはないのか――と。


 意見が対立し、状況が膠着するかと思えたその時。


「――小竜姫、どうするつもり?」


 侃々諤々と議論している『NPK』をよそに、ハヌとロゼさんが黄緑のゲートへ近付いていくのをヴィリーさんが見咎めた。


 途端、意見をぶつけ合っていた人々は口を止め、誰もがハヌ達に耳目を属したという。


 ゲートの前に立ったハヌは、振り返りもせずこう答えたそうだ。


「知れたことよ。ラトを助けに行く。おぬし達は好きなだけそこで言い争っておれ」


「しかし、考えもなく飛び込むのは危険だ。何か対策を――」


「ならば何とする? この壁の向こう側は一切わからぬのじゃ。試しにもう一人ばかり先行させ、様子を窺うか? では誰が行く? おぬしらの中で一番【死んでも困らぬ】のはどこのどいつじゃ?」


 制止しようとしたカレルさんの声を遮って、やはりハヌはゲートに向き合ったまま、辛辣に聞き返した。


 あまりに刺々しい舌鋒に口を閉ざしてしまったカレルさんへ、ハヌはなおも冷たい声を浴びせた。


「わからぬものに対策など立てられぬものか。命を賭ける覚悟がないのなら帰れ。妾達は行かせてもらうぞ」


「ラグ君のためなら死んでも構わない――とでも言うの、あなたは?」


「愚問じゃな」


 小さな背中に問い掛けたヴィリーさんに、ハヌは間髪入れずそう言い返し、嘲弄するように笑ったそうだ。


 そこに、ロゼさんが口を挟んだ。


「小竜姫も私も、ともにラグさんに命を拾われた身です。我が身可愛さに彼を見捨てるという選択肢は有り得ません。悪しからずご理解ください」


「ゆくぞ、ロゼ」


「はい」


 言いたいことだけ言ってしまうと、もはやハヌとロゼさんはヴィリーさん達の反応など省みず、黄緑のゲートをくぐってしまったという。






「――その後、僕達と同じようにあの大きな穴に落ちていったらしいんですが、ロゼさんが上手く着地してくれて、すぐ戦闘態勢に入れたそうです。それから間を置かず『NPK』の皆さんも追いかけてきたので、ハヌは『ヴィリーとカレルの奴ばらめ、怖じ気づいたと思われてはたまらんと思うたのじゃろう』なんて言ってましたけど、きっと心の中では喜んでいたんだと思います。何だか、嬉しそうに笑っていましたから」


「……ありがとうございます、ベオウルフ。ようやく得心がいきました。道理で誰も、詳細を語りたがらないわけです……」


 僕の話を聞き終わったアシュリーさんは、ふぅ、と憔悴したような溜息を吐いた。


 彼女曰く、その後の『NPK』については容易に想像できます、とのことだった。


 アシュリーさんの想像を形にすると、おそらく次のような話になる。






「……聞いたわね、あなた達」


 小竜姫とアンドロメダがゲートの向こうへ消えた後、ヴィリーの唇から凜然とした声が放たれた。


「我が騎士団に、慎重さと臆病を履き違えている軟弱者はいないと私は確信しているけれど――さあ、確認するわよ。ここで手を挙げるものは、街に帰る足でナイツを抜けなさい」


 コツコツと装甲靴の踵で床を鳴らし、リヴァディーンを手にして黄緑のゲートの前に立った金髪の少女は、深紅の瞳から決意の光を迸らせた。


「あそこまで言われて黙っていられる? あの嘲笑に背中を向けられる? 騎士の誇りはどこに置いてきたの? さあ私達の同胞、アシュリー・レオンカバルロを救うために命を賭ける覚悟がない者は――ええ、そうよ、全く以て遠慮する必要なんてないわ。死を恐れる者、勇気のない者、誇りを持たない者は今すぐ手を挙げ、剣を捨てなさい!」


