●10 コープス・フェスティバル
断固たる態度で臨むのである。
絶対に、不退転の決意なのである。
何があろうと、必ずや言うべき事を言ってやるのである。
「…………」
「…………」
一晩が過ぎ、ロゼさんの真の目的を知った翌日である。
エクスプローラー御用達の『カモシカの美脚亭』――二階の個室フロアの一室に、僕とハヌ、そしてロゼさんとが会していた。
テーブルを挟んで向かい合う僕達。
何だか一触即発の空気が漂っている。体中に静電気を帯びた状態で揮発油をぶちまけた場所にいるような――そんな気分。
この尖った雰囲気を作っているのは、僕の体から滲み出る緊張感なのか。それとも、向かいに座っているロゼさんの鉄仮面の冷たさなのか。もしくは、その両方か。
相も変わらず何を考えているのかわからない顔のロゼさんは、今日も藍色を主とした装いをしている。多分、青系の色が好きなのだろう。柔らかそうなアッシュグレイの髪と琥珀色の瞳が映えていて、よく似合っていた。けれど、隣に座っているハヌに何を言われるかわからないから、胸元あたりには絶対に視線を向けないようにしないと。
というか、胸なんて見ている場合では無いのだ。
そう、今日の僕は一味違うのである。
「ロゼさん」
僕は大きく息を吸い込むと、強い語調――と自分では思っているつもり――で呼び掛けた。
「はい」
恬淡とした声で応じるロゼさん。昨日の事など無かったかのような振る舞いだ。けれどよく見ると、目の下に隈らしきものが見て取れる。もしかして睡眠不足なのだろうか。
いやいや、今はそんな事はどうでもいい。
僕は意を決すると、〈フレイボム〉を直撃させるぐらいの覚悟と供に、昨日のやりとりの答えを口にした。
「ヘラクレスのコンポーネントをお譲りします」
はっきり言った。
強い声できっちり断言した。
しかし、ロゼさんの表情に変化は無い。
無反応。
なので、再度繰り返した。ロゼさんがいつかのごとく、ちゃんと話を聞いてないことがないように。
「もう一度言います。僕はロゼさんにヘラクレスのコンポーネントをお渡しします。もちろんお代は結構ですし、愛人契約も結びません」
無料である。タダである。無償、フリー、サービス価格、出血覚悟のご奉仕、持ってけ泥棒なのである。
これに対しロゼさんは、
「――。」
珍しい。ロゼさんが豆鉄砲を喰った鳩のようにキョトンとしている。心の底から驚いているのだろう。唇も半開きになっていた。
ぱちくり。そんな音が聞こえてきそうな勢いで眼を瞬かせたロゼさんは、ゆっくりと小首を傾げ、やがて絞り出すような声で、
「……………………正気、ですか?」
結構失礼な事を訊ねてきた。
いや、わかっている。ロゼさんが慇懃無礼な人であることはとうに知っている。
だから、ここは強く言い返す場面だ。僕は内心で気合を入れ直し、眉間に力を込める。
「正気です。正真正銘、心の底から本気で言っています。嘘でも引っかけでもありません。僕が持っているヘラクレスのコンポーネントは無料でお渡ししますし、その代価を求める事は絶対にありません」
「…………」
ロゼさんの表情筋は一ミリトルも動いていないけれど、不思議とその視線が懐疑的であることだけはわかった。うん、何となくだけど、少しずつ彼女の感情が読めるようになってきている気がする。
とはいえ、ロゼさんの疑念はある意味正しいのだ。何故なら――
「――ただし、一つだけ言っておく事があります」
「……はい、何でしょうか」
やはり来たか、という反応をするロゼさん。やっぱり顔つきは変わっていないけど、目線の動かし方や声の調子からそれとなく読めるのだ。
