●4 友達の証と危ない戦い
そりゃもう散々に驚いた。
神様はもちろん、現人神なんて存在と直に会って話すなんて、初めてのことだったのだ。
というか、普通に考えて、これは有り得ない事態だ。
現人神はその名の通り、人の形をした神だ。神に等しい力を持った人間だ。それほどの存在故に、現人神はその土地の人々に崇め奉られ、同時に束縛もされている。
だからそんな存在が、こんな場所に、しかも一人でいるなんて、絶対に有り得ない――あってはいけないのだ。
「な、なんで!? なんで君みたいな人がこんなところに、し、しかもエクスプロールなんて――!?」
あわあわする僕の唇に、ぴとり、と細くて柔らかな指が触れた。
ハヌムーンの人差し指だった。指先一つで黙らされてしまった僕に、彼女は左の金目を閉じて、茶目っ気たっぷりの笑みでこう言った。
「それは秘密じゃ」
「…………」
とってもにこやかに断言されてしまったため、呆気にとられた僕は、何も言い返せなくなってしまった。
えーと……? いや、まぁ、親友にも言えない事って、あるよね。多分……?
「そんな事より、互いのあだ名を決めるのが先決じゃろうて」
「へ?」
僕の唇から指を離したハヌムーンが唐突にそんな事を言い出したので、思わず変な声が出た。
「あだ名……? ええと、つまり愛称ってこと?」
握手していた手を離して、現人神の少女は腕を組む。大仰に頷いて、
「うむ。ユウジン、特にシンユウともなると互いに特別な呼び方をし合うというではないか。妾とおぬしもそうするのじゃ。そも、おぬしの名は呼ぶにはちと長すぎるしの」
「うん……それは否定できないけど……」
いやまぁ、僕の出身地方では大概の人がこういう感じの名前なのだけど。実際、僕も外の世界に出るまでは当たり前だと感じていたし。でも文化圏の違う人達からすれば、
『なにそれ? 名前と姓が一緒になってるの?』
なんて思ったりするらしい。ちなみに、これは一言一句間違いなく実際に言われた台詞だ。
ぴっ、と先程僕の唇を塞いだ人差し指の先端が、こちらに突きつけられた。
「ではまず妾の名前からじゃ。おぬし、妾にぴったりのあだ名を考えよ」
「あ、僕から? え、えーと……」
「うむうむ」
咄嗟に思い浮かばずに考え込むと、わくわく、という音が聞こえてきそうな勢いでハヌムーンが僕の顔を覗き込んできた。
ただでさえ宝石みたいな金目銀目が、期待にキラキラと輝いている。うわあ、これは迂闊なことは言えないぞ……
「じゃ、じゃあ、ハヌムーンだから……ハーン? ムーン? それとも、ハヌ?」
無難なところから挙げていったのだけど、最後のは意外としっくりきた。多分、ハムと語感が似ているからだろうけど。
「うむうむ」
どれにする? どれにするのじゃ? とハヌムーンの目が僕に問いかけてくるようだ。どうやら今挙げた三つに文句をつける気はないらしい。
ならば、
「――ハヌ、でどうかな? さっきまで呼んでたハムに近いし、呼びやすいから」
「おお!」
何やら感動的な声が上がった。
「ハヌ……! ハヌか! 妾はハヌなのか!」
まるで誕生日プレゼントを貰った子供のようにはしゃぎだす。
「えっと、ちょっと落ち着いて欲しいんだけど……」
「ばかもの! これが落ち着いていられるか! 妾のあだ名なのじゃぞ!」
どうやらと言うかやっぱりと言うか。彼女の中では『あだ名をつけてもらう』というのは一大事らしい。
とはいえ、だ。
「あの……言っておいてなんなんだけど……本当にいいの? その、僕が信者じゃないにしても、現人神である君を、呼び捨てどころか愛称で呼ぶなんて……」
実際、熱心な信者の方々に見つかったらリンチされても文句が言えない所業である。
「かまわぬ」
僕の心配はしかし、すっぱり斬り捨てられた。
「ここにおる妾はもはや現人神ではない。今やただの人、ただの〝ハヌ〟じゃ。ましてや、これからおぬしと共にエクスプローラーとして生きていくのじゃぞ? そのおぬしから堅苦しい言葉で話しかけられては、たまったものではないわ」
