離岸流
海に入る方は、海難事故にお気をつけください。海は魔境です。
離岸流というものをご存じだろうか。
言葉の通り、海岸の波打ち際から沖へと流れる海流のことである。遠浅の海で起こりやすく、遠浅の海というのは、その地形的な点からして、海水浴場として開かれていることが多い。当然、泳ぎに不馴れなものもいる。なので、しばしばその離岸流に巻き込まれ、海へと持っていかれる人間が出たりする。
そう、持っていかれる、というのはまさにぴったりな言葉だ。足元の砂がさらさらと流れ始めたかと思うと、腰のあたりに強いうねりを感じ、何かがおかしいと思ったときには、すでに潮の流れの真ん中にいる。体が急速に岸から遠ざかる。それも自分の意思ではなく、別の力によって強制的に運ばれていく。それは、とても恐ろしいことだ。
離岸流にのまれたら、まずは落ち着くことが大切だ。落ち着いたら、海面に頭を出し、浜の方向を見定める。そして砂浜と平行になるように泳ぐ。決して、離岸流に逆らって泳いではいけない。あなたが強靭な肉体を持ち、泳ぎに自信があり尚且つ、サメやマグロと同じ速さで泳げるのであれば話は別だが。
わたしは遠泳には自信があるけれど、魚類のようなしなやかなヒレは持ち合わせていない。きっと、ヒレがあればわたしは速く、とてもとても速く泳げるだろう。けれどわたしにはヒレはない。だからわたしは定説の通り、海岸と平行に泳いだ。離岸流の幅はそれほど広くはない。せいぜい、10数メートル程度なのだ。
普通の、離岸流ならば。
泳いでも泳いでも、わたしはその離岸流を抜けることができなかった。
沖に流され続け、これはそろそろ、さすがにまずいと、恐怖がじんわり手足に広がった。わたしは意識を集中させながら、ゆっくりと水をかく。ここで、パニックになってしまえば、わたしは海の藻屑と化すだろう。わたしはまだまだ泳ぐことができる。わたしはまだまだ泳ぐことができる。わたしはまだまだ泳ぐことができるけれど、あまりに岸から離れてしまえば、戻ることが困難になる。波は穏やかだけれど、高波がいつ、襲ってくるともわからない。このあたりには、フカは生息しているのだろうか。
今日は絶好の海水浴日和なのに、浜には人影は見えなかった。浜の向こう側には道路があるが、そこを通る車は疎らだ。
当たり前だ。私は人気のない海を探して、ここまでやってきたのだから。
思い返せば、後悔しかない。一時の気の迷いから、わたしは家族にも友人にも何も告げず、一人でこの海に来た。こんなことになるのなら、せめて誰かに相談しておくべきだった。
わたしは、なぜ、蛤の密漁などしようとしたのだろうか。天罰が下ったのだとしても、代償が命というのは、あまりに酷ではないだろうか。
神様、考えなおしてください
わたしは心の中でそう祈った。祈りというものは、返事を期待するものではない。だから、わたしはただひたすら、考えなおしてください、と唱えた。わたしは、その言葉を繰り返すうちに、無茶な計画ばかり立てる上司の顔を思いだした。考えなおしてください、リーダー。それはコストがかかりすぎます。考えなおしてください、リーダー。それだと納期までに間に合いません。ここの仕様はもっとシンプルにできます。この型は少し古いです。今の流行はこれで、先方の要望もこれに近いと思います。
考えなおしてください、リーダー、考えなおして
だって食うんだろ
頭の中に声が響いた。それはリーダーの声に似ていたけれど、別の人間のように思われた。
蛤、食うんだろ。食うつもりなんだろ。それともなんだ、飼うのか?飼育してくれるのか?
養殖ならまだしも、個人的に蛤を飼っている人間なんて聞いたことがない。大体、二枚貝を飼ったところでそれは何か慰めになるのだろうか。蛤はペットではなくて食料だ。わたしはそのようなことを瞬時に思った。思ってしまった。
ほらみろ、やっぱり食うつもりだ。おめぇよ、生きながらに炙られるのが、どれほど苦しいことか、わかるか?いっぺん、炙られてみるか?あ?
蛤の気持ちなどわかるわけがない。
上等じゃゴルァ!!こちとら、何百年も地獄の釜で蒸されてるんじゃぁ、おめぇもこっちに来りゃあいい!!地獄に落ちやがれ、このアバズレめ!!
頭が割れるような怒声が、わたしの脳みそを震わせた。思わず両手を耳元へ持っていこうとした時、わたしの体は頭のてっぺんまで、海の中にぐいと、沈んだ。太陽の光が海水に濾されて青白く見えた。わたしは指の先さえ動かすことができず、ずるずると、海の底へ落ちていく。
肺の中の空気を使い果たし、断末魔のかわりにわたしの口から出てきたのは、頼りない気泡だけだった。霞む視界の端に、赤黒い塊が見えた。それは黒と黄色の腰布のようなものを、身に付けているように、思われた。なんだろうあれは。
おにーのぱんつは
再び、頭の中で声が響いた。それは先程の声よりも、野太いものだった。
おにーのぱんつは
声は歌うような節をつけて、その続きを待つように沈黙した。
つよいぞ・・・
ざばぁん、と激しい波音が聞こえた。太陽の光がわたしの顔を正面から照らし、わたしは眩しさに目を瞑った。背中や、ふくらはぎや、二の腕に当たる感触から、どうやらわたしは砂浜に寝転んでいるらしいとわかった。
いやーすみません。亡者が逃げ出したようで。あなたはまだ、地獄に来る予定ではありませんから、どうぞ地上にお戻りください。
野太い声が耳元で聞こえた。それは頭の中ではなくて、頭の下、この地面の下から響いてきた。
はあ。
わたしは状況がよく飲み込めず、気の抜けた返事をした。
それとも、早目に入りますか?あなたが望むのなら、それは可能ですよ。遅らせることはできませんが、早めることはいくらでもできますから。
いいえ、結構です。遠慮します。予定通りで構いません。わたしは帰ります。
Hey, what are you doing here?
砂を踏む足音と、声が聞こえた。地面からではなく、それはわたしの斜め上から降ってきた。わたしは、目を開いた。わたしのすぐそばに、サングラスを掛けた老人が立っているのが見えた。わたしは辺りを見渡した。見えるのはどこまでも続く白い砂浜と、老人と海だけだった。
What, are, you, do-ing?
老人は、先程よりもゆっくりと、そしてはっきりと、わたしに話しかけた。
n, no-・・・
No? Uh? Ok.
I understand you said No but I asked you what you are doing here. You don't look like a tourist and a napping idiot, because you are lonely and your skin is too white and you are meager face.
I think a poor is wisely than a rich. I like wise people. They are full of wit and their story so crazy ,noisy, and humanity. Don't you think so?
-thing・・・
What?
No-thing
波の音が聞こえた。やどかりが目の前を大急ぎで横切っていった。老人は沈黙し、わたしを見つめている。わたしも、途方にくれて、老人のサングラスを見つめた。わたしは、いったいどこまで流されたのだろうか、と水平線を見た。
ひたすら青い海原が、そこにはあるだけだった。