内心で鎧を纏ってがっちり身構えたであろうロゼさんに、僕はあらかじめ用意しておいた台詞を告げる。
「ロゼさん、あなたは僕達のクラスタ『ブルリッシュ・ヴァイオレット・ジョーカーズ』への加入を希望されました。それについては昨日ハヌが了承したので、現時点であなたはもう僕達の仲間です。それはよろしいですか?」
「……? はい、ありがとうございます」
僕の前振りの意図がわからず、ロゼさんはやや困惑したようにお礼を口にする。
ロゼさんから肯定の言葉を引き出した僕は、さらに追撃をかけた。
「では、僕達『BVJ』の唯一無二にして絶対不可侵のルールを説明します。それは……」
僕は右隣のハヌにちらりと目配せした。すると彼女もこちらに上目遣いをくれていて、くふ、と口元に笑みを浮かべて小さく頷く。
僕はロゼさんに視線を戻し、真っ向から言い放った。
「何があろうと、絶対に仲間を見捨てないこと」
それはつまり、
「仲間が危ない時、困っている時、助けが必要な時は、必ず全員でこれを助けます。それが例え【事情がわからないことだったとしても】、例え【助けられる本人が望んでいなかったとしても】、僕達みんなが【助けが必要だと判断した時には】、これを必ずクラスタメンバー総出で助けに行きます」
ここまでつっかえずに言い切れたのは、僕にしてはなかなか上出来である。もう一度ハヌの方をチラ見すると、うむうむ、と満足げに頷いていた。
僕は誇らしさで胸を一杯にすると、昨晩、ハヌに丸暗記するよう叩き込まれた台本の続きを口にする。
「これが僕達『BVJ』のルールです。ロゼさんも一員になったからには、これに従って貰います。これはリーダー命令です。メンバーであるあなたに拒否権は――えっと、一応は――ありません。よろしいですね?」
あまりに反応が無いので、終盤にはつい弱気になって台詞が乱れてしまった。
「…………」
ロゼさんは目を見開いたまま固まっていた。まるで彫像になったかのごとく、呆然と僕の顔を見つめている。
よろしいですね、と質問の形で会話が止まったので、そのまま場に沈黙が訪れる。ロゼさんが口を開いたのは、たっぷり一〇セカドが経過してからだった。
「……それはつまり――何が言いたいのでしょうか?」
無機質ながらも、言葉を選び選び、といった風に質問してきた。琥珀色の瞳が、こちらの思惑を推し量らんとじっと見つめてくる。
落ち着け。僕は早鐘を打ち始める己の胸にそう言い聞かせる。別に悪い事をするわけではない。しっかり、はっきりと答えればいいのだ。
すぅ、と息を大きく吸って、僕は言った。
「――言ったままの意味です。僕達は仲間です。互いに助け合うのはクラスタメンバーとしても、エクスプローラーとしても当然のことです。だから、僕がヘラクレスのコンポーネントを渡すのもその一環です。仲間であるロゼさんとは助け合うのが当たり前ですし、お金のやりとりなんて野暮ですし、あ、あいじ――契約なんか御法度です御法度。な、なので、遠慮無く受け取ってくれればいいんです。わかりますよね?」
「わかりません」
間髪入れず言い返されて吃驚した。
宝石の反射光のように鋭く尖ったロゼさんの視線が、僕の顔に突き刺さる。
「ラグさん、貴方が【何を言いたいのか】がよくわかりません。改めて説明を願います」
いやあの――これ絶対にわかってるよね? この硬い口調といい、内容といい、間違いなく『わかってはいるけど納得いかないから意見をねじ曲げて言い直せ』ってことだよね?