「でも、ハヌムーンは」
「ハヌじゃ」
ぴしゃりと言葉を遮り、力強く訂正された。その上で、
「余計な心配なぞいらぬ。気にするな、それが答えじゃ。さあ、そんなことより、次はおぬしのあだ名じゃ」
強引に話題を変えられてしまった。ハヌムーン――じゃない、ハヌはそのまま僕を置いてけぼりにして話を進めていく。
「ラグディスハルトじゃからのう……どう呼ぶべきか、それが問題じゃ……」
完全に自分の世界に入って、ひどく真剣な顔で考え込み始めた。彼女にとっては、これまた一世一代の大勝負らしい。
僕が黙って待っていると、不意にハヌは腕を組んだまま俯かせていた顔を上げ、
「――そうじゃおぬし、他の者からは何と呼ばれておったのじゃ?」
「他の人? 家族とか?」
「うむ」
「そうだねぇ。ラグとか、ハルトとかかな? 名前の一部を抜いて呼ばれることが多かったかも」
家族からはラグ。故郷の幼馴染からはハルトと呼ばれていた。偶発的に出来る知り合いなどからは、ラグディスと呼ばれていたこともある。
「ならば、それらは全て没じゃな」
「えっ?」
「妾の初めての、それもシンユウの呼び名なのじゃぞ。平凡であってはならぬ! 決してな!」
「へ、へー……あ、ありがとう……」
そんな事を言われると、語感だけで彼女の愛称を決めてしまった自分に罪悪感が湧いてくる。
「うーむ……うーむ……」
眉間に深いしわを刻んで深刻に悩むハヌ。やがて、はっ、と顔を上げると、
「――ラト、というのはどうじゃ!?」
世界に一つだけの宝物を見つけたような顔で、眩しいほど輝く瞳を僕に向けてきた。
「ラト?」
「そうじゃ。ラグディスハルトの頭と尻をくっつけて〝ラト〟じゃ!」
どうじゃ? どうなんじゃ? と感想を求められているような気がしたので、僕は笑って、心に浮かんだ言葉を素直に言う。
「ラトかぁ……その呼ばれ方は初めてだなぁ」
「そうか! そうじゃろう! そうじゃろうて! なにせ妾が考えたのじゃからな!」
得意満面のハヌは胸を張って、わっはっはっ、と笑う。
「決まりじゃ! おぬしはラトじゃ! これで名実共に、妾とおぬしはシンユウじゃな! 改めてよろしく頼むぞ、ラ――」
威勢よく喋っていたハヌが、突如不自然に固まった。『ラ』の形に唇を開いたまま数セカドが経過して、不意に彼女は顔を俯かせた。綺麗な銀髪の隙間からはみ出た耳が、見る見るうちに赤く染まっていく。
「……ラ、ラト……」
自分で決めたその名前を、何故か舌の上でそっと転がすように呟く。
今更ながら、照れてしまったみたいだ。そんな姿を見せられては、なんだかこっちまで照れ臭くなってくる。
「う、うん……えっと、こっちもよろしくね、ハ、ハヌ……」
「う、うむ……な、なかなか気恥ずかしいものじゃのう、これは……」
もじもじしつつも、どこか嬉しそうにハヌが言う。
「は、はは……」
顔が熱い。よく考えれば、僕だって友達と愛称で呼んだり呼ばれたりするのは、初めての経験なのだ。じんわりと胸の奥に温かい水が注がれていくような、けれどどこかむずがゆいような、複雑な気分だった。
さて。
なんにせよ、これで彼女にとっての一大事は落着というわけである。
僕にとってはほぼ成り行きで決まったようなものだけど、ハヌとラト、どちらも簡潔で呼びやすい愛称に落ち着いたものだと思う。
それはいい。
けれど、まさか彼女が極東の現人神だったとは。
俄かには信じがたい話だけど、あの化け物じみた術力を見てしまっているので、納得しないわけにはいかなかった。
そんな有り得ない立場の彼女が、何故こんなところにいて、よりにもよってエクスプローラーなんぞになろうとしているのか。
秘密じゃ、なんて言われたけど、やっぱり気になるものは気になってしまう。
これからずっと友達でいたら、いつかは教えてもらえるのだろうか――?
