39:水上 桜は食べられちゃいました
ついにやってきました、隊長さん一日独占デー。
今日は少し遠くまで行くからと、馬で移動することになりました。
一人で乗ることはできないけど、何度か乗らせてもらったおかげでバランスの取り方は多少わかってきたような気がする。
隊長さんは、前に座る私を抱き込むように馬にまたがっている。
「その包みはなんだ」
私が手に持っている荷物を後ろから覗き込んで、怪訝そうに問いかけてきた。
中身が見えないように布で包んだそれは、両手に余るくらいの大きさだ。
軽いから持っていても疲れないけど、うっかり落としてしまわないようにぎゅっと抱え込んだ。
「まだ内緒でーす。着いてからのお楽しみです!」
「少し、時間がかかるが」
「グレイスさんと一緒なら大丈夫です。デートですからね!」
目的は別にあるとしても、せっかくの二人きりの時間。
久しぶりなんだから、めいっぱい楽しまなきゃ損だよね!
なので、後ろから聞こえた隊長さんの悩ましげなため息は、都合よく聞こえなかったことにしました。
* * * *
しばらく馬を走らせて、隊長さんが連れてきてくれたのは小高い丘の上だった。
「ここなら、王都が一望できる」
「わぁ……」
私のリクエストどおり、とても見晴らしのいい場所だ。
ペリトとは比べ物にならない規模の王都が、まるで博物館にあるジオラマのよう。
丘を渡る気持ちのいい風に、自然と頬がゆるむ。
「……? これって……」
ふと、一本の木に視線が吸い寄せられた。
背が高く、幹が太く、赤茶色に紅葉した葉をつけた広葉樹。
これは……見覚えがある、どころか……
「花が咲いていなくてもわかるのか」
「え、じゃあ……」
「ああ、桜の木だ。春には薄紅の花弁が舞う」
隊長さんは真顔でうなずいた。思い違いじゃなかったらしい。
私は呆然と、紅葉した桜の木を見上げた。
ぺたぺたと意味もなく木の幹に触れて、感触を確かめる。
「こんなところに、あったんですね……」
桜モチーフのアクセサリーがあるくらいだから、この世界にも存在していることは知っていた。
ただ、それが本当に私の知る桜とまったく同じものか、少し不安だった。
木の幹なんてどれもそんなに変わらないと思ってたけど、色も見た目も手触りも、記憶に染みついていた。
そういえば、子どもの頃に家族で花見に行ったとき、木登りしてすごく怒られたなぁ。桜は折れたら枯れちゃうからって。
葉っぱの色も形も、縁のギザギザもとても懐かしい。
春も夏も秋も冬も、私の二十年間に、桜は当たり前のようにそこに存在していた。
「花も咲いていないのに、意味はないかと思ったが」
「いえ、うれしいです。見られたことも、グレイスさんが今日ここを選んでくれたことも」
本当に、隊長さんはいつもいつも、私の欲しいものをくれる。
私がこれから何をしようとしてるのか、知っているはずもないのに。
「……うん、桜が見届けてくれるなんて、最高のロケーションですね!」
私は一つうなずいてから、ずっと大事に抱えていた荷物を包んでいた布を外す。
中から出てきたものに、隊長さんは目を見張った。
「それは……」
「じゃじゃーん、うさぎのムーさんバスタオルです。ちなみに、中身入り」
「中身……?」
「家族にお手紙を書きました。あと、他にもちょっと。リボンはすみません、せっかくのプレゼントだけど、使わせてください」
バスタオルを折り畳んで、ちょうど真ん中に来るところに手紙を入れた。
封筒の中には、私の髪も一房。肌身離さず持っていたけど一度も出番のなかった短剣を取り出して、目立たないところの髪を切った。剣を握る手は、もう震えなかった。
バスタオルを結ぶリボンは、パーティーのときに髪を結んでいたもの。すごくきれいでもったいない気もしたけど、だからこそ使いたかった。
「知ってましたか? 実は精霊が私を連れてきたときの道はまだ残ってて、人は通れなくてもちょっとしたものくらいなら送れるそうですよ」
私がそれを教えてもらったのは、パーティーの前日。
精霊の道と異世界トリップは同じ原理だって聞いたし、ずいぶん前に人間は大きいから異世界に飛ばせないって言っていたのを思い出して、ならもっと小さいものなら? と確認してみたらビンゴだった。
やっぱりオフィは『聞かなかったから』話してくれなかったらしい。
まったく、精霊ってやつはこれだから!