しかし、ここで怯んでは昨日の二の舞だ。何だか今のロゼさんは怒っているみたいだけど、そんな事を言ったら、僕なんて昨晩からずっと腹に据えかねているのだ。
いいさ、言ってやる。
「――誰にだって、人には言えない事情があると思います。ハヌもそうだし、僕だってそうです。だからきっと、ロゼさんにも言えないこと、言いたくないことがあると思います」
「――――」
ロゼさんは僕をしっかり見据えて、接着剤でくっつけたみたいに唇を噤んでいる。僕はその目を真っ直ぐ見返して、言うべき事を述べた。
「――僕は、事情を話して欲しいと言うつもりはありません。別に教えてくれなくてもいいんです。でも、僕達はもう仲間です。友達です。助け合うべき仲じゃないですか。だから――だからもし、ロゼさんが何か大変なことで困っているなら、僕はそれに力を貸します。無関係だなんて言わせません。僕達はもう同じクラスタのメンバーなんですから。【例えロゼさんがそれを拒否したとしても】、僕は何が何でもあなたを助けます。助けたいんです」
「…………」
僕の言葉を最後まで聞いたロゼさんは、無言のまま、すっと視線を右下に向けた。
――まただ。また、目を逸らした。
目線を下げたままのロゼさんの唇が少し開き、何かを言おうとする。けれど何を言うのかなんて、聞くまでもなかった。
どうせこう言うのだ。駄目です。これは私の個人的な事情です。巻き込むわけにはいきません――そのようなことを。
だから。
「……ですが、私の事情に」
と予想通りの台詞が出ようとした瞬間、僕の喉は衝動的に動いていた。
「巻き込んでください」
怒鳴り声寸前ぐらいの声量で断言した。
「巻き込んでくれていいんです。もう仲間なんですから。他人行儀なことを言わないでください。助けが必要なら必要だって、遠慮無く言ってくれていいんです」
そこまで言った時、ふと僕の隣に座る小さな身体が、もぞり、と動いて居住まいを正した。
「――よもや否やはなかろうな? ロルトリンゼ」
僕の語を継いで、ハヌが揶揄するように言った。フードを脱ぎ、外套の内側で腕を組んでいるハヌは、色違いの目に理知的な光とほんの少しの意地悪さを宿して、ロゼさんを追及する。
「妾達のクラスタに入りたいと申し出たのは、他ならぬおぬし自身じゃ。であれば、クラスタにおける掟など守って当然であろう? それにおぬし、こうも言っておったはずじゃ。ラトからヘラクレスの魂を受け取るための契約が結べるのならば、命以外の全てを差し出す用意がある――との。ならばこれを契約とすればよい。ロルトリンゼ、おぬしがこの掟を守るということを条件に、ラトはコンポーネントを渡す。これでよかろう。何か問題はあるかの?」
何だろう。ものすごく意地悪な波動を感じる。くふ、といつもの笑みを口元に浮かべたハヌは、妙に楽しそうにロゼさんを見つめている。涼しげな目は、昨日喫茶店で僕の様子を眺めていた時のものに似ている気がした。
「……つまり、ヘラクレスを無償で譲ってくれる代わりに、あなた方はどうあっても私の事情に首を突っ込む――そういうことですか」
そう言うロゼさんの声は、石が擦れ合う音にも似ていた。
その響きに込められた、圧倒的なまでの拒絶感。思わずいつもの癖で「あ、いや」と言ってしまいそうになるのを我慢して、僕は首肯した。
「――はい。でも、もう理由は聞きません。ロゼさんがヘラクレスをどうするつもりかは知りませんが……こんなものが必要になる事態なんて、限られているじゃないですか。だからきっと僕達にも手伝える事が――」
「人殺しに使います。それでもですか?」
「ッ……!?」
いきなり飛び出した血生臭い単語に、僕は文字通り面食らった。息を呑んで、舌を止めてしまう。
琥珀色の双眸から猛烈な威圧感が溢れ出ている。眉根にも髪の毛一本ほどの皺が刻まれていて――珍しく、ロゼさんが感情を露わにしているようだった。