などと考えていた僕は、完全に、完璧に、すっかり、油断していたわけである。
初めてエクスプローラーの友達が出来たという嬉しさのあまり、つい、ここがルナティック・バベルの最前線であることを忘れていたのだ。
ハヌの背後から伸びてきた大きな影が、ぬっ、と僕の視界を暗くした。
「!?」
この時、僕はハヌと視線の高さを合わせる為、床に膝を突いたままだった。肝心のハヌは、すぐ後ろまで迫ってきた危機にまだ気付いていない様子だった。
自分の顔が恐怖に凍るのがわかった。咄嗟すぎて声も出せなかった。
マンティコア。
その名を持つSBが、ハヌの真後ろに現れていた。
二メルトル近い全長、青黒い体毛と皮膜型の翼、そして先端に無数の毒針を生やした尾を持つ凶悪な猛獣。
ハヌの小さい頭など四つ同時に飲み込んでしまいそうな口。その顎が今、まさに彼女を食い殺さんと牙を剥いている。
動いて間に合うタイミングではなかった。だから僕は、唯一出来ることを最大限に実行した。
――支援術式〈プロテクション〉×10。
〝SEAL〟のキャッシュメモリに常駐させていた防御支援術式を無音声で実行、スイッチの共通プロトコルに則ってハヌへと送信する。
間に合え――!
フォトン・ブラッドの幾何学模様が輝く僕の両手の五指、それぞれの指先に〈プロテクション〉のアイコンが合計十個現れ、ぱっと弾け飛び、
『PRRRRRRROOOOO!』
マンティコアの甲高い咆哮。
「――ッ!?」
ようやく背後の危険に気付くハヌ、咄嗟に振り返るけれど間に合うはずもない。防具らしい防具も身に付けていないその細い肩に、マンティコアの鋭く大きな牙が猛然と突き刺さ――
らなかった。
ガギン! という鋼鉄の塊にツルハシを落としたような音を立て、マンティコアの牙がハヌの肩に食い込まずに止まる。
『P――!?』
当然だ。支援術式の効果は一度で二倍、二度目で四倍と、重複すればするほど乗算で増していく。ハヌには計十回もの〈プロテクション〉を畳み掛けたのだから、その防御力はざっと一〇二四倍にもなる。布だって石よりも硬くなる防御力強化の加護だ。
「――ハヌッ!」
ハヌの無事を確保したらもう何の障害も無い。僕は膝立ちの状態から一気に飛び出すのと同時、背中の長巻〝黒帝鋼玄〟の柄を両手で握り、瞬時に抜刀。
ハヌの肩に噛み付いているマンティコアの剥き出しの頭に大上段からの一撃をぶち込んだ。
『PRYYYY!?』
耳障りな電子音と青白いフォトン・ブラッドを撒き散らしながら、マンティコアがハヌの肩から口を離し、身を仰け反らせる。今ので向かって右の目と耳を切り裂いてやった。だけど浅い。
マンティコアが面食らっているその隙に、僕は黒玄の柄から左手を離し、五本の指先に一斉にアイコンを表示。全身の〝SEAL〟にフォトン・ブラッドが流れて活性化。
親指に支援術式〈ストレングス〉。
人差し指に支援術式〈プロテクション〉。
中指に支援術式〈ラピッド〉。
薬指に支援術式〈フォースブースト〉。
小指に支援術式〈ミラージュシェイド〉。
紫紺のアイコンが五つ同時に輝き、すぐに弾けて消える。
僕の攻撃力、防御力、敏速性、術力がそれぞれ強化され、〈ミラージュシェイド〉による幻影が左隣に発生した。
体の感覚が激変する。
支援術式によって身体能力が強化されたが故だ。エンジンのパワーが倍増されたからには、肉体の操縦だって加減を変えなければならない。このギャップを埋めるためにはひたすら慣れるしかないのだけど、それまでは一瞬とはいえ落差に戸惑うことになる。このあたりが支援術式の敬遠される理由の一つだ。
