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婚約破棄された香薬令嬢は、呪われ公爵家の空気をほどく ~魔力なしと捨てられた私だけが、冷血公爵を眠らせられる~  作者: 小竹X


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捨てた名では、もう彼女を閉じ込められない

王宮香薬局の大審査室には、香炉が一つも置かれていなかった。


白い壁の上窓が三つとも開き、朝の水を張った碗が中央卓の端に並んでいる。春薔薇夜会で見た花の華やぎも、旧工房裏門の白花香もない。乾いた紙、洗った石、濡らした無香布。その薄さが、今日の裁定のために用意された空気だった。


リゼットは入口で一度だけ息を吸った。喉は詰まらない。


大審査室の右には、セラフィナ、ベルナール、王宮香薬局の老審査官、若い書記が座っている。左には薬種商組合の年配の男、ベルフォール侯爵家の代理人、モリエ男爵家の家令が立った。被害を受けた家の証言者たちだ。


奥には、オルラン工房の代表者、帳場代表、ジラール・ラングレー、マリウス、コレットが並んでいた。


コレットは白い香袋を胸に下げている。香聖女の名で夜会に立っていた時と同じ白だ。だが、今日は香りが薄い。白花香を強めれば、すぐに窓と水で逃げる部屋だからだ。


証人席端にはアルセーヌが立っていた。リゼットの後ろを塞がず、公爵家の紋章を前へ出す位置でもない。昨日までと同じ、彼女が振り向けば見えるが、彼女の手順へ影を落とさない距離だった。


セラフィナが告げる。


「本日の大審査は、香聖女名義品、花冠小印写し、火入れ継続命令、旧工房戻り荷処分を同じ裁定線で扱います。新しい黒幕探しはしません。すでに保全された現物をどの責任へ戻すか決める場です」


若い書記がそのまま記録した。


リゼットは中央卓の前に進んだ。


並んでいるのは、見慣れたものばかりだった。香聖女名義献香箱の外装。リボン裏の転写跡。第五配合帳控の差し替え頁。戻り荷箱の内札。帳場札控え。香抜き済み印の試し押し。小書斎第二抽斗の原紙。青絹包み写し。旧印庫名簿の該当頁写し。ルネの水染み札。


一つずつ見れば紙と布と札にすぎない。混ぜれば、人の名を閉じ込める道具になる。


「まず、火入れ継続命令から」と老審査官が言った。


「ヴァレリウス公爵家由来の鎮香事故として処理できる、という追記について、リゼット・オルラン香薬師」


「はい」


リゼットは原紙と写しを同じ卓に置かず、間に水の碗を置いた。


「小書斎第二抽斗の原紙には、火入れ継続、香炉三基、壁布二枚、夫人発声確認後の読み聞かせ手順があります。そこに、夜薔薇公爵家由来の鎮香事故として処理可という追記はありません」


若い書記の筆が走る。


「原紙の別筆三行は、若い公爵様を入れないこと、朝は上窓を開けること、マノン様に水を置かせること。火を強める内容はありません」


マリウスが小さく息を吐いた。


「結局、火入れ継続は公爵家の命令だろう。こちらの香聖女名義品とは」


「追記は青絹包み写し側にだけあります」


リゼットは彼の言葉を遮らなかった。ただ、次の現物を出した。


「写しには白花香で拭いた跡、温め香、表面に残った花冠小印に似た転写跡があります。十年前の原紙へ沈んだ押印と違い、後から十年前の命令に見せるため整えられた写しです」


ベルナールが低く言う。


「そして、その写しは返銀議事へ混ぜられかけた」


「はい。香聖女名義品の損失を、夜薔薇公爵家由来の鎮香事故へ寄せるために」


大審査室の水が、細く揺れた。


彼は身じろぎしなかった。横にはマノンが控えている。証言席には座らず、必要なら呼ばれる位置で、両手を重ねていた。


セラフィナが記録を閉じる音を立てた。


「王宮香薬局は、青絹包み写しの追記を正式資料から除外します。ヴァレリウス公爵家由来の鎮香事故として処理する根拠にはなりません」


老審査官が続けた。


「火入れ継続手順は、王宮香薬局旧手順の不備として別途廃止通達を出す。夜薔薇の間については、火入れ継続を停止し、上窓と水による保全を正式処置とする」


マノンの肩が、わずかに下がった。


リゼットは次に、香聖女名義品の外装を示した。


「献香箱の見える位置には、欠けのない香聖女印章が押されています。ですが、リボン裏と箱底紙、戻り荷の内札には、花冠小印に似た欠けた転写跡があります」


コレットが扇を握る。


「外装の処理は、工房の者がしましたわ。わたくしは香聖女として、祝福の名を」


「その名で、ベルフォール侯爵令嬢へ試供瓶を渡しました」


リゼットの声は高くならなかった。


「モリエ男爵家にも、同じ名の瓶が届きました。春薔薇夜会では、同じ名の献香品が王宮へ納入される予定でした。祝福の名で出したものが人の喉を乾かし、咳を出し、水を苦くした時、その名をただの飾りにはできません」