ロゼさんはさらに言葉を重ねた。
「受け取った途端、そのヘラクレスであなた達二人を殺すかもしれませんよ。その後、街に出て多くの人を虐殺するかもしれません。そういった可能性は考えなかったのですか」
詰問するように、ロゼさんは僕を責める。
その可能性なら、ちゃんと考えていた。『ヴォルクリング・サーカス』のことだってある。最悪、ヘラクレスがそういった用途で利用される可能性も考慮していた。
だけど。
「……それはないと、僕は思います」
「何故、そう言い切れます」
間髪入れず切り返された。剃刀のように鋭い指摘に、僕はぐっと言葉に詰まる。
「だって……」
言い淀み、思わず隣のハヌに目を向けてしまう。僕の助けを求める視線を受け取ったハヌは、ふむ、と頷き、
「よいではないか、ラト。言うてやれ。嘘でも気のせいでもなく、おぬしはそう感じたのであろう?」
「……うん」
心強い声に背中を押されて、僕は意を決してロゼさんに向き直り、だけど上手く目を合わせられなくて、目線をテーブルの上に固定した。
「――助けて、って言ってました」
「……? 何を――」
「助けて欲しい、ってオーラが出てたんです」
「――?」
ちら、と視線を上に向けると、僕の言っている意味が分からなくて怪訝そうにしているロゼさんが見えた。我ながら意味不明な切り出しだと思う。とはいえ、この感覚を僕はまだ上手く言語化することが出来ない。思い付く限りの言葉で、辿々しくとも説明するしかないのだ。
「――その、上手く言えないんですけど、ロゼさんの顔とか、目とか口とか、体の動きとか、声の感じとか……ロゼさんって、あんまり表情が変わらないから、当たっているかどうかは自信ないんですけど、でも、何となくだけど、絶対こうだな、ってわかる瞬間とかもあって、後で確認したらやっぱりみたいなこともあったし、でも時々外れる事もあるんですけど、あの」
我ながら何てもどかしい、否、鬱陶しい喋り方だろうか。情けない。
もう駄目だ。変な奴だって思われるかもしれないけど、はっきり言ってしまおう。
面を上げる。
「――昨日ロゼさんが、僕にヘラクレスのコンポーネントをどうするのかって聞かれて、それは言えませんって答えた時……その理由は聞かないで欲しいって言った時、感じたんです」
それは、
「……助けて、っていうロゼさんの心の声を」
「――。」
聞いた事もない方言でも聞いたかのように、ロゼさんの目が丸くなった。ピタ、と動きが硬直して、どうやら呼吸すら忘れているように見えた。
僕は顔全体に熱を覚えて、堪らずまくし立てた。
「へ、変な事を言っているのはわかっています。でも、ロゼさんの口から出る言葉と、体全体から聞こえる『声』とが矛盾していると思ったんです。口では関係ない、聞くな、首を突っ込むなって言いますけど、態度では助けて欲しい、訳を聞いて欲しい、もっと踏み込んできて欲しいって言ってます。今だってそうです。変な【ズレ】があります。僕達を殺すかもとか、街で暴れるかもとか。そんなの嘘です。絶対に有り得ません。だって、そんな事言っちゃったら、僕からコンポーネントを受け取れないじゃないですか。本当は喉から手が出るぐらい欲しいのに、どうしてそんな事を言うんですか。何をムキになっているんですか」
むしろムキになっているのは僕の方なのかもしれない。喋っている内に感情のボルテージがどんどん上がってきている。堰を切ったように言葉が溢れてくる。
「ロゼさんは多分、無意識に僕達を試してるんです。壁を作っても踏み込んでくるかどうか。本当に僕達が信用できるかどうか、突き放す事で測っているんです。だからすぐに整合性の取れない事を言っちゃうんです。矛盾が出てくるんです」
言わなくてもいい事を言っている――自分が不用意に突っ込みすぎているという自覚はあった。
でも。
僕にはわかるのだ。
似たもの同士である、僕には。