「ハヌはそのまま動かないで!」
早口で叫び、僕とその幻影が揃ってハヌの前へと飛び出す。
幻影の動きは僕のそれを左右反転してトレースする仕組みだ。もちろん質量はないし、触れることも出来ない光学系幻術。匂いも温もりもないただの目くらましだけど、とりあえずはこれで充分。
再び黒玄の柄を両手で握り直し、マンティコアと対峙する。
「――はあああっ!」
無駄に搭載された痛覚エンジンによって悶えているマンティコアの、バタバタと動いている尾を狙って床を蹴る。先端に何本もの毒針を備えたそれが奴の最凶の武器なのだ。しかし、
『――PRRRRRRRRWOOOOOOO!』
咆吼一声。ビリビリと空気が震える。狼狽えていたマンティコアがそれだけで自己を鼓舞し、冷静さを取り戻した。残った左目がカッと見開かれ、憤怒の視線が僕を貫く。
「ッ!?」
予想以上に早い立ち直りに目論見が水の泡となった。幻影を左に置いて、僕自身は視力を奪った右側から回り込む気でいたけど、これじゃ意味がない。
マンティコアがその筋肉質で青黒い体を、四肢を広げて深く沈み込ませる。奴の戦闘態勢だ。
真っ正面から突っ込む形になった僕は、しかし構うことなくマンティコアに斬りかかった。僕の後ろにはハヌがいる。退路なんて最初からない。
「づぁあぁっ!」
間合いに入るやいなや黒玄を振り回し、奴の死角を突くため右側から袈裟斬りを放つ。左の幻影も左右を反転させた全く同じ攻撃を繰り出した。
全長二メルトルもある黒玄は、非力な僕でも強力な一撃を打ち込める長柄武器だ。〈ストレングス〉で攻撃力を強化している今、いくら最前線のSBにだって力負けはしな――
ヒュン、と風を切る音を聞いた。
「――!?」
嫌な予感が電流みたいに背筋を走った。僕は咄嗟に無理矢理黒玄を引き戻し、体の前面に立てた。瞬間、
ギィン! と漆黒の刀身に走る擦過音。
空恐ろしい速度で飛来した【ソレ】が、左頬を掠めて背後へ通り抜けていった。その正体を判別するため慌てて目で追いかける。
「あれは――!」
雷撃のごとく僕を襲ったのは、マンティコアの尾だった。鋭い毒針を幾本も生やしたそれが、奴の体で出来た死角から弾丸よろしく撃ち出されたのだ。
見れば、左にいたはずの幻影が消え始めていた。いつの間にか攻撃を受けてしまったらしい。〈ミラージュシェイド〉の効果が強制終了されていく。
マンティコアは僕が二人いるのを確認した上で、その双方をほぼ同時に攻撃したのだ。
風切り音を鳴らして、マンティコアの尾が生きた蛇のようにうねりながら尻付近まで戻った。その尾の毒針が、とろりとした液体に濡れている。それを見た瞬間、僕は己が不覚に気付いた。掠り傷とはいえ頬に傷を受けてしまった。早く解毒術式を使わないと危険だ。
しかし、マンティコアは解毒術式を使う余裕を与えてはくれなかった。
『PRRRRWOOOO!』
尾による連続突きが、雨霰と僕に降り懸かったのだ。
「~ッ!」
凄まじい速度で襲いかかってくる毒針の連撃を必死に黒玄で弾き返していく。〈ラピッド〉で敏速性を強化していなかったら今頃蜂の巣になっていたかもしれない。
――まずい。このままじゃ押し切られてしまう。距離を取って支援術式を上乗せしたいところだけど、ハヌを守るためには下がるわけにはいかない。武器の選択をミスった。白虎なら片手で毒針を払いながらもう片方の手で術式が使えたのに。これじゃジリ貧だ。それに――
どちらにせよ、三ミニト後には支援術式の効果が切れてしまう。
支援術式は一律、三ミニトしか効果が持続しないのだ。
――こうなったら、毒を食らわば皿までだ!
