●14 狂喜と悦楽、憎悪と殺意
ようやく――ようやく巡り会えた。
今、心の底から捜し求めていた男に。
「シグロス……!」
火を噴きそうな瞳で睨み付け、ロゼはその名を口にする。
シグロス・シュバインベルグ。
ロゼの父を殺し、『ヴォルクリング・サーカス』をテロリスト集団へと堕し、リザルクの街を壊滅させ、今もなおこのフロートライズを地上の地獄へと変えた男。
全ての元凶。
大通りに面した飲食店の屋根の端。そこに立つ人影が、もぞりと動く。
「なぁ、俺からの〝メッセージ〟は受け取ってもらえたかな? 結構な数のエクスプローラーにお前への伝言を頼んだんだけどさ」
その場にしゃがみ込みながら放たれた問いに、ロゼは沈黙を返した。炎を内包した氷のような瞳が、冷ややかに鋭い視線を突き刺す。
「――あれ? その様子だと伝わってない? なんだかなぁ。あいつら役に立たないじゃないか。後で全員【お仕置き】だなぁまったく」
くは、と笑うその声の一つ一つが、ロゼの神経を逆撫でにする。
ぎり、と音が立つほど歯を食いしばると、猛り立つ戦意の余波を受けたレージングルとドローミが微かに震えた。
ロゼが全身から怒気を発しているにも関わらず、あるいは意図的に気に留めず、シグロスは矢継ぎ早に話しかける。
「じゃあ直接言おうか。なぁロルトリンゼ、悪い事は言わないさ。お前が持っている【ソレ】、俺にくれよ。お前が素直で可愛い【お嬢さん】なら、別に命までは取らないからさ」
まるで、ピザを一切れ分けてくれ、とでも言うほどの気軽さだった。
この男の物言いがふざけているのは、今に始まったことではない。かつて彼が兄弟子だった頃は、無駄にちょっかいをかけられ、よくからかわれたものだ。
しかし、あの頃とはもう何もかもが違う。
シグロスは、その手でロゼの父を殺した。その上で、よりにもよって【これまでと変わらぬ態度】で接してきているのだ。
答えるロゼの声は、永久凍土に積もる雪よりも凍えていた。
「畜生以下の下衆が賢しげに人の言葉を使わないでください、【何を言っているのかさっぱりわかりません】」
凍結した薔薇の棘のごとく鋭い痛罵は、しかし鼻で笑い飛ばされた。
シグロスは歯牙にもかけず、くひ、と笑う。
「はっ、出た出た、お得意のですます口調。何だったっけ、お前につけられたあだ名? 氷の女、鉄仮面、アイアンメイデン、ですます姉ちゃん――色々あったけど、どれも穿ったセンスしているよな。お前の場合、冷たいとか硬いとかじゃなくて、単に人見知りで必要以上に距離を置いてしまうだけなのになぁ」
「…………」
無言のまま氷結した刃物のごとき視線で見つめ返すロゼに、シグロスはなおも嬉しそうに笑みを深める。
「それそれ、その目。いい顔が出来るじゃないか。初めて見たよ、お前のそんな表情。こんなちっちゃい時から知ってるけど、『イイ女』になったなぁ――うん、実に【そそる】熟れ具合だ」
「――ッ!」
何も無い中空を掌で撫で、幼かった頃のロゼの背丈を再現した上での下賎極まる発言に、少女の堪忍袋の緒が静かに切れた。
レージングルが蒼銀の閃光と化す。
稲妻よろしく宙を駆け上った鎖――その先端についた分銅はしかし、目にも留まらぬ速度で動いたシグロスの左手、針金のような指に二つもろとも掴み取られてしまった。途端、鎖に内包していた運動エネルギーがあっさり霧散する。
「おっとと、怖い怖い。ふぅん……有無を言わさず攻撃ねぇ? ちょっと見ない間に随分好戦的になったもんだ」
「――っ」
ロゼは露骨に舌打ちし、すぐさまレージングルを引き戻す。あの男と物理的な【繋がり】を持つことがどれだけ危険かは、十全に知っている。シグロスの方も鎖に固執するつもりはなかったらしく、あっさりと手を離した。
再びレージングルとドローミを戦闘配置につかせ、背後に機甲サイクロプスを移動させたロゼは、ふと気付く。
まだいるはずのSBが近寄ってこない。それどころか、シグロスを警戒しつつ周囲の様子を伺うと、あれほどいたはずの怪物達が姿を消していた。
