第5話 瘴気の森
翌朝。東の森の入り口で、シオンとリーシャは立ち止まった。
森の異変は一目でわかった。木々の葉は黒ずみ、地面には紫色の霧——瘴気が漂っている。健全な森とは明らかに空気が違う。じっとりと肌にまとわりつく不快な気配が満ちていた。
「これが瘴気……」
リーシャが口元を押さえた。
「気分が悪いか?」
「少し。でも、大丈夫です」
「無理はするな。何かあったら遠慮なく言え」
二人で森に踏み入った。奥に進むにつれて瘴気は濃くなり、視界が紫の霧で狭まっていく。
「シオンさん。この瘴気、なんだか意図的に集められている感じがしませんか?」
「ん?」
「自然に発生したものなら、もっとまばらに広がるはずです。でもこれ、まるで中心に向かって流れているような——」
鋭い観察だった。シオンもその違和感には気づいていた。
『リーシャの言う通りです。この瘴気は自然のものではありません。何者かが意図的に集め、溜め込んでいる。おそらく——瘴気の核があるはずです。それを破壊すれば、一帯の瘴気は霧散します』
「核か。よし、まずはそれを探す」
森の奥へ進むと、最初の魔物が現れた。
瘴気に侵されて凶暴化した大狼だ。赤い眼を血走らせ、体からは黒い蒸気が立ち上っている。通常の狼より二回りほど大きい。
「リーシャ、下がれ」
シオンが剣を抜いた。
大狼が跳躍する。以前のシオンなら反応すらできなかっただろう。しかし今の彼には、その動きがはっきりと見える。
横に一歩ずれ、すれ違いざまに斬る。一閃。大狼は着地した時にはすでに動かなくなっていた。
「す、すごい……」
「こいつは瘴気に操られていただけだ。本来の狼なら人を襲ったりしない」
倒れた狼の体から、黒い靄が抜けていくのが見えた。瘴気が去ると、狼の体は元の大きさに縮み、やがてぐったりとしながらも呼吸を取り戻した。
「生きてる!」
「ああ。瘴気を取り除けば元に戻るらしい」
リーシャが狼に近づき、そっと手を置いた。淡い光が灯り、狼の傷が癒えていく。
「やっぱり、わたしの力で傷が治る……」
「才能があるな。俺なんかより余程聖女らしい」
「そ、そんなことないです!」
照れるリーシャを見て、シオンは少し笑ってから先を促した。
さらに奥へ。魔物は次々に現れたが、シオンの剣の前には障害にならなかった。リーシャもまた、傷ついた魔物を浄化し、癒やしていった。
——この子、本当に飲み込みが早いな。
力を自覚してまだ半日も経っていないのに、浄化の精度が上がっている。先ほどの手を繋いだ時の共鳴が、彼女の能力を一段引き上げたのかもしれない。
やがて、森の最深部に辿り着いた。
「これは……」
巨大な黒い水晶が、地面から生えるようにそびえ立っていた。高さは三メートルほど。表面からは濃密な瘴気が溢れ出し、周囲の木々を根元から腐らせている。
「瘴気の核か」
『間違いありません。しかし、シオン——これは厄介です。この水晶には、邪神ヴォルドの呪印が刻まれています。偽聖女の関与は確実です』
——アリシアが関わっているのか。
『直接的にか間接的にかはわかりません。ですが、この呪印の術式はアリシアが使う力の系統と同じものです』
シオンは剣を構えた。
「リーシャ。俺がこの水晶を砕く。お前は飛び散る瘴気を浄化してくれ。できるか」
「……やってみます」
「頼むぞ」
深呼吸する。右手に意識を集中させると、剣に金色の光が纏わりついた。
——力を込めすぎるな。森ごと消し飛ばすなよ。エルティア様にそう言われたんだった。
適度な力。
——いや、適度ってどれくらいだ。力の加減なんてしたことがない。
ままよ、と腹を決めて振りかぶった。
「はあっ!」
剣が黒い水晶に叩きつけられた瞬間——凄まじい閃光が炸裂した。
水晶は粉々に砕け散り、内部から凝縮されていた瘴気が一気に噴き出した。黒紫の奔流が四方八方に広がろうとする。
「リーシャ!」
「はいっ!」
リーシャが両手を前に突き出した。彼女の掌から白銀の光が放たれ、瘴気の奔流にぶつかる。
光と闇が激突する。一瞬の拮抗の後——光が瘴気を押し返し、飲み込み、消し去った。
静寂が訪れた。
紫の霧が晴れ、木漏れ日が差し込んでくる。森が、本来の姿を取り戻していく。
「やった……?」
「ああ、やった」
リーシャが膝から崩れ落ちそうになるのを、シオンが支えた。
「大丈夫か」
「はい……少し力を使いすぎたみたいです。でも、やれました。わたし、できました……!」
リーシャが顔を上げた。疲労の色は濃いが、その目は輝いていた。
「よくやった」
シオンが素直にそう言うと、リーシャの目に再び涙が浮かんだ。
「初めてです。自分の力を、誰かの役に立てたの」
「これからは堂々と使えばいい。お前の力は、多くの人を救える」
帰り道。浄化された森では、逃げていた小鳥たちが戻り始めていた。
二人の背後で、最後まで残っていた黒い水晶の欠片がかすかに光った。それは遥か北——王都の方角を向いていた。
まるで、何かに信号を送るように。
しかし二人は、それに気づかなかった。5話 瘴気の森