まだ残っている道をたどって、私が異世界トリップした、ちょうどその瞬間に送ることができるらしい。
使ったばかりのお風呂場に落ちても、家族が見つけるまでの時間くらいは、何重にも重なったバスタオルが手紙を守ってくれるはず。
手紙は、パーティーが終わってから今まで、何度も何度も書き直した。
ようやく納得のいく手紙を書くことができたのは、昨日のこと。
伝えたいことがありすぎてまとまりがなくなっちゃったけど、今の私の正直な気持ちを、家族にも知ってほしかった。
「そう、だったのか……」
「王都は正常な魔力に満ちているから、きっと迷わず送れるだろうってことでした」
王様の魔力で守られている王都。
魔力の淀みから生まれる魔物の入り込む余地のない、正常な魔力が流れるこの地は、一番精霊の力が浸透しやすいらしい。
「だから……グレイスさん、お願い」
私はうさぎのムーさんバスタオルをぎゅっと胸に抱きながら、隊長さんを見上げる。
「グレイスさんが望んでくれたら、私はもう迷いなく飛び込めます。これを、手放せます」
パーティーの帰りに聞かせてもらえなかった本心を、今、聞きたい。
私が口を閉ざすと、聞こえるのは葉擦れの音だけ。
桜の枯れ葉が二人の間を通り抜けていった。
隊長さんは一度瞳を閉じて、ゆっくりと開く。
青みを帯びた灰色の瞳に、今まで見たことのない色が宿っていた。
「王都に来てから、お前が俺の名前を呼ぶたびに、期待は増した。そしてその期待を握り潰すたびに胸が痛んだ。いっそ一思いに刺し貫いてほしいと思うほど」
えっ、と私は目をまたたかせる。
まさか、隊長さんにそんな苦行を強いていたなんて。
私は私なりに自分の気持ちを伝えているつもりだったんだけれども。
肝心な部分が抜けていたから、逆に隊長さんには残酷な仕打ちになってしまっていたのかもしれない。
「もし……お前がいなくなったとしても、俺は変わらず日々を過ごすだろう。第五師団隊長としての責任を負い、国民を守るために」
それは、想像がつく気がする。
恋人に捨てられて自堕落になる人や酒に溺れる人もいるけど、隊長さんは違う。
隊長さんは、どこまでも隊長さんだから。
「生涯を共にしたいと願った女性を失ったからといって他のすべてを投げ出せるほど、俺はもう若くはない」
「グレイスさんは真面目さんですもんね」
「……そうだな」
隊長さんはうなずいて、小さく息をつく。
それから、胸ポケットからあるものを取り出した。
「だから……それを癪に思うのなら、どこにも行くな」
パーティーの日から預けっぱなしだった、桜のペンダント。
それを、隊長さんは私の首につけた。
まるで首枷のように感じたのは、私がそう望んでいたからかもしれない。
「サクラ。ずっと、俺の傍にいてくれ」
それは懇願だった。
私にしか叶えられない、隊長さんのわがままだった。
癪に思うなら、なんてずいぶんと素直じゃないプロポーズだ。
そう言いながらも、変わらない毎日を過ごしながらも、“私と一緒にいる隊長さん”と“私がいない隊長さん”は変わってしまうんだろう。
小隊長さんが、私が来てからの隊長さんの変化を感じ取ったように。
寂しくて泣いてしまうことはなくても、きっと隊長さんの胸にはぽっかりと穴が開く。
……私でしか、埋められない穴が。
「グレイスさんが、“桜”である私を受け入れてくれるから。それなら、私はサクラとして生きていける気がするんです。『見返り』を、あげられるって」
一歩踏み出す勇気をもらうように、私は桜のペンダントをぎゅっと握る。
家族より、故郷より、隊長さんの隣を選ぶ覚悟を。
隊長さんを愛し続ける覚悟を。