おそらくはシグロスが持つ暗号コードによるものだろう、とロゼは推測する。〈コープスリサイクル〉によって再生された使役SBは、〝SEAL〟に特定の暗号コードを登録している者を決して攻撃しない。これは、例え術者であっても例外ではない。暗号コードを持たずに〈コープスリサイクル〉を発動させた者は、間を置かず自ら再生したSBに殺される羽目になる。
しかし、逆に言えば――
「――……!」
不意に天啓のごとく、ロゼの脳裏に起死回生の策が浮かんだ。
そうだ、暗号コードがあるではないか。
確か、先程のハイマルチキャストによる緊急メッセージには、小竜姫の名前があった。地域全般に問答無用でメッセージを送ることが出来るハイマルチキャストは、国王や都市長といった特権を持つ人間の認証がなければ発布することが出来ない。
だが、小竜姫もしくはベオウルフには、どうやらその【つて】があるらしい。
ということは、シグロスないし『ヴォルクリング・サーカス』のメンバーから暗号コードを奪取し、それをハイマルチキャストに込めて都市全域に配布すれば――
全市民はSBから非攻撃対象と見なされ、以降の犠牲者の増加を食い止めることが出来る。
――でも、肝心の暗号コードをどうやって……
暗号コードに限らず、情報具現化コンポーネント等の〝SEAL〟に格納されたデータは、原則的に力尽くで奪い取れるものではない。所有者の命を奪った場合、〝SEAL〟ごと中のデータも死んでしまう。勿論、死体からデータを抜き出す方法が無いわけではないが、何の準備も技術もなしに出来ることではない。
いや、方法なら、ある。可能性は限りなく低いが――
「――シグロス。話があります」
今にも鉛と化して固まってしまいそうな舌を、それでもロゼは懸命に動かした。
葛藤がないと言えば、それは真っ赤な嘘になる。
シグロスとは言葉を交わすことすら苦痛に思うし、今でもレージングルとドローミが、ロゼの闘争本能が喚き立てる『今すぐあの男を八つ裂きにしろ』という戦意に反応して、ジャラジャラと音を立てている。
あまつさえ、あんなに何度も何度も手を差し伸べてくれたベオウルフと小竜姫を無下に振り払っておきながら、一体どの面を下げてハイマルチキャストのコネクションを使わせて欲しいと言うつもりなのか。恥知らずにも程がある。
しかし、事はロゼ一人の問題ではない。多くの命が掛かっている。いざとなれば額を地面に擦りつけ、靴を舐めてでも協力を取り付けなければならないのだ。
「んん? 何だよ改まって? ゴミでも見るような目付きだけど、渡してくれる気になったのか?」
遠くの方から悲鳴や戦闘音が聞こえてくる中、シグロスの明るい声は場違いに響く。
これまでそうしてきたように、ロゼは毒を喰らった象のように悶える感情を押し殺して、心に仮面をつけた。
「取引をしましょう。あなたが求める術式と、今発動している〈コープスリサイクル〉の暗号コードとの交換です」
「――はぁ?」
シグロスの反応は実に露骨なものだった。ねっとりとしていた声音があからさまに変わり、いかにも小馬鹿にしたような響きになった。
やはりか、とロゼは仮面の裏で呟いた。
「――何言ってるんだお前? 馬鹿じゃないのか?」
呆れ果てたとでも言わんばかりに声を尖らせ、シグロスは身も蓋もない罵声をロゼに浴びせた。
はぁぁぁ、とこれ見よがしに溜息を吐き、
「あのさぁロルトリンゼ。お前さ、何か勘違いしてないか? 俺はお前に【寄越せ】と言ったよな? でもって、そうしたら命だけは助けてやる、ってな? わかるかこの意味?」
妖しい光を放つライトブルーの瞳がこの時、鮮烈に輝きを強めた。それでいながら、虫けらでも見るかのように目縁が歪む。
「――【取引】っていうのは【対等な人間】同士でするものだろ? もしかしてお前、俺と対等だとでも思ってるのか? だったら勘違いも甚だしいよ。最悪だ。もう一回聞くけど、何言ってるんだお前? 馬鹿じゃないのか?」
最悪を極める返答に、ロゼは未来への選択肢が一つ、底の見えない穴へ消えていくのを感じた。十中八九こうなることは見越していたが、予想通り過ぎて溜息も出なかった。