翌朝。東の森の入り口で、シオンとリーシャは立ち止まった。
森の異変は一目でわかった。木々の葉は黒ずみ、地面には紫色の霧——瘴気が漂っている。健全な森とは明らかに空気が違う。じっとりと肌にまとわりつく不快な気配が満ちていた。
「これが瘴気……」
リーシャが口元を押さえた。
「気分が悪いか?」
「少し。でも、大丈夫です」
「無理はするな。何かあったら遠慮なく言え」
二人で森に踏み入った。奥に進むにつれて瘴気は濃くなり、視界が紫の霧で狭まっていく。
「シオンさん。この瘴気、なんだか意図的に集められている感じがしませんか?」
「ん?」
「自然に発生したものなら、もっとまばらに広がるはずです。でもこれ、まるで中心に向かって流れているような——」
鋭い観察だった。シオンもその違和感には気づいていた。
『リーシャの言う通りです。この瘴気は自然のものではありません。何者かが意図的に集め、溜め込んでいる。おそらく——瘴気の核があるはずです。それを破壊すれば、一帯の瘴気は霧散します』
「核か。よし、まずはそれを探す」
森の奥へ進むと、最初の魔物が現れた。
瘴気に侵されて凶暴化した大狼だ。赤い眼を血走らせ、体からは黒い蒸気が立ち上っている。通常の狼より二回りほど大きい。
「リーシャ、下がれ」
シオンが剣を抜いた。
大狼が跳躍する。以前のシオンなら反応すらできなかっただろう。しかし今の彼には、その動きがはっきりと見える。
横に一歩ずれ、すれ違いざまに斬る。一閃。大狼は着地した時にはすでに動かなくなっていた。
「す、すごい……」
「こいつは瘴気に操られていただけだ。本来の狼なら人を襲ったりしない」
倒れた狼の体から、黒い靄が抜けていくのが見えた。瘴気が去ると、狼の体は元の大きさに縮み、やがてぐったりとしながらも呼吸を取り戻した。
「生きてる!」
「ああ。瘴気を取り除けば元に戻るらしい」
リーシャが狼に近づき、そっと手を置いた。淡い光が灯り、狼の傷が癒えていく。
「やっぱり、わたしの力で傷が治る……」
「才能があるな。俺なんかより余程聖女らしい」
「そ、そんなことないです!」
照れるリーシャを見て、シオンは少し笑ってから先を促した。
さらに奥へ。魔物は次々に現れたが、シオンの剣の前には障害にならなかった。リーシャもまた、傷ついた魔物を浄化し、癒やしていった。
——この子、本当に飲み込みが早いな。
力を自覚してまだ半日も経っていないのに、浄化の精度が上がっている。先ほどの手を繋いだ時の共鳴が、彼女の能力を一段引き上げたのかもしれない。
やがて、森の最深部に辿り着いた。
「これは……」
巨大な黒い水晶が、地面から生えるようにそびえ立っていた。高さは三メートルほど。表面からは濃密な瘴気が溢れ出し、周囲の木々を根元から腐らせている。
「瘴気の核か」
『間違いありません。しかし、シオン——これは厄介です。この水晶には、邪神ヴォルドの呪印が刻まれています。偽聖女の関与は確実です』
——アリシアが関わっているのか。
『直接的にか間接的にかはわかりません。ですが、この呪印の術式はアリシアが使う力の系統と同じものです』
シオンは剣を構えた。
「リーシャ。俺がこの水晶を砕く。お前は飛び散る瘴気を浄化してくれ。できるか」
「……やってみます」
「頼むぞ」
深呼吸する。右手に意識を集中させると、剣に金色の光が纏わりついた。
——力を込めすぎるな。森ごと消し飛ばすなよ。エルティア様にそう言われたんだった。
適度な力。
——いや、適度ってどれくらいだ。力の加減なんてしたことがない。
ままよ、と腹を決めて振りかぶった。
「はあっ!」
剣が黒い水晶に叩きつけられた瞬間——凄まじい閃光が炸裂した。
水晶は粉々に砕け散り、内部から凝縮されていた瘴気が一気に噴き出した。黒紫の奔流が四方八方に広がろうとする。
「リーシャ!」
「はいっ!」
リーシャが両手を前に突き出した。彼女の掌から白銀の光が放たれ、瘴気の奔流にぶつかる。
光と闇が激突する。一瞬の拮抗の後——光が瘴気を押し返し、飲み込み、消し去った。
静寂が訪れた。
紫の霧が晴れ、木漏れ日が差し込んでくる。森が、本来の姿を取り戻していく。
「やった……?」
「ああ、やった」
リーシャが膝から崩れ落ちそうになるのを、シオンが支えた。
「大丈夫か」
「はい……少し力を使いすぎたみたいです。でも、やれました。わたし、できました……!」
リーシャが顔を上げた。疲労の色は濃いが、その目は輝いていた。
「よくやった」
シオンが素直にそう言うと、リーシャの目に再び涙が浮かんだ。
「初めてです。自分の力を、誰かの役に立てたの」
「これからは堂々と使えばいい。お前の力は、多くの人を救える」
帰り道。浄化された森では、逃げていた小鳥たちが戻り始めていた。
二人の背後で、最後まで残っていた黒い水晶の欠片がかすかに光った。それは遥か北——王都の方角を向いていた。
まるで、何かに信号を送るように。
しかし二人は、それに気づかなかった。