コレットの唇が震えた。


「わたくしは、そんな苦いものを調合していません」


「調合していないことは、責任がないことにはなりません」


リゼットは第五配合帳控の差し替え頁を置く。


「冷水処理不足の眠り草、焦げた蜜、温め香、白花香での上塗り。配合と外装は旧工房の手順です。香聖女名義は、それを貴族家と王宮へ通す顔でした」


ベルフォール家代理人が、静かに頭を下げた。


「令嬢イレーヌは、今朝、苦くない水を飲めました。ですが、旧瓶が返されていれば、あの朝はなかったことにされていました」


モリエ家令も続ける。


「当家の令息の咳も、症状なしと書かされるところでした」


コレットの白い香袋から、薄い白花香が立った。焦って握りつぶしたせいだ。窓が開き、水があるこの部屋で、香りは支配できない。


リゼットはその香りを追わず、戻り荷箱の内札へ目を移した。


「次に、責任の切り離しについて」


ジラールの顎が硬くなる。


「戻り荷箱の内札には、旧工房製造、帳場確認済と残っています。返銀控え裏写りには、ジラール様の確認欄があります。帳場札控えには、旧工房裏門で使われた新しい紐穴と、香抜き済み印の試し押しがついています」


帳場代表が口を開いた。


「帳場札は荷の照合のためで、香抜き小屋での出来事まで当家が」


薬種商組合の年配の男が帽子を握り直した。


「帳場札は、荷と責任を結ぶ札です。空木枠につける札と違います。人を荷に見せる枠へ使われたなら、帳場は知らぬと言えません」


ジラールが笑った。


「商人側も返銀を恐れて、こちらへ寄せたいだけでしょう」


ベルナールの杖が床を打った。


「戻り荷を旧工房へ返せば商人側が楽だった。だが、返さなかった。なぜか」


年配の男は、今度はリゼットを見た。


「二本線で封じられていたからです。何を返したか答えられなくなる荷は、商人側の返銀に乗せられません」


リゼットはルネの水染み札を白磁の皿ごと示した。


「ルネ様を逃亡者として扱うのは誤りです。旧工房裏門内の石小屋で保護されました。証言はまだ扱いません。腰紐の内側に残っていた札には、二本傷と欠けた丸い圧痕があります」


若い書記は唇を噛んだが、筆は止めなかった。


「本人証言扱いせず、現物痕跡として記録済みです」


「はい」


リゼットは頷く。


「ルネ様単独へ搬入管理を寄せる書付は、現物と合いません。帳場札、旧工房香抜き済み印、ジラール様確認墨、戻り荷箱の内札、香聖女名義外装の転写跡。すべて、別々の手が同じ方向へ動いた痕跡です」


ジラールの顔から礼が消えた。


「では、私一人を罪にするつもりか」


「いいえ」


リゼットは言った。


「それも、切り離しです」


大審査室の空気が一段薄くなった。


「ジラール様個人、ルネ様単独、コレット様の宣伝判断だけ。どれか一つへ全部を寄せれば、他の現物が余ります。旧工房は製造と配合帳差し替え。帳場は札、返銀、戻り荷確認。コレット様は香聖女名義での配布と王宮献香。ジラール様は回収、閲覧、帳場確認、空木枠。分けて記録しなければ、また誰かの名で閉じ込められます」


老審査官が長い沈黙の後、書類を手に取った。


「裁定を申し渡す」


全員が立った。


「香聖女名義品は、王宮納入、夜会献香、貴族家配布を停止。残品は王宮香薬局および香薬師ギルド共同保全。被害家への返銀責任は、旧工房および帳場を主責任線とし、名義使用者コレット・オルランの宣伝責任を別項で記録する」