猛獣のような殺意を抑え、その上で動かしたくも無い舌を動かしたのも全ては徒労に終わった。
もはや、この男と話し合う余地などない。それだけはよくわかった。
「お前だって知ってるだろ? 俺はさ、欲しいものは何が何でも手に入れたい質なんだって。だからお前の言う『取引』なんてものは論外に決まってるじゃないか。よく考えろよ。お前の言う『取引』で俺にどんなメリットがあるって言うんだ?」
やれやれ、と大げさに肩を竦めて見せて、シグロスはロゼを嘲笑う。
だが、ロゼはもはや彼の話を耳に入れていなかった。考えていたのは、いかにしてシグロスの隙を突き、ベオウルフと小竜姫に連絡をとるか、ということ。
あの二人には〈コープスリサイクル〉の仕様や暗号コードについても説明はしたが、ハイマルチキャストで配布する手法に気付いているかどうかまではわからない。暗号コードはシグロスでなくとも、間違いなく『ヴォルクリング・サーカス』全員が持っているはず。誰か一人を生け捕りにし、暗号コードさえ手に入れてしまえば、この惨劇は止められるはずだ。
「俺は欲しいものは全部手に入れる。逆に、どこの誰にも俺のものは分けてやらない。それが【俺のルール】だ。ロルトリンゼ、お前が選べるのは、五体満足のまま俺に従うか、メチャクチャにされてから俺に従うか――その二択だけだろ?」
愚にも付かないことを言って、シグロスは、くは、と笑う。
ロゼは思考を回転させる。ベオウルフとは既にネイバー同士だ。ダイレクトメッセージ、もしくは先程彼が剣嬢ヴィリーとしていたようにダイレクトコールで連絡をとれば、肝心なことだけは伝えられるはずだ。ここは一度、逃げの手を打ってシグロスの前から離れるべきか。ならばまず機甲サイクロプスに目眩ましの攻撃をさせ、その隙に移動を――
「おいおい、俺の話を無視して考え事か? 舐められたものだなぁ」
不意に屈み込んでいたシグロスが立ち上がり、屋根の縁を蹴った。すると学者然とした男の体が凄まじい速さで飛んだ。一瞬でロゼの頭上を飛び越え――視界から消え失せる。
「!?」
シグロスの姿を見失った瞬間、嫌な予感がしてロゼは背後の機甲サイクロプスへと体を振り返らせた。
果たして、待機コマンドを与えておいた機甲サイクロプスの肩上に、シグロスの姿はあった。
「へぇ、これが〈機甲化〉か。これも欲しいけど――要は【こういうこと】を可能にする奴が俺は欲しいんだよな」
すぐ側にある〈リインフォース〉によるマラカイトグリーンの兜をぽんぽんと叩きながら、シグロスは地上のロゼを見下ろす。
「なあ、話聞いてるか? 俺はくれよって言っただろ? お前の持ってる【ソレ】――術式の元になってる〝神器〟をさぁ?」
「……!」
ロゼは我知らず息を呑んだ。前に見た時よりもずっと動きが速くなっている。元より実力の底が見えない男だったが、今の動きは速すぎる。あれでは例えこの場から逃げ出しても、すぐに追い付かれてしまう。
「というかさ、なんでお前〈コープスリサイクル〉の暗号コードなんか欲しがる……ああ、なんだ、そうか。わかったわかった。なるほどねぇ?」
質問を口に仕掛けたところで、ロゼの意図に気付いたのだろう。シグロスは含みのある視線と声で、にたりと笑う。
「やっぱりなぁ。俺はお前の【そういうところ】が本当に大好きだよ、ロルトリンゼお嬢さん。燃え盛る正義感、高々とそびえる責任感、それでいながら森のような寡黙さ。母親譲りの美貌も相まって、お前は実に『イイ女』だよ。――だけどな?」
シグロスが無造作に足を踏み出し、機甲サイクロプスの肩から飛び降りた。四メルトル近い高さから落下したとは思えないほどすんなりと着地し、男はロゼに向き直る。
二人の身長差は二〇セントルほど。同じ地面にいながらも、シグロスはロゼを見下す。
くは、と口の端から瘴気でも洩れそうな表情で、『ヴォルクリング・サーカス』の制服を纏った男は左手をボトムズのポケットに突っ込み、残った右手を前へ掲げた。掌を見せつけるようにしてロゼに向け、
「――その綺麗に取り澄ました顔がグチャグチャに壊れる瞬間を、俺はどうしても見てみたくてさぁ?」