 しん、と空気が静まり返った。誰もが口を真一文字に引き結び、自分達の長であるヴィリーを見つめている。


 ヴィリーはメンバー各々の顔を見回し、誰一人として手を挙げようとしないのを確認すると、口元に笑みを浮かべて頷いた。


「……それでこそ、私の自慢の騎士達よ」


 金色に輝くがごとき髪をポニーテールに結った少女は、身を翻し、その長い髪を若鮎のように跳ねさせ、蒼い剣を高く掲げた。清冽なる声が響き渡る。


「――これより我らの強さを見せつける! 出来たばかりの木っ端クラスタにでかい口なんか叩かせないわよ! 第一陣、私に続きなさい! カレルレン、第二陣はあなたに任せたわよ!」


『はっ!!』


 騎士団の総員が一糸乱れぬ動きで、胸を右拳で叩く敬礼の姿勢をとった。


 ヴィリーは鋭い動作でリヴァディーンの切っ先をゲートに向け、雄々しく叫ぶ。


「どんな罠があろうと全て斬り捨てなさい! 行くわよ、私のあなた達!」


『おおっ!!』


 先陣を切ってヴィリーが黄緑のゲートへ飛び込み、他のメンバーがそれに続いた。蒼の奔流が次々とゲートに呑み込まれていく。その中には当然、ゼルダの姿も含まれていた。


 数セカド後、カレルレンが愛槍ニーベルングを振りかざし、威風堂々と指令を発する。


「――第二陣、俺に続け! 油断するなよ、何があろうと氷のごとき精神で受け止め、炎のごとき烈しさで焼き払え!」


『はっ!!』


 勇猛なる声が幾重にも重なり、無数の足音が猛然とゲートへ突撃していく。


 かくして剣嬢ヴィリーが率いる『蒼き紅炎の騎士団』は未知のゲートを通り抜け、ドラゴンの群れとの戦いに身を投じることとなった。


 見知らぬ謎の空間に、戦力を分断された上、大量に出現する竜種との戦闘――


 考え得る限り最悪の状況にあってなお死者が一人も出なかったのは、ひとえに彼らの地力の高さ、そして団結力の強さを示している。


 エクスプローラーのトップ集団の一角を担うその名は、決して伊達ではないのだ。






 そういえば――と『容易に想像できる光景』について話してくれたアシュリーさんが、こんなことも語ってくれた。


 突入の際、第一陣と第二陣との間にわずかながら時間を置いたせいか、件の空間での出現ポイントが大きくズレたという現象が確認されている。タイミングによってランダムで変わるのか、もしくは、ある程度の大人数となると自動的に振り分けられるシステムだったのかもしれない――と。


 おそらくだけど、ルナティック・バベルの設計者は、かなりの大人数が挑戦する前提であの隠しステージを作ったはずである。


 空間の広さといい、出現するSBのランクや規模といい、どう考えたって百人以上の『対軍団』を想定していたとしか思えない。


 それに、本当ならあそこのフロアマスターにはもう一段階、パワーアップした戦闘形態が残されていたのだ。


 ロゼさんがコンポーネントを解析したところ、あの怪物の真名は――〝ミドガルズオルム〟。


 超古代の神話において、世界を丸ごと包んだ世界蛇の名前である。


 まさしくあの碑文にあった『天地の主、蛇の王』という文字列そのままの存在であり、コンポーネントの情報量から察するに、戦場となった自然公園一帯がそのまま巨大な蛇に変化する予定だったのでは、とロゼさんは言っていた。


 実に途方もない話である。


 初めて聞いたときは、奴に止めを刺した瞬間の自分がどれほどギリギリの崖っぷちにいたのかを実感して、背筋が凍ったのを覚えている。


 ちなみに、件のミドガルズオルムのコンポーネントは今でも僕の〝SEAL〟に収納されている。


 黒玄と白虎の改造に使うか、もしくは売却して現金に換えようかと考えていたのだけど、直前でフリムに待ったをかけられたのだ。


「それ、もしかしたら例の階層の開錠認証に必要かもしれないでしょ? 材料用のコンポーネントならドラゴンのがたっぷりあるんだから、残しておいた方がいいわよ」――と。


 さらに付け加えると、ハーキュリーズのようにロゼさんが使役ハンドルできればすごい戦力になるのではないか? という話も出たのだけど、これについては、


「情報量が多すぎて、かなり難しいかと思われます。絶対に不可能とは言いませんが、確実な制御には【神器を持った私が十人は必要になる】かと」


 と、つまるところ『絶対に不可能』であることがわかっている。そう考えると、こんな化け物を生み出した古代人は一体どれほどの技術を有していたのかと、戦慄を禁じえない。


 よくもまぁ、あの少人数で勝てたものである。


 何か一歩でも踏み間違えていたら、僕らはきっと今頃この世に存在していない。あの時、何が何でもミドガルズオルムが真の姿を現す前にコンポーネントを破壊して本当によかった、と心の底から思う。