「こっちの世界の言葉ではどうか知らないんですけど。私の国の言葉では、食べるって、そういうことの比喩表現でもあるんです」
私の唐突な方向転換にも、隊長さんは振り落とされることなく静かに聞いてくれる。
「私は、グレイスさんに食べられるたびに、もっともっとグレイスさんのことを好きになっていきました。少しずつ、帰りたいって気持ちも食べられていきました」
どっちつかずでずるい私を、隊長さんは待っていてくれた。
いつも私のために逃げ道を用意していてくれた。
身体も心も全部丸ごと、隊長さんは私を愛で包み込んでくれたから。
まだ胸はチクリと痛むけど、もう気持ちは定まった。
今、私の心は一直線に隊長さんに向かっている。
「好きです。大好きです。……たぶん、愛してるってこういうことです」
冗談でも誇張でもなくそう言えるようになるまで、もっとずっと時間がかかると思っていた。
もしかしたら、一生言えないかもしれなかった。
なのに、気がつけば私はこんなにも、隊長さんへの想いでいっぱいになっていた。
「私、これからももっとグレイスさんのことを知って、グレイスさんのことを好きになっていきたいです。だから、どうにもならない未練と一緒に、私を食べてください」
そうしてきれいに私の穴を塞いでほしい。
この世界に来て、失ったものが多すぎて、ずっと塞がることはないと思っていた心の穴を。
塞ぐことができるのは、隊長さんだけだから。
「この、髪の一筋から」
隊長さんは私の髪を梳き、指に絡めた一房にそっと唇を押しつける。
「爪の先まで、すべて、俺のものにしたい」
すくい取るように握られた手の、爪の先を軽く食まれる。
触れられたところから伝染するように、ぶわりと全身に熱が巡っていく。
すべて、隊長さんのものになりたい。
彼に食べられたくて仕方ない。
もう何も迷いはなかった。
私はうさぎのムーさんバスタオルをガシッと掴んで、大きく振りかぶった。
「見ててくださいね!」
言うが早いか、私はバスタオルの塊を丘の上からポーンと天高く放り投げる。
遠くまで、ずっとずっと遠くまで、もう一生交わらない大切な人たちに届くように一心に願う。
精霊はしっかりと願いを聞き届けてくれたようで、うさぎのムーさんバスタオルは落下していく途中で掻き消えた。
その瞬間、ひらり、と視界の端を掠めたのは。
「え……っ!?」
桜が、咲いていた。
さっきまで枯れ葉を落としていた桜の木が、今は高らかと春を告げるように咲き誇っていた。
そうして、舞い散る桜の花びらの合間から、彼らが私に笑いかけている。
《おめでとー、サクラ!》
《やっと会えたね! うれしいね!》
《とってもシアワセね!》
黄色、ピンク、水色、黄緑。精霊はとてもカラフルだったらしい。
その声を、その姿を、最初からすぐそこにいるのが当たり前だったみたいに、自然と受け入れられた。
ひらひら舞い散る桜吹雪と、色とりどりの精霊と。
まるで、この世界が私の選択を祝福してくれているような美しさだった。
「グレイスさん、桜です、桜!」
「ああ……桜、そうか……」
歓声を上げる私とは正反対に、彼は放心したように小さくつぶやいて。
それから、ゆっくりと私に視線を向けた。
「これが、さくらか」
瞳を細めて、愛おしそうに微笑んだ。
青灰色の瞳は、私の中に春を見ていた。
そう、これが今までの私。今までの水上 桜。
彼だけが知っていてくれればいい。彼だけに知っていてほしい。
だから私は、水上 桜をお皿に乗せて、フォークとナイフを左右に置いて。
「さあ、召し上がれ!」
そうしてサクラ・ミナカミになって、この世界で、グレイスさんの隣で生きていく。