悪魔ですらこの表情を見れば鼻白むだろう――そう思うほどの面貌をしたシグロスの、眼前に掲げた右手が突如、粘土のごとくグニャリと歪んだ。
ウネウネと変形した右手は、不健康的な肌の色から浅黒く変色し、やがて風船のように丸く膨らみ――どうやら人の頭らしき形と大きさを持った。
シグロスが持つ神器の属性は〝融合〟。その力を用いて、この程度の芸当ぐらいやってのけることをロゼは知っていた。
故に、腕の変形程度では特に驚かなかった。
しかし。
「お前もさぁ、ちょっと先走りすぎたんじゃないかなぁ? 俺の〝力〟は知ってただろ? 何もオーディス師匠の葬式にも出ないで、さっさと街を飛び出していくことはなかったんじゃないか? だから、ほら――」
シグロスは右手の先に成形した【それ】を、ロゼに見せつけるためにさらに前へと差し出した。
「――――」
どうしようもなく、ロゼの呼吸が止まった。眼前に晒された【それ】に、心臓を撃ち抜かれた。音と光のない落雷が、脳天に落ちたかのようだった。
あまりの衝撃に、先刻まで張り巡らせていた思考が吹き飛び、頭の中が真っ白になった。
シグロスはまるで腹話術のパペットでも操るかのように、右手の先についた【口】をパクパクと開閉させ、甲高い声で台詞をつける。
「ヤア、ボクチンダヨ! ロゼチャン、オヒサシブリー! アイタカッタヨー!」
そいつの【琥珀色の眼】は左右デタラメに動き、ビックリ箱から飛び出してくるピエロのような間抜けな顔をしていた。
「――あ……あ……」
ロゼの喉から、震える吐息が漏れた。意識して出したのではなく、呼吸の際に喉に空気が引っかかって勝手に鳴っただけの声。木の洞を、風が通り抜ける際に出る音のようなものだった。
手足がすうっと冷たくなり、感覚に分厚い膜がかかって、現実感が無くなった。我知らず足元がふらついたのだろう。ぐらりと視界がゆらぎ、シグロスが一歩分だけ遠のいた。
もはや自身の体の存在さえ知覚できない。全神経が、目に映る【それ】に集中していた。
今、自分が目にしているものを、何と称せばいいのか、ロゼにはわからない。
目眩を覚え、吐き気をもよおし、背筋に悪寒が走るほどの――【何か】。
在ってはならない存在が、そこにはあった。
かくん、といきなり視界が下がった。何事かと思ったら、いつの間にか自分の膝が地面についていた。見えざる何者かの手が、ロゼの膝裏に力を加えたのかと思うほど突然で、無自覚だった。
絶望も極まると、物理的には何もなくとも、人の体から力を奪っていくものらしい。
くひ、と笛の音のようなものが聞こえたかと思ったら、それはシグロスの笑い声だった。
「――ィヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒッ! アッハハハハハハハハハッ! ――そう! それだ! それだよその顔だよぉ! いぃぃぃぃぃいぃぃい顔するじゃないかぁロルトリンゼぇ!!」
もうたまらない、とばかりに興奮したシグロスが、大声で笑いながら叫ぶ。空いた左手で顔を覆い、天上を見上げ、喜びを噛みしめるようにクツクツと嗤う。
かと思ったら突然、バッと衣擦れの音と共に左腕を振るって胸を開き、シグロスはその狂喜を高らかに謳った。
「なあ!? 馬鹿だろ!? お前馬鹿だろ!? こうなるって予想できなかったか!? 想像できなかったか!? 夢にも思わなかったか!? なあおい今どんな気持ちだ!? どんな気持ちなんだよ!? 惨めか!? 絶望してるか!? 悲しいか!? ムカつくか!? なあ答えろよ! 答えろって! 今どんな気持ちなんだロルトリンゼお嬢さんよぉ!」
一気にまくし立て、返答を聞くまでもなく再び哄笑する。胸を反らし、世界中に響き渡らせるほどの勢いで笑い声を弾けさせる。シグロスの体が動くたび、右腕の先端にある【それ】もまた、上下に揺れていた。ロゼの動揺に震える瞳は、そこに釘付けになっている。
確かに今、ロルトリンゼ・ヴォルクリングという少女は、シグロスという男をここまで喜ばせるだけの表情をしていた。