コレットの扇が落ちた。乾いた音がした。


「オルラン工房は、第五配合帳控原本差し替え、清書抄録による証拠隠し、香抜き処理、戻り荷引取予定について、営業停止を含む処分審査へ移す」


旧工房代表の顔色が変わる。


「帳場側は、帳場札控え、返銀控え、戻り荷確認、旧工房裏門での空木枠使用について、商業帳簿監査へ移す。ジラール・ラングレーは、回収係および帳場確認者として聴取対象。ルネ・デュマは逃亡者扱いをせず保護対象として扱い、医師確認後、本人の意思を確認したうえで聴取する」


若い書記が、逃亡者扱いせず保護対象、と丁寧に書いた。


「花冠小印本体の所在は、旧印庫監査で追う。ただし、香聖女名義品外装および青絹包み写しに使われた転写跡は、十年前の正式押印と違う。後年の写し利用として扱う」


老審査官は最後に、アルセーヌを見た。


「ヴァレリウス公爵家については、夜薔薇の間の火入れ継続手順による二次被害を認める。鎮香事故の責任転嫁先とはしない」


黒い礼が、短く沈んだ。


「承りました」


その声で、リゼットはようやく息を吐いた。


終わった、とは思わなかった。処分審査、返銀、監査、ルネの回復。残る仕事はある。


けれど、婚約破棄の夜から続いていた一つの声は、ここで止まった。


魔力なし。下働き。盗人。香聖女の影。


そのどれでも、もう彼女を呼べない。


「リゼット・オルラン」


マリウスの声だった。


彼は蒼白な顔で、けれどまだ体裁だけを握っていた。


「工房は処分審査になる。君なら、配合帳の穴を戻せる。旧工房へ戻り、協力するなら」


リゼットは彼を見た。


胸の奥で、旧工房の棚の匂いが一瞬だけ立つ。急がせる声。取り上げられた帳面。白花香の奥に隠された焦げた蜜。


証人席端に、アルセーヌがいる。


前には、水の碗がある。


「戻りません」


声は、思ったよりも澄んでいた。


「オルラン工房の処分審査に必要な現物確認は、王宮香薬局と香薬師ギルド立会い案件として受けます。私の名で、契約書と報酬を書いてください」


マリウスの目が揺れる。


「君は、僕の」


「元婚約者です」


リゼットは言った。


「そして今は、リゼット・オルラン個人の印章を持つ香薬師です」


ベルナールが、灰色の眉を少しだけ上げた。


「印章そのものは、今夕から彫りに入る。明朝には仮彫りが届く」


「ありがとうございます」


リゼットは礼をした。


旧工房代表が何か言いかけたが、セラフィナの視線で黙った。


裁定後の署名が続いた。被害家、薬種商組合、王宮香薬局、香薬師ギルド。リゼットは最後に、自分の二本線で今日の裁定資料を封じた。


一線目。二線目。


黒蝋が乾くまで、誰も急がなかった。


大審査室を出ると、廊下の空気は少し暖かかった。春薔薇の花粉が、開けた窓から入っている。香りは薄い。薄いから、分かる。


廊下の端で、アルセーヌが止まった。


「今、聞くか」


リゼットの指先が、黒蝋の冷えを覚えている。


処分調書は終わった。署名も終わった。水はまだ喉を通る。


「はい」


手袋は外されなかった。触れようともしなかった。


「リゼット。私は、君に公爵家の香薬師でいてほしい、という話で終わらない」


言葉は短い。飾りはなかった。


「君が朝を選ぶ時、その隣に立つ者として、選ばれたい」


廊下の向こうで、若い書記が書類箱を閉める音がした。遠くでマノンが水を運んでいる。日常の音が、言葉の後ろにあった。


リゼットは、胸の奥へ入ってくる朝の冷たさを確かめた。


「私は、誰かの家に閉じ込められるためには行きません」


「知っている」


「仕事を続けます。東翼の朝食室も、王宮香薬局立会いの案件も、自分の名で受けます」


「それを閉じない」


早い返事だった。


リゼットは、少しだけ笑った。


「では、私も選びます」


その目が動く。


「あなたの隣で、朝を選びます。ただし、最初の契約書には、私の印章を押します」


彼は初めて、長く息を吐いた。


「待つ」


その一語だけでよかった。


大審査室の扉の向こうで、香聖女名義の白い札が外されていく。旧工房の名も、帳場の札も、これから一つずつ監査へ移る。


リゼットの手元には、まだ黒蝋の冷えが残っていた。


明日の朝、その上に、彫り上がった二本線を押す。

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