「――だッ!」
歯を食いしばり、黒玄をさっきみたいに体の中心線に沿わせて構え、一気に跳び上がる。
当然、ここぞとばかりにマンティコアの毒針が僕に襲いかかる。けど、それはもはや織り込み済みだ。左肩、右脇腹、左腰、右太股が次々と穿たれ、フォトン・ブラッドが飛び散るが、〈プロテクション〉で防御を強化した僕の跳躍を止めることは出来ない。
マンティコアの頭上を飛び越えた僕は、黒玄を横に構え、空中で体を捻った。そのまま漆黒の長巻を思いっきり振るい、体を竜巻のように回転させる。
「でやぁあああああああっ!」
一個の回転刃と化した僕は、なおも押し寄せる毒針の連射を打ち払いながら宙を滑空し――
尾の根元近くをざくりと切り裂く、確かな手応え。
『PPRRRRYYYYYYYYY――!?』
自慢の尻尾を切り飛ばされたマンティコアが無様な悲鳴をあげる。
着地した僕は床にコンバットブーツの底を滑らせてドリフトするように慣性を殺しながら、体をマンティコアに向ける。左手を黒玄の柄から離し、意識を集中。術式を起動。指先に五つのディープパープルのアイコンが灯る。
小指の回復術式〈ヒール〉で傷を回復、薬指の同じく回復術式〈アンチドーテ〉で解毒し、二本飛んで親指の支援術式〈ラピッド〉でさらに一段階ギアを上げ、戻って人差し指に、
「〈フレイボム〉と!」
続けて中指にも、
「――〈フレイボム〉!」
左手刀をこちらに尻を向けて身悶えしているマンティコアに向けた瞬間、アイコンが一気に弾け飛んだ。
『PRRRW――!?』
ダメ押しとばかりにマンティコアの尾の付け根が二度連続で爆発する。
〈フレイボム〉は単体ではさほど威力のない攻撃術式だけど、支援術式と同じ特性があって、一定のタイミングで爆発を連鎖させると威力が乗算で増していくのだ。その上〈フォースブースト〉で術力を強化しているので、連鎖爆発と相まって効果は通常の八倍にまで跳ね上がっているはずだ。
〈ラピッド〉の重複効果でさらに体の感覚が変化。目に映る全ての光景がよりスローモーションになる。
僕は黒玄を大きく後ろに引いて構えると、息を止め、身体のほとんどを爆炎に包まれて喘ぐマンティコアに向かって猛然と走り出した。
通常の四倍の速度で風のように接敵する。
「はぁあああああああああッッ!!」
必殺の間合いに入った瞬間に跳躍、無防備なマンティコアの背中を照準、身体ごと全力の一撃を叩き込んだ。
『PURRRRRRROOOO――!』
〈ラピッド〉によって強化された速度で打ち込んだ斬撃は、黒玄が持つ鋭い斬れ味もあってさしたる抵抗も受けずマンティコアを斜めに切り裂いた。
奴の耐久力の全てを奪い取った、その確信があった。
マンティコアの全身が、氷の彫像のように硬直する。
「――あだっ!」
あまりにも全力過ぎたため僕は空中で体勢を崩し、肩から床へと落ちてしまった。それと同時、動きを止めたマンティコアの体が徐々に薄まって活動停止していくのが目に映る。
やがて、その場に青白いコンポーネントだけが残った。それもふよふよと宙を漂いながら僕の〝SEAL〟に触れ、吸収されて消え失せる。
――終わった……?
マンティコアを倒したことを確認した僕は、体を起こして安堵の息を吐く。
「……ふぅ……あたたっ……」
安心した途端、体のあちこちから痛みが押し寄せてきた。
〈ヒール〉の効果で徐々に傷が塞がっていくのはわかるのだけど、その速度が妙に遅い気が――ってバカか僕は。今は僕自身が〈ラピッド〉で加速しているのだから、遅く感じて当たり前だ。
支援術式解除コマンドをキック。僕の身体能力を押し上げていた〝SEAL〟が、そのプロセスを一斉に解放した。
時間感覚が元に戻って、傷の治りが――主観的にだけど――加速する。
床に座ったままハヌがいた方向に顔を向けると、ぽかんとしたヘテロクロミアと目が合った。
「…………」
唖然。一言で言うならそんな顔で、ハヌが僕を見つめていた。
「よいしょっと」
僕は傷が塞がったのを確認すると、立ち上がってハヌに近寄った。
「ハヌ、大丈夫だった? 怪我してない?」
未だ丸く見開かれたままの金目銀目が、いきなりこんな事を言った。
「おぬし……ラトよ。今、一体何をしたのじゃ?」
「へっ?」
質問の意図を図りかねて、僕は首を傾げた。すると、
「とぼけるでないっ! 妾に一体何をしたのじゃ! しかも何じゃ今の動きは! おぬし、妾に嘘を吐いておっ――たのはお互い様じゃが……くぅぅ……!」
がーっ、と怒鳴り始めたかと思うと途中でいきなり失速するハヌ。拳を握り締めて葛藤するその姿をしばし見つめていたけど、僕は不意に気付いた。
「――って、こんな呑気に話してる場合じゃなかった! ハヌ! 早く戻ろう! 僕達に最上層はまだ早いよ!」
フロア中央のエレベーターシャフト周辺ならSBがポップしない安全地帯だけど、逆に言えばそこ以外はみんな危険区域だ。さっきみたいに一体だけならともかく、群れで現れたらかなりまずい。
「む? 誤魔化す気か、ラト」
「ち、違うよ、本当に危ないんだよ!」
正直、僕一人だけなら何とかなる。ソロでの経験なら豊富にあるし、支援術式を重ねがけすれば、この階層のSBとも互角以上に戦える。例えSBに取り囲まれたとしても、最悪逃げ延びるだけの自信はある。けれど。
ハヌを守りながらだと、それは一気に厳しくなる。出来るのかもしれないけど、上手いやり方が思いつかないし、全く以って自信がない。そもそも、二人一緒にどうエクスプロールしていくのか、それを見定めるために低階層から始めたはずなのに。
――どうしてこんなことになってるの……!?