しかし今のロゼにとって、シグロスが喜び笑っていることなどまるで意識に無かった。そんな些事にとらわれる心の余裕など、微塵も残っていなかった。
血の気が引いて薄紫に色褪せた唇が、亡霊のように【それ】の名を呟いた。
「――……おとう……さん…………」
短いアッシュグレイの髪に、琥珀色の双眸。線は細いながらも、厳格さを漂わせる容貌。
オーディス・ヴォルクリング。
ロゼの父にして、シグロスの師匠。そして、かつてクラスタ『ヴォルクリング・サーカス』を率いた男。
その首から上が、シグロスの右手首の先で完全に再現されていた。
醜悪なほど、精密に。
おそらくは葬式の後、息絶えたオーディスの肉体をシグロスが神器の力によって融合、吸収したに違いない。あの神器にはそういう使い方もあると、ロゼは知っていたはずなのに。
――あの男は、【喰った】のだ。
――よりにもよって、父の遺体を。
――こんな事、あっていいはずがない。
心の底から、まさかシグロスがここまで人の道を外れたことをしようとは、ロゼはそれこそ夢にも思わなかったのだ。
無理からぬことである。人は、己の内部に持ち得ないものは、外部から入力されない限り認識することは出来ない。ロゼの性根で、シグロスと同じ発想をしろというのが土台無理な話だったのだ。
大きく見開かれ、ガラスのごとく無機質になったロゼの瞳に映るシグロスが、かつての師の顔を阿呆のように歪ませる。ライトブルーの瞳からは稚気の輝き、歯を剥き出しにした口元には歪な欲望がこびり付いていた。
「――んでぇ、どうするロルトリンゼぇ? もう一回聞くぞ? 大人しく神器を渡すか? それとも、もっともっと俺を楽しませてから神器を渡すか? どっちでもいいけど、俺としては後者だなぁ。もっといっぱい見せてくれよ。お前の絶望した顔。鉄仮面みたいだった美人が顔を歪ませて泣いたり怒ったりするところをさぁ? そら」
ずい、とオーディスの頭を持ち上げ――今度は内部に声帯まで再現させたのだろう、五十代の中年男の顔が狂ったように笑い出した。
「アヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ――!」
父の顔と声で笑い狂う哀れなパペット人形を前に、ロゼの内部で、彼女にしか聞こえない音が響いた。
それは、ひび割れる音。
ずっとずっと、被り続けてきた仮面――心の殻が、割れる音だった。
意識しないまま上体が傾いで、咄嗟に両手を突き出し、ロゼは四つん這いの体勢をとった。
ぼたぼたと、顔から地面に液体が落ちた。汗だけではない。気付けば、自分の両眼から滂沱と涙が流れ落ちていた。泣いている自覚が無いほど、茫然自失していたようだった。
体に全く力が入らなかった。頭の芯は今でも直近で銅鑼を鳴らされたこのようにクラクラしていた。冷静な心も、沈着な思考も戻ってくる気配が無い。真っ白な頭で、今にも気が狂って散り散りになりそうな心を必死に繋ぎ止めている。
そんな中、真っ先に脳裏に浮かんできた言葉は――
「――ろす……!」
「あ? 何か言ったか? んー?」
いじめっ子がいじめられっ子を嬲るように、シグロスはわざとらしく耳に左手を添えて聞き返した。しかも、殊更に人の神経を逆撫でするような、楽しげな口調で。
四つん這いになって俯くロゼは、体を小刻みに震わせ、呪いのごとく声を絞り出す。
「――してやる……!」
「あぁん? 聞こえないなぁ?」
はっはぁ、と小馬鹿にして笑うシグロス。
両手を握り込むと、驚異的な握力が路面に指を突き立て、削り取っていく。
これまでロゼの内部に溜め込まれた感情の量は、計り知れない。今までずっと、ずっと、超人的な理性で想いを抑え込んできた。父の仇を前にしてなお、フロートライズの市民の救助を優先して考えるほど、その悟性は強靱だった。
だが、それももう限界だ。
食いしばった歯の根の隙間から、ぎり、と音が洩れた。握り込んだ路面の破片が、バキン、と砕けた。
瞬間、少女の全身から迸ったのは、マグマのごとく煮え立った憎悪だった。
「――殺す!」
面を上げて、ロゼはあらん限りの声で絶叫した。
「殺してやる!」