ロゼさんが何を思っているか、何を求めているか。言動の一つ一つが、どんな気持ちと繋がっているのか。
ただの思い込みかもしれないけれど。
それでもきっと、僕だからこそわかる。
一人ぼっちの感覚。孤独のパターン。僕ならきっと、こんな時、こんな風に感じるはずだから――
つ、と。
限りなく自然に、だけど確かにロゼさんが視線をあらぬ方向へ逸らした。彼女は硬い声で言う。
「――そんなことはありません」
「嘘です」
すかさず僕は言い切った。すると、
「嘘ではありません」
頑なに、すぐさま否定が返ってきた。目を合わせないまま。
「それも嘘です。だって、目を逸らしているじゃないですか。ロゼさんは嘘を吐くときはいつも、僕と目を合わせないんです。気付いてないんですか?」
言った途端、またもロゼさんの体が凍りついたように固まった。多分、いや、間違いなく自覚が無かったのだろう。
ロゼさんの硬直時間はほんの数セカド程度だったけれど、その間に彼女の中で何かのスイッチが切り替わったらしい。
やがてロゼさんはそっと目を伏せ、小さな溜息を吐く。
「……失礼しました。少し、感情的になってしまったようです。ご無礼があったならお許しください。謝罪いたします」
さっきまでロゼさんの中にあったであろう嵐のような感情が、ごっそり抜け落ちてしまったような、静かな声音だった。
ロゼさんは瞼を開き、今度は僕とちゃんと目を合わせた。その顔には再び、鉄壁のカーテンがかけられていた。落ち着いた様子で彼女は頷きを一つ。
「わかりました。そこまで仰るのでしたら、お話しいたします。どうせ、最後まで隠しきれるものでもないでしょうし」
訥々と語り出す姿は、まるで凪いだ水面のように穏やかだった。しかしその最中、ロゼさんの両眼に挑戦的な彩りが閃いた。
「ただし私の話を聞いた後で、ベオウルフ、小竜姫――あなた方が私に協力的になるとは到底思えません。私の話を聞いて、ほんの少しでも怖い、危ないと思ったのでしたら、遠慮無く手をお引きください。私は再三申し上げている通り、ヘラクレスのコンポーネントさえあれば問題ありませんので」
挑発なのか、皮肉なのか、それともただの予防線なのか。細波のような冷笑の波動を漂わせて、ロゼさんはそんなことを言った。
ほう、と隣のハヌから感心したような吐息が聞こえた。まずい。今のロゼさんのような物言いは、ハヌには禁句だ。挑戦的な言い方をされて、現人神として荒ぶる風を司っていた彼女が黙っているわけもない。
ハヌの唇の端が吊り上がって、上向きのカーブを描いた。蒼と金の瞳に好戦的な輝きが煌めく。
「よかろう、おもしろそうではないか。聞かせてみよ、ロルトリンゼ。そこまで言うのじゃ、余程恐ろしい理由があるんじゃろうな。言っておくが、妾もラトも並大抵のことでは肝を縮めたりなどせぬぞ?」
ハヌは懐から正天霊符の扇子リモコンを取り出し、びっ、と先端をロゼさんに突き付ける。
言外の挑戦を威風堂々と受けて立ったハヌに、ロゼさんは無機質な目を向け――やがて、木の洞を通り抜ける風のような声でこう言った。
「――私の目的は〝復讐〟です」
そろそろ頃合いだった。
「さて、と」
浮遊都市フロートライズの北区の一角、打ち捨てられた場所にシグロスは立っている。
かつてはここに人を集め、少しでもこの区画を活性化させようとしたのだろう。
シグロスの周囲を取り巻くのは、大小様々な建造物。丸く大きな観覧車、高くそびえるフリーフォールタワー、くねくねと身をうねらせる蛇のようなローラーコースターのレール――そう、ここは遊園地だった。
とうの昔に廃棄され、今では寂しすぎて幽霊ですら近寄らないであろう灰色の空間。
この場所が浮遊島フロートライズに八箇所確認されている『龍穴』の一つだった。
何の手入れもされず日に焼けた遊具は、どれも色褪せ経年劣化によってボロボロになっている。これだけ力のある土地に作っておきながらこの遊園地が廃れてしまったのは、経営者の能力がどうこうではなく、単純に北区そのものがうらぶれてしまったからであろう。