「ベオウルフ、あなたは第一一一階層のエクスプロールへ行く前に出来る限り訓練を積み、少しでも実力をつけておいた方がよいでしょう。ヴィクトリア様の話では私達も同行する予定だと聞いています。それまで、あなたが全力を出し切ってまた倒れてしまわぬよう、微力ながらこの力を貸しましょう。なお、弱音は一切聞き入れませんので、そのつもりで」


「は、はい、がんばります……は、ははは……」


 これまた修行時のロゼさんに匹敵するほど厳しげな眼光を見せるアシュリーさんに、僕は気圧されつつも愛想笑いを返した。


 どうしてこう、僕の周りには芯の強そうな女性ひとばかりが多いのだろうか? 類は友を呼ぶ――とは違うかもしれないけれど、やはり僕自身に何かしらの要因があるのだろうか。


 などと頭の片隅で考えていた、その時だ。


 不意に個室のドアが丁寧にノックされた。


 間を置かず店内のシステムを介して、店員さんが注文の品を持ってきたという意味のシグナルが〝SEAL〟に届く。


「――はい、どうぞ?」


 あれ? 何か注文してたっけ? と考えながら〝SEAL〟で鍵を開けるコマンドをドアに送る。この個室は内側から鍵がかけられる仕様になっているのだ。


 さっき注文した香茶とコーヒーはとっくに届いていて、既にどちらも飲み干されている。もしかしてアシュリーさんがおかわりを頼んだのかな? と思いきや、


「お待たせいたしました。ご注文のホットコーヒーでございます」


 礼儀正しく入室してきた店員さんが、優しい手付きでソーサーに乗せたコーヒーカップをテーブルに置いた。カップの近くに浮かぶARタグには、何故か僕の注文であることを示すディープパープルのメッセージが入っている。


「……あれ?」


「どうしました?」


 首を傾げる僕に、アシュリーさんが不思議そうに問う。


「ごゆっくりどうぞ」


 店員さんが頭を下げ、退室していく。その足音が遠ざかってから、僕は念のため自分の〝SEAL〟のログを確認した。


 思わず目を見開く。


「――……あー、いえ、僕の勘違いだったみたいです。気にしないでください……」


 それから慌てて、まじまじと僕を見つめてくるアシュリーさんを適当に誤魔化した。


 ――あったのだ。


 自分でもびっくりだけど、確かに僕がホットコーヒーを注文したという履歴が残っていた。


 まったく記憶にないのにも関わらず。


 つい数ミニト前に、僕が自分の〝SEAL〟で注文したという記録が。


 ――最初の注文コマンドを、間違えてリピートしちゃったのかな……?


 子供でもほとんどしないようなミスだけど、有り得ないことではない。自分で言うのもなんだけど、術式制御にも関連する〝SEAL〟の操作において僕がこんな初歩的なミスをするのはひどく珍しい。


 我ながら数少ない特技だと自負しているだけに、地味にショックだった。


「しかし、意外です」


「え? な、何がですか?」


 アシュリーさんの唐突な言葉に、僕はいつのまにやら沈んでいた思考の海から顔を出した。


 彼女は何故か僕の前に置かれたコーヒーカップを見つめ、


「あなたがブラックコーヒーを飲むことが、です。正直、あなたはもっと甘い物を好むかと思っていました」


 思いも寄らなかったコメントに、キョトンとしてしまう。


「――? そ、そうですか?」


「ええ、そうです。そう見えました」


 意外と言われる僕の方こそ意外というか、心外というか。別に気取っているつもりはないけれど、基本的に香茶やコーヒーには砂糖もミルクも入れない派だ。かといって甘いものが苦手というわけでもなく、ハヌが分けてくれる時は普通に食べる。ただ、これといって好きじゃないだけで。


「……ですが、そうですね。確かに【よく考えれば】納得もいきます。【あなた】なら……ええ、確かに」


「? ? ?」


 結局なにやら謎の納得をして、アシュリーさんは一人で頷き、完結してしまった。


 よくわからなかったけれど、そんなことより僕はさっきの凡ミスが妙に気になっていたので、それ以上の追求はやめておいた。


 一応バックグラウンドでセルフクロスチェックアプリを起動させつつ、


 ――もしかして〝SEAL〟の調子が悪いのかな? 病院に行ったほうがいいかも……?


