生命球
チリリと呼び鈴をならす。
「なんでしょう、お嬢様?」
間髪いれずに飛んできたリズが私を見上げる。黒い髪にチャーミングなソバカス。白と黒のモノトーンのメイド服と相まって、頭ひとつ小さい彼女はなんだかリッチモンド公園で見かけたウサギみたいだ。
「リズ、ハロッズへお買い物にいきましょう」
屈んでリズに目線を合わせると、私は彼女の頬に手を伸ばしてニコリと笑った。
「え……と、あの……メイド長にお話してまいります」
意地悪しているわけでもないのに、なんだかひどく意地悪をしたような気分になるリズの表情。
「だめよ、リズ、私が誘っているのだから、返事はハイかイエスしかないの」
見ているとホントに意地悪をしたくなって、私はニコリと笑うと彼女を引き寄せる。
「え、あ、あのお嬢様?」
キスを嫌がる猫みたいに両手を突っ張って抵抗するリズをクルリと回して、私は後ろからギュッと抱きしめた。真っ赤になった耳元で私はリズに囁く。
「リズは私のこと、嫌い?」
クタリ、と力を抜いて彼女が小さく首を降る。
「じゃあ、好き?」
コクリ、と頷いて小さくため息をつく。
「お嬢様は意地悪です」
クスリ、と笑って私はリズを抱きしめた腕を緩めた。
「だってリズを見ていると、なんだか苛めたくなってしまうんですもの」
半べそをかいて私を見上げる彼女の頭をポンポンとかるく叩いてからもう一度屈んで目線を合わせる。
「ほら、お買い物にいくの、返事は?」
すねたように顔をそむけてから、リズが小さく返事をする。
「ハイ、お嬢様」
ハロッズで新しい紅茶を買って、イングリッドの店でヤードレーの香水を買って……、私のショールと帽子を取りにゆくリズを目で追いながら私は窓の外に目をやる。
「あと…スティーブンのお見舞いにも……いかなくちゃ」
東側の窓辺、何も入っていないガラスの器を見て、私はため息をついた。時間はいつだって私の大事なものを奪っていってしまう。
§
八歳の誕生日、仕事でインドへ渡った父は手紙の一つもよこさず、私は母にワガママを言って執事のスティーブンに市場に連れ出してもらった。
「あれは何?」
広場に並んだ出店の中、私の目は水草と小さな魚や海老の入った小さなガラスの器に釘付けになる。
「生命球というものでございます、お嬢様」
スティーブンがよく見えるように私を抱き上げてくれる。
「生命球?」
キラキラと輝くガラスの器の中で、小さな海老がせわしなく水草をつまんでいている。
「地球の仕組みを器の中に作った箱庭だそうです」
刻みたばこの甘い匂いのするスティーブンのコートの腕にしがみついて私はそのガラスの器から目を離せずにいた。
「スティーブン、これ……わたしコレ、おうちに欲しいわ」
子供のワガママに、優しい笑顔で彼は答える。
「ではお嬢様、お誕生日のプレゼントに私が買って差し上げましょう」
その一言がひどく嬉しかったことを私は今でも思い出す。そして彼が次に言った言葉も。
「ただしお嬢様、何事にも終わりはございます。これはそういう小さな世界です」
その日から私は、暇さえあれば窓際に置かれたガラスの器の中を泳ぎまわる小さなエビを飽きもせずに眺めていた。冬には南の窓辺に、夏には東の窓辺に移されているキラキラ光る小さな世界を暇さえアレば眺めていた記憶がある。
そんな小さな美しい世界だったが十歳になったイースターの翌日、唐突に終わりを告げた。大人になった今なら当たり前の事だと判る。どんな生き物にも寿命はあるのだから。
丸い容器のそこに横たわり動かなくなった小さな生き物は、まるで茹でられたかのように赤く変色してその小さな世界が二度と戻らないことを私に教えてくれていた、どこまでも残酷に。
出口のない容器を器用にガラス切りで開けて、スティーブンは庭の片隅に私のお気に入りの小さな世界を埋葬してくれた。
§
その日の午後、買い物の帰り、私達はスティーブンの家を訪れた。
引退した使用人のもとを訪れるなんてと言う人も居るだろうが、言いたい人には言わせておけばいい。
「お嬢様、わざわざお越し頂いて」
応対に出たスティーブンの姪に見舞いの品を押し付けて、後のことをリズに任せると、私はスティーブンの部屋をノックした。
「ブレンダよ、スティーブン、入るわよ?」
彼はもう起き上がる気力もないのか、横たわったまま首だけをこちらに向け、それでも優しく微笑んでいた。なんだかここ数日で随分小さくなってしまった気がする。
「具合はどう?」
手をとって顔を覗きこむ。
「お嬢様……」
しなびてしまった手でスティーブンが私の手を握り返す。
「何事にも、終わりはございます」
かすれた声で、だが子供の頃見上げたのと同じ優しい笑顔で彼が微笑む。
「知ってるわ、私ももう子供じゃないもの」
年老いた執事に強がって、精一杯の笑顔を向けた。
「でもね、私がワガママなのはしっているでしょう?」
私は部屋から持ってきたガラスの器を出すと、テーブルの水差しから水を注いで花を活けた。
「だから一つの世界が壊れてしまっても、こうして次の世界を作ることにするわ。だからね、スティーブン……一人で行ってしまうなんて許さないんだから……」
§
見舞いの帰り、私は煙たい空を見上げて思った。この大きな町にもいつか終わりが訪れるのだろうかと。
「お嬢様?」
リズが私の手をそっと握る、暖かで柔らかな手。
「大丈夫よ……、大丈夫」
小さな手を握り返して私達は家路を急ぐ、
秋の日差しに、並んだ影が石畳に長く伸びてゆく。
もろく、残酷で、それでも世界は美しい。あのキラキラ光る小さな世界のように。