これまでベオウルフと小竜姫の前に並べていた泰然自若の仮面など、欠片も残っていなかった。
理性も誇りもかなぐり捨て、猛烈な怒りに柳眉を歪め、目尻から涙を流し、歯を剥き出しにしてロゼは野獣のごとく吼えた。
「殺す! 何があろうと絶対に殺す! 殺してやる! お前が生きていた痕跡も記憶も何もかも! この世から殺し尽くしてやる!」
獰猛な感情の怪物がロゼの中で暴れ回っていた。もはや本人ですら何を言っているか認識していなかっただろう。口を衝くまま、少女は喉も裂けよと憎悪と殺意を吐き散らした。
怒髪天を衝く勢いで叫喚したロゼは弾かれたように立ち上がり、傍に立つ巨漢の下僕――機甲サイクロプスに膨大なコマンドを送信。
同時に己が〝SEAL〟を一斉に励起させ、ギンヌンガガップ・プロトコルを発動。戦闘ジャケットに空いた六つの穴のうち、最後の中央二つに〝奥の手〟である武器を具現化させる。
DIFA〝グレイプニル〟――それは不可視の武器だ。かつての伝承にならい名付けられたそれは、目に見えない力場による紐、と呼ぶべき代物だった。あまりに強力過ぎて単体では制御しきれないため、ロゼはレージングルとドローミを巻き付かせることによってこれを駆使する。
蒼銀と紅銀の鎖が二重螺旋を描いてグレイプニルにまとわりつく。透明のグレイプニルが二本の鎖に絡みつかれることによって、その輪郭を浮かび上がらせる。
丸太のような太さ。射程はほぼ無限。超古代、世界を呑み込むほど巨大な狼を拘束したという絶対に切れない紐――〝グレイプニル〟。その名を送られた兵器の一撃には、岩をも軽々と砕く威力が秘められている。
『ガアァァァァルァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!』
三種のDIFAと同じく、ロゼの感情のフィードバックを受け取った機甲サイクロプスがこれまでに倍する声量で雄叫びを上げた。
主従共に、全身から眩いほどのマラカイトグリーンの輝きを迸らせる。
苛烈なまでの怒りと憎悪を爆発させるロゼだったが、畢竟、それすらもシグロスにとっては愉悦でしかない。
これこそが彼の見たかったものだからだ。
燃え猛る憤怒も、荒れ狂う悲嘆も、渦巻く殺意も。
人形のように一本調子だったロゼの美貌が、醜く歪んでいく――その様が、見たくて見たくてしょうがなかったのだ。
くひひ、と笑みをこぼす卑劣漢は右手の変形を解くと、元に戻った掌に一つのコンポーネントを具現化させた。平均的なコンポーネントの数倍の大きさを持ち、深い緑色の光を放つ奇妙なコンポーネントだ。
クロムグリーンの輝きが血色の悪い皮膚の上を走り、複雑な輝紋を描く。〝SEAL〟を励起状態へ移行させ、シグロスは使役術式を発動させた。
「〈リサイクル〉」
アイコンが弾け、コンポーネントが心臓のようにどくりと脈動する。だが、彼の本領はここからだ。
「〈ミングルフュージョン〉」
さらに続けざま発動した術式は、ロゼの〈リインフォース〉と同じく、神器を元にしたオリジナル術式。
シグロスが持つ神器の属性は〝融合〟。その力を流用した使役術式〈ミングルフュージョン〉の効果は、その名の通り〝融合一体化〟――つまりコンポーネントに内包されているSBとの情報的融合である。
さらに言えば、彼の手中にあるコンポーネントもまた、複数のSBを〝融合〟させて作成した、いわば『合成コンポーネント』だった。
深緑のコンポーネントがシグロスの胸に、ずぶずぶと沼にはまるかのように吸い込まれた。
ライトブルーの瞳が、熾火にも似た真紅に染まる。
変化は劇的だった。
シグロスの全身の輪郭が崩れた。軟体生物のごとくうねり、ねじれ、膨張していく。
人でもなく、SBでもない怪物へと変貌しながら、シグロスは歓喜に打ち震え、天上へ笑い声を弾けさせた。
「アハハははHAHAハHAははははHAHAHAハはハハHAははハHAHAハ――!!」
そして、叫ぶ。高らかに。
「いいぞ来いよ! もっと俺を楽しませろよロルトリンゼェェェェェ――!!」
貪欲に悦楽を。
狂喜に満ちて。




