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夏の道  作者: 遠野 紗
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あの場所へ

 ふと目が覚めると、いつの間にか電車は田舎いなか道を進んでいた。数十分前まで窓の外に見えていたビル群が無くなり、目にしみるほどの緑が外を通り過ぎていく。同じ県内でありながら、ここまでも違うのかと小さな驚きを覚える。れいは目を細め、窓枠に頬杖をついてぼうっとそんな風景を眺めていた。

 随分と懐かしい夢を見た…。

「オニさんこちら…」

 思い出を静かに呟いてみる。その小さな呟きはガタンゴトンと電車の動く音と扇風機の回る音にき消された。

 真っ青な空、

 濃い緑の木々、

 あぜ道、

 蝉の声、

 あの子の足音。

 もう何年も前の思い出だ。はっきりしているのはこの五つで、あの子がどの子かも分からない。親戚の家に遊びに来た子か誰かだろうとしか。

 零は額に浮いた汗を手の甲で拭った。窓の淵に両手を掛けてグッと持ち上げる。妙な音を立てて少しだけ開いた窓からは湿っぽい風が入ってくるだけだった。

「あ〜あ。意味無かったかぁ…」

 また閉めるのも億劫おっくうで、開け放したまま零は苦笑して背もたれに体を預けた。

 向かい側の席に遠慮無く置いた自分の荷物が振動に合わせて上下に揺れている。

 そっと目を閉じてみる。視覚からの情報が無くなり、敏感になった聴覚と嗅覚が窓の隙間から流れ込む音や匂いに反応する。

 草、

 清流、

 木々、

 田圃たんぼ

 …。

 嫌いではなかった。幼い頃は田舎暮らしだったし、これらは何時でも側にあった。この匂いの中にいると落ち着いた。何かに包まれているような気がして。

 パチリと目を開けると、周りは薄暗い。トンネルに入ったのだ。

 嫌いではない。だけど…

 零は窓ガラスに映った自分の顔を見つめた。これといって特徴のない顔がこちらを見つめていた。

 のっぺらぼうだ…

 ふとそんなことを思い、零は視線を逸らした

 電車はトンネルを抜け、すっかり濃くなった緑の中を走る。匂いが音が零を包み、零は身を縮めた。

 何時からだろうか。

 これらの匂いや音に包まれる時、不安になりはじめたのは…。

 この時だけではない。左右に田畑くらいしかないような道で横を強い風が吹き抜けて行くとき。朱色に染まった黄昏たそがれ時に鳴くカナカナゼミの声を聞くとき。雲一つない真っ青な夏の空を見上げる時…。ザワザワと心の中に入り込んでくる。幼い頃はこんなことはなかった。

「次はぁ、終て〜ん、終て〜ん。お忘れ物のなぁようおきょぉ付けください」

 夏バテでへばっているような間延びした車掌の声が車内に響く。零はゆっくりと一回深呼吸した。

 周囲を見回すと、いつの間にか車内には零しかいなかった。さすがローカル線の終点だと妙に感心しながら向かいの荷物を持ち、扉へ向かう。ハラリと白い用紙が荷物のポケットから落ちた。

「あっ。危ない危ない」

 これがなかったら辿り着けない。

 一度荷物を下ろし、屈んで紙を拾う。

 母の茜が書いた分かりにくい手書きの地図。

「母さんも、先に行ってろって言うならもっと分かりやすい地図を書いてくれればいいのに…」

 ブツブツ不平不満を呟きながら、荷物を一つ二つ三つと手に取る。因みに、この内二つは茜の荷物だ。

 仕事の日程がずれて、帰省が二日伸びた。零も茜の日程に合わせるつもりでいたが、つい昨日、先に行けとの御達示が出た。なんでも今日の内に届けておかなくてはいけないものがあるとかで、反論する暇もなく、あれよあれよと零の帰省日が決定した。いつの間にか書いてあった分かりづらい地図が渡され、ついでついでと茜の荷物が渡された。

 そしてこの荷物の量である。

 後から車で来るんだから、自分の荷物くらい自分で持ってくればいいのに、とは口に出さない。出したところで意味が無いからだ。自由奔放な母の困ったところ。

 零は一つ溜息をつき、茜が書いた地図に視線を落とした。

 母方の実家はこのローカル線の終点で降りて、三十分程歩いたところにある。

 零は小学校三年生まで、茜の仕事の都合でそこに住んでいた。特にこれといった思い出はない。ただ春になればパステルカラーの草花を摘んで玄関に飾り、夏になれば緩やかな流れの川で遊ぶ。秋になれば紅に染まった木の葉や銀杏ぎんなんを拾い、冬になれば白銀の雪で雪だるまを作って遊んだ。近所に十人も二十人も子供がいない田舎で、零の遊び相手は自然だった。

 いろんな色や音、匂いが存在し、零はその中を自由に歩き、走った。

 そう、自由だった。


 私が、私でいることができた……


 徐々に電車が速度を落としていく。電車が動く音が弱まるに連れ、外の蝉の声が大きくなっていく。前方に目的の駅が見え、零は荷物を持ち直した。

 ゆっくりと電車は駅へと入っていく。

 プシュ−…

「終点ー、終点ー。ご利用ありがとうございましたぁ」

 二両編成の電車は零一人を吐き出して、扉を閉めた。

 木々の緑に目を細めながら、人のいないホームの看板を確認する。

 うん、ここだ。

 ホームから駅舎へ向かう石階段を降りながら、まるでどこかの物語に入り込んだかのような気分になる。駅員さえいない無人の待合室は静かで寂しくて、でも何故か落ち着いた。

「ここから…駅を出て、目の前の道を真っ直ぐ?」

 道?…真っ直ぐな道なんてあったっけ?

 真っ直ぐ書かれた地図上の道と自分の記憶に不安を感じつつ、改札口のない駅を出る。

「道…」

 目の前にクネクネと曲がった道が一本。

 真っ直ぐじゃないけど…、一本しか無いからこれのこと?

 この地図は信用ならない。

 悲しいことに初っ端からそのことに気付かされる。零は小さく今日何度目かの溜息をついて足を踏み出した時、


「零さん?」


「えっ?」

 不意に後ろから名前を呼ばれ、慌てて立ち止まって振り返ると、

 同い年くらいの一人の青年。

 かろうじて駅の影になっているところで文庫片手に立っていた。


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