「と、とにかく、他のSBに見つかる前に安全地帯に――」
むすっとした顔で膨れているハヌの手をとり、引っ張って行こうとした時だった。
僕はハヌと目を合わせるために下げていた顔を上げ、来た道を戻るためその方角に視線を向け――見てしまった。
通路を埋め尽くす、種々様々なSBの集団を。
フォトン・ブラッドまで蒼くなるんじゃないかってぐらい、顔から血の気が引いて行くのが自分でもよくわかった。
慌てて振り返ると、通路の逆側にもSBの群れが壁を成していた。
「なっ……!?」
完全に囲まれている。
多分、さっきのマンティコアがトリガーだったのだ。
おかしいとは思っていたのだ。基本的に群れで現れるSBが、一体だけしかいないなんて。
おそらく奴がシャットダウンされた瞬間、通路両側に本命の群れがポップするトラップだったのだ。
――どうする!? どうする!?
狂乱寸前の頭で目まぐるしく頭を回転させる。二人一緒にこの窮状を脱するにはどうしたらいいか、やはり難しいか、それとも無理か、いいや最悪僕一人が犠牲になってもハヌだけは
「そこの二人! 悪いけど邪魔するわよ!」
突如、雷鳴のように耳を劈いたのは、凛とした美声。
「へっ!? えっ!? 誰……ええっ!?」
予想外の刺激に、僕の焼き切れそうになっていた思考は途切れ、目が自然と声の発生源を探した。
キョロキョロと周囲を見回しても壁とSBしか見えなかったので、咄嗟に術式〈イーグルアイ〉を起動。左人差し指に鷹の目を模したアイコンが浮かび、それが小さな鳥の形に変化して上空へ飛翔した。途端、〈イーグルアイ〉が取得した俯瞰視覚情報が僕の〝SEAL〟に送られてくる。
僕達を前後から挟み撃ちにしようとしているSBの群れ、そのさらに向こう側に、二つのクラスタらしきエクスプローラーの集団がいた。ちょうど僕たちを挟んでいるSB達を、さらに挟む形だ。
その中の一人、長い金髪をポニーテールに結った女性――多分、この人がさっきの声の主――が、手に持った抜き身の剣を高く掲げ、清冽な鬨の声を放った。
「かかれぇぇぇぇ――――っ!」
『おおおおおおおおおおおおおおおおっ!』
間髪入れず応じる大勢の力強い声。二つのクラスタを合わせて三十人以上はいるだろうか。かなりの規模だ。
集団戦闘が始まった。
「〈ファイアボルト〉ォ!」「〈彗烈斬破〉ッ!」「〈ライトニングクルセイド〉!」「〈ダブルスラッシュ〉!」「〈光牙〉ァ!」「〈カラドボルグブリット〉!」
攻撃術式、剣術式、槍術式、斧術式、格闘術式、拳銃術式、他にも色々。
僕達の前と後ろで、これぞエクスプロールの最前線と言わんばかりのハイレベルな戦いが繰り広げられる。
戦っているクラスタの人達の方が、SBにとっては優先排除対象なのだろう。
僕とハヌは、まるで台風の目にいるかのように、戦場のど真ん中でぽつねんと取り残されていた。
「……のう、ラトよ」
くい、と握ったままの手を引かれて、
「……え? なに、ハヌ?」
僕は半ば呆然と聞き返す。
「……何がどうなっておるのじゃ?」
とっても素朴なその疑問に、僕は返す答えを持っていなかった。