三年間無視し続けた婚約者が私を庇って倒れた。彼の懐から落ちた日記帳には、毎日毎日、私の名前だけが書かれていた
「──婚約を、解消していただけませんか」
三年越しの言葉だった。
声は震えなかった。泣きもしなかった。──泣いたら負けだと思ったから、というのは嘘で、もう涙の出し方すら忘れたのだと思う。
秋の夜会。金色の燭台が大広間を橙に染めている。
ユリウス・レーヴェンシュタイン。レーヴェンシュタイン侯爵家の嫡男にして騎士団副団長。私の──まだ今のところは──婚約者。
彼の深い灰色の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
一瞬。
それだけ。
「……わかった」
低い声は、いつもと同じ温度だった。冷たくもなく温かくもない。まるで天気の話でもするような平坦さ。
(──ああ、やっぱり)
心のどこかで期待していた自分が恥ずかしい。「なぜ」と問い返してほしかった。「待ってくれ」と、その大きな手で引き留めてほしかった。三年も冷たくされておいて、まだそんなことを夢見ている自分が、どうしようもなく滑稽で。
「では、正式な書面はお父様を通じてお送りいたします」
私の声だけが、やけにきれいに広間に響く。
周囲の貴族たちが動揺しているのが視界の端に映った。当然だ。フォーシェ伯爵家とレーヴェンシュタイン侯爵家──幼い頃から決まっていた婚約が、秋の夜会のさなかに静かに壊れようとしている。
ユリウスは何も言わない。
私は一礼して、背を向けた。
◇
バルコニーに出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
秋の風は冷たい。けれど、三年間の沈黙のほうがずっと冷たかった。
──昔はこうじゃなかった。
幼馴染だった。
八つの頃、私が屋敷の裏庭で育てた薬草を得意げに見せたら、ユリウスは「すごいな」と笑った。十二の頃、私が調合した擦り傷の軟膏を塗ってやったら、「お前の薬が一番効く」と不器用に礼を言った。
笑顔も、言葉も、不器用だけれど温かかった。
それが三年前──あの女が来てから全部変わった。
リゼット・レーヴェンシュタイン。ユリウスの父が迎えた後妻の連れ子。男爵家出身の、花のように可愛らしい義妹。
彼女がレーヴェンシュタイン家に入った時期と、ユリウスが私を避けるようになった時期は、ぴたりと重なる。
会話は事務連絡だけになった。目も合わせてくれない。薬を届けても、無表情で「ああ」と受け取るだけ。理由を尋ねれば「必要ないだろう」。
私なりに考えた。──答えは一つしか思いつかなかった。
(リゼット嬢のことが好きになったのだ。義妹とはいえ、血は繋がっていない。あの子は可愛いし、よく笑うし、ユリウスの隣にいて違和感がない)
だから身を引く。これ以上、自分を消耗させる理由がない。
……のだけれど。
バルコニーの扉が開く音がした。
振り返ると、ユリウスが立っていた。
「夜風が冷たい。中に入れ」
素っ気ない。いつも通りだ。
「もう婚約者ではないのですから、お気遣いなく」
我ながら棘のある言い方をした。
ユリウスは答えなかった。代わりに、自分の外套を脱いで、私の肩にかけた。
柔らかい毛織物の重さ。微かに残る、鉄と革と──石鹸の清潔な匂い。
「……風邪を引かれると、面倒だ」
言い捨てて去っていく背中を見送る。
面倒、か。
(なんなの、あなたは。冷たいくせに、こういうことだけはするのね)
──嫌いになれたら楽なのに。
外套を脱ごうとして、やめた。温かかったから。それだけの理由だと、自分に言い聞かせた。
「あら、お姉様」
甘い声。
バルコニーに、リゼットが現れた。薄桃色のドレスに巻き毛を揺らし、花のような笑顔を浮かべている。
「婚約解消のお話、伺いましたわ。お姉様が身を引いてくだされば丸く収まりますもの。お兄様もきっとお喜びになるでしょう」
穏やかな声。笑みを崩さない目。
(……この子のこの笑顔が、昔から少しだけ苦手だった)
微笑みの奥にあるものが読めないから。
「そうですね。ユリウス様がお幸せなら、私も嬉しく思います」
嘘だった。嬉しくなんかない。でも、この子の前で取り乱す気にはならない。
リゼットが何か言いかけて、ふと袖口を気にするように手を動かした。薄い封書のようなものが袖口からわずかに覗いている。──視線が合った瞬間、リゼットは慌てて袖を直した。
不自然な動きだった。
そして、去り際にリゼットが小さく呟いた。
「あの日記帳も処分しておかなきゃ……あんなもの、誰かに見られたら困りますもの」
独り言──のように聞こえた。けれど、私に聞こえる距離で、聞こえる声量だった。
日記帳。
誰の。何の。
(……考えても仕方ない。もう、私には関係のないことだ)
そう思ったのに、頭の隅にその言葉がこびりついて離れなかった。
◇
夜会が佳境に差しかかった頃──それは起きた。
最初に聞こえたのは、庭園側の悲鳴。
次に、ガラスの砕ける音。
結界の綻びから侵入した魔獣──中型の甲殻種が、庭園の大窓を突き破って大広間に飛び込んできた。
悲鳴。逃げ惑う人波。倒れる燭台。
混乱の中、私は見てしまった。──大広間の隅で、他家の令嬢に連れられていた幼い男の子が、人波に弾かれて床にうずくまっている。
魔獣はその方向へ向かっていた。
考えるより先に体が動いた。
走った。男の子を抱き上げ、柱の陰に転がり込んだ。
けれど遅い。魔獣の爪が、空気を裂く音──
衝撃が来るはずだった。
来なかった。
代わりに、背中に大きな影。
ユリウスが、私と男の子を覆うように立っていた。魔獣の爪が、その背中を深く引き裂く。鮮血が私の頬に散った。
ユリウスは声も上げず、片手で剣を抜き、魔獣の首を一閃で断った。
──そして、崩れ落ちた。
「ユリウス様──!」
白い石の床に、赤い血が広がっていく。
駄目だ。傷が深い。甲殻種の爪には微弱な毒がある。放置すれば壊死が始まる。
私は知っている。薬草学を十年やってきた私は、知っている。
ドレスの裾を引き裂いた。迷いはなかった。止血帯を作り、傷口を圧迫する。腰の匂い袋──今日はラベンダーではなく、癖で入れていた解毒の薬草包み。
(あった)
指先で薬草を砕き、傷口に押し当てる。この草は甲殻種の毒に対する応急処置として有効──王立学園の主席論文で書いた。私が書いた。
手が血で滑る。構わない。
「しっかりしてください。ユリウス様、聞こえますか」
ユリウスの灰色の瞳がうっすら開いた。焦点が合っていない。
その唇が、微かに動いた。
「……エレーヌ」
名前。
三年間、一度も呼んでくれなかった私の名前。
「すまな……い。ほんとうは……こわかった、んだ」
声が途切れる。
「おまえに……きらわれるの、が」
目が閉じた。力が抜けた腕が、石の床に落ちる。
──何を、今さら。
何を。
「……馬鹿」
私の声は震えていた。涙の出し方を忘れた、なんて嘘だった。
◇
別室に