 と頭の片隅で考える。


 もしエクスプロール中にさっきみたいなつまらないミスをして、怪我でもしたら大変だ。ハヌ達にも迷惑をかけてしまうし。


 念のため専門のお医者さんに診てもらおうかな――などとぼんやり思いつつ、淹れたてのコーヒーに口をつけた時。


「――あっつっ……!」


 啜る加減を間違えて口の中を火傷してしまった。堪らず顔を顰めて犬みたいに舌を出していると、


「……何をしているのですか、あなたは」


 英雄や勇者と呼ぶには程遠いその姿に、向かいのアシュリーさんからジト目を向けられてしまったのだった。






 ■






 男は晴れやかな気分で通りを歩いていた。


 世界は美しい。


 人生は素晴らしい。


 そんな歌いたくなるほどの上機嫌で軽やかに歩を進め、心地よく肌を撫でる風に茶色の髪をなびかせる。


 だが、その口元には野卑た笑みが刻まれていた。


「――ったくチョロいもんだよなぁ、ガキって奴はよぉ。どんな化け物みたいな力を持ってても、中身がアレなら全然怖くねぇっつーの、へっへっへっ」


 ニエベスである。


 勇者ベオウルフとも怪物とも雷神とも呼ばれている恐ろしい少年に謝罪し、見事、赦しを得てきたばかりの帰り道。


 喉元過ぎれば熱さを忘れる、とはまさに今の彼を表すためにある言葉だった。先程までの殊勝な態度はどこへやら。子リスのように震えていた身体も、今や肩を大きくそびやかせ、風を切るようにして威張りかえっている。


「つうか俺の演技力やべぇな……今からでも俳優目指すか? ええ?」


 くっくっくっ、と笑いながらジャケットのポケットに手を突っ込み、通りの真ん中をおおっぴらに進む。道行く人々は彼の尊大な態度に、触らぬ神にたたりなしとばかりに離れていく。


 先刻の『カモシカの美脚亭』における姿は確かに演技ではあったが、しかし嘘ではない。ニエベスがあの小柄な少年に対し恐れを抱いているのは揺るぎようのない事実であり、だからこそ、その感情を増幅することによって彼の演技は真に迫ったのである。


 身の震えも、涙も、嘔吐さえも、全ては本気のものだった。


 しかし同時に、ニエベスには勝算があった。


 あの少年は、あの凄まじい強さに見合わず、精神が幼い。


 一言で言えば、【甘い】のだ。


 なにせ、ドラゴンに襲われていた自分達を身を挺して助けにくるほどのお人よしである。ここは一つ、哀れみを誘うような演技でもしてやれば、きっと簡単に許してくれるに違いない――ニエベスはそう踏んだのだ。


 実際、それは正解だった。


 あのような大仰な演技にころりと騙され、こうして何のペナルティもなく解放してくれた。


 これが別のエクスプローラー――例えば〝剣嬢ヴィリー〟や〝精霊女王〟ことイオナ・デル・ジェラルディーンだったとしたら、こうはいかない。アシュリーの言っていた通りニエベスは今頃、犬の餌にでもなっていたはずだ。


 実を言うと、そういった状況を想像した時は本気で背筋が凍りつき、吐き気が込み上げてくるので、さっきの嘔吐はそれを利用させてもらった。あれはベオウルフが怖かったのではなく、『もし相手が剣嬢ヴィリーだったら』という妄想が恐ろしくて吐いた胃液であった。


 しかしそれも、所詮は一時の恥である。情けない姿を見ていたのはベオウルフと、あの冷酷無比な〝絶対領域〟のみ。


 そうとも。結果だけ見れば、自分はこうして生き延びているではないか。


 しかも公には出来ないが、あの『開かずの階層』から『NPK』と共に生還したおかげで、自らが所属する組織『裏会』では猛者扱いだ。近い内に例の三人組共々、新たな地位を得られることだろう。


 ――どうだ、見たか!


 ――俺はあの勇者ベオウルフと共に戦い、そして生き残った英雄様だぞ!


 今日はニエベスの人生史上、最高の日だった。


 最悪の逆境は最大の好機ともいう。


 まさしく今日は、ニエベス自身の機転によってピンチをチャンスに変えた、歴史的な日であった。


「このまま裏会の幹部までのし上がっちゃうか俺? 成り上がっちゃうか俺ぇ? へへへっ」


 しめしめ、と人生に立ちはだかった巨大なハードルを、しかし越えるのではなく足元をくぐり抜ける形で突破したニエベスは、この時どうしようもなく調子に乗っていた。


 世界は自分を中心に回っている。何故なら、やることなすこと上手くいくのだ。汚名返上に名誉挽回。出世街道まっしぐら。


 ――そこのけそこのけ、ニエベス様が通るぞオラオラ!


 と、さらに肩を怒らせて歩いていると、当然の事ながら、すれ違う通行人の一人と体がぶつかった。


「うおっ!? っとと……ああん!?」


 些細な衝撃ではあったが、バランスの悪い歩き方をしていたニエベスはひとたまりもなくよろめいてしまった。空威張りのハリボテが崩れ、思いがけず晒してしまった醜態に羞恥心が刺激され、カッと怒りが沸き上がった。


「どこに目ぇつけてんだコラァ!!」


 肩をぶつけ合った人物に猛然と噛み付く。突然の大声に、周囲に人々が何事かと足を止めた。


「ああ、これは申し訳ない。まさかこちらに来るとは思わなかったもので。変な歩き方をされてましたが、もしかしてお体が悪いのですか? それとも、頭がおかしいのですか?」


 ニエベスがぶつかった相手――やけに穏やかな声で話す男が、雰囲気を変えないまま最後の最後に毒針を放ってきた。


「――あ?」


 一瞬だけ何を言われたのか上手く理解できず、ニエベスは呆けた顔を見せた。


「……!?」


 が、次の瞬間にはしっかり呑み込み、さらに怒りの炎を燃え上がらせる。


「――ああ!? いま何つったテメェ!! ぶっ殺されてぇのかコラァッ!!」


 ニエベスは、ついさっきまで年下の少年に命乞いをしていたとは思えない強面で、男に掴みかかった。


 黒髪にブラックスーツ、シャツもネクタイも手袋もコートも全て漆黒な上、しかもサングラスをかけているという、もはや〝黒尽くめ〟としか言いようがない男だった。ニエベスはそんな男の胸倉を掴み、野獣のごとく歪ませた顔を近付ける。


「ああ、これはこれは。おやめください。ここは街中ですよ? 暴力行為は、ちょっと」


「ふざけんなテメェ! 薄気味悪い格好しやがって! テメェが喧嘩売ってきたんだろうが! ああ!?」


「ほらほら、大きな声を出しては周りの皆さんにご迷惑になりますよ? お静かに、ね?」


 いくら恫喝しても飄々とした態度を崩さない〝黒尽くめ〟の声が、自分の頭より高い位置から下りてくることにニエベスは今更ながらに気付いた。


 この男、さほど線は太くないが、かなりの長身である。ニエベスも身の丈はそこそこ大きい方だと自負しているが、そんな彼よりも頭一つ分は身長が高い。ノッポのルークと良い勝負になるほどだ。


 しかし〝黒尽くめ〟の言動はそのことごとくが、ニエベスの怒りに油を注ぐものだった。ちょっと脅してやろう、ぐらいにしか考えていなかったニエベスも、これには堪忍袋の緒が切れてしまった。