くは、とシグロスは嗤う。
これはこれで、なかなかに【そそる】場所じゃないか――と。
本来であれば、ここには人々の楽しさや嬉しさといった、正の感情が満ち溢れていたはずだ。しかし今では、それらが欠けているため、この土地はただの『穴』と化している。埋めるもののない、虚ろな空白。人々を楽しませるための遊具は時の流れに身を削られ、不気味なオブジェへと変貌している。
なんて滑稽な光景だろうか。
しかも、この場所が自分の目的に必要な龍穴だったというのが、これまた皮肉的だ。
ここから、この街の絶望が始まる。
実に運命的で、いい話ではないか。
「そろそろか」
頭上の太陽が中天に差し掛かろうとしている。
体内の〝SEAL〟で時刻を確認したシグロスは、腰を屈め、地面に掌をついた。
彼が完成させた大規模使役術式〈コープスリサイクル〉は、通常の使役術式とは大きく異なる。
動力源を術者本人ではなく、大地の中に流れる龍脈とするのだ。
古代から地面の中に龍が棲んでいるという風水思想は、今でも形を変えて受け継がれている。
曰く――龍脈の力とは、フォトン・ブラッドと同じように現実を改竄する性質を持つ。即ち、龍脈とは、この惑星そのもののフォトン・ブラッドであるのだ――と。
シグロスが反則技で無理矢理完成【させた】〈コープスリサイクル〉は、その龍脈の力を引き出しやすい土地、龍穴から動力を得る事によって発動する。
さながら遺跡において、SBが自動生成されるメカニズムよろしく。
諸々の条件を満たし、発動させた〈コープスリサイクル〉のアイコンにありったけのコンポーネントをドラッグさせる。さすれば、新たな命と動力源を得た使役SBの軍団がそこに顕現する。フルオートで動く怪物達は自ら獲物を求め、殺戮と破壊を欲しいままにすることだろう。
無論、各々のコンポーネントにはタグが追加され、同じ暗号コードを持つ存在には危害が加えられないよう、術式は設計されている。つまり、この術式を発動させても『ヴォルクリング・サーカス』のメンバーだけはSBの攻撃対象にならないのだ。
本来であればこの龍穴で術式を発動させるのは、昨晩シグロスが殺戮した三人の内の一人、もしくは二人だった。元々、新生『ヴォルクリング・サーカス』のメンバーはシグロスを含めてもたったの十五人。能力が足りていない者達はツーマンセルで動いているため、八箇所の龍穴で同時に〈コープスリサイクル〉を発動させるにはギリギリの人数だったのだ。しかし幸い、他の七箇所には既に人員は配置済みで、手が足りないのはこの遊園地跡のみだった。
さらに言えば、開発者であるシグロスただ一人だけは、〈コープスリサイクル〉を自動稼働させることが出来る。他の者達は術式を維持し続けるためその場から動くことは叶わないが、シグロスならば制御機能すら龍脈に丸投げすることが可能なのだ。
故に、問題はない。
予定通り虐殺作戦は実行され、その最中をシグロスは歩き回ることが出来る。街中に出れば、きっとどこかに潜んでいるだろうロルトリンゼが、騒動を聞きつけて現れるに違いない。
死体がたくさん転がった場所で、運命の再会だ。
嗚呼、心が躍る。
「――楽しみだなぁ……」
呟くと、唇の端から涎が垂れそうになった。慌てずそれを吸い取り、くは、とシグロスは嗤う。
さあ、楽しいフェスティバルの始まりだ。
怪物の軍団と人間の死体が入り乱れる、愉快な愉快なお祭りだ。
「喜べ、『ヴォルクリング・サーカス』がみんなの街にやって来たぞ、っと」
そう嘯いた瞬間、ようやく時が満ちた。
作戦開始の時刻である。
くひ、と堪えきれぬ歓喜を声に混ぜて、シグロスは起動音声を口にした。
それは、他の七箇所の龍穴でもほぼ同時に発せられた死の呪文だった。
「〈コープスリサイクル〉」