「――おいテメェ……ちょっとツラ貸せや。あっちの路地裏だ」


 もはや頂点を越えた赫怒に、むしろニエベスの態度は落ち着いた。ドスを聞かせた低い声で言って、針のような視線を男の顔に突き立てる。


「おやおや、困りましたね」


「ちょっとでも逃げる素振り見せてみろテメェ、背中に攻撃術式ぶち込むぞ」


 やはりどこかとぼけた感じの態度をとる男は、やれやれとばかりに肩を竦め、不意に己の足元へと声をかけた。


「仕方ありません。アグニール、少し待っていて下さいね。この男性と【お話】をしてきますので」


「へえ、おきばりやす」


 何かと思って視線を向けると、そこには珍妙な格好をした少女がいた。目が覚めるほど鮮烈な紅色の着物に、無造作に結った銀髪。蒼と赤の色違いの瞳が、妙に艶めかしい目付きで男とニエベスを見上げている。


 着物を着崩して肩を晒している少女は、うふ、と悪戯っぽく笑んで、


「せやけど、あんま長話して早う戻ってこんと、うち勝手にどこぞへ行ってしまいますえ?」


「わかっていますよ。【すぐ】戻ってきますから」


 ちょっとそこまでゴミを捨てに行くような、そんな軽い口調で言って、男はニエベスに向き直った。


「では、参りましょうか」


「……上等だ。ついてこいよ……!」


 もはや怒りは殺意に変わっていた。


 ぶっ殺す。


 ニエベスはそう心に決め、薄暗い路地裏へと男を先導した。


 あの胡散臭いサングラスをぶっ壊し、黒尽くめの格好を泥だらけにして、ボコボコにしてやる――!


 この時は、そう意気込んでいた。






「あ……ああ……」


 男を袋だたきにしてやるというニエベスの目的は、しかし果たされることはなかった。


 今や彼は首を鷲掴みにされ、宙に浮いていた。体は微動だにせず、声もまともに出せない。


「いやぁ、ちょうどよかった。少し【駒】を増やしたいと思っていたところだったのです。渡りに船とはこのことですね」


 黒尽くめの男は片腕一本でニエベスの体を持ち上げていた。手袋を外し露わになった手が、ニエベスの喉元に深く食い込んでいる。


 ほぼ首つり状態のニエベスは虚ろに上空を見つめ、口元から涎を垂らしていた。


 男に触れられた途端、体の自由が利かなくなり、全身から力という力が抜けてしまったのだ。


 蜂蜜のようにとろりとした口調で、男が言う。


「さあ、仲良くお話しをしましょうか……名前も知らない誰かさん」


 ニエベスの首を掴み挙げる男の手の甲に、真っ黒な輝紋が浮かび上がった。否、一切の光を放たないそれを〝輝紋〟と称するのは間違っている。皮膚上を駆け抜ける漆黒の幾何学模様は、ただの回路図に過ぎなかった。


「これから私の血を、すこおし、あなたに注入します。どうか死なずに耐えて下さいね。血が勿体ないですから」


「……!」


 ぐっ、と喉を掴む手に更なる力が込められた。爪が皮膚を突き破り、侵入してくる感覚があった。


 なのに、不思議と痛みがなかった。


「――~っ……!?」


 生物は死の直前になると、脳の快楽物質が分泌され、痛みどころか幸福を感じるという。今のニエベスにとって【痛みを感じない】という状態は、死を連想するのに十分であった。


 失禁した。


 アシュリーに剣を突き付けられ、耳を切り飛ばされた時よりも勢いよく出た。じょばばば、とボトルを逆さにして水をこぼしたような音が生まれる。指一本動かせないのに、何故か排泄器官だけはいつも以上によく働いてくれた。


 くす、と男が微かに笑う。


「大丈夫ですよ、怖くはありません。そんな感情も、いずれは麻痺するでしょうから」


 ――やめろ、何を言っている、やめてくれ……嫌だ、死にたくない、誰か助け――


「さあ、どうぞ」


 男の手が、ぐいぐいと首を締め付けてくる。考えてみれば、こんな状態でも呼吸が出来ているのは絶対におかしい。何故だ、どうして苦しくないのか。そもそも、自分は今ちゃんと呼吸をしているのか。出来ていないならどうして酸欠で意識を失わないのか。


 ニエベスにはわからない。何も、わからない。


 男がにこやかに、籠の中の鳥に語りかけるような口調で囁いた。




「私色に染まって下さい」




 それが、ニエベスの自我が耳にした、最期の言葉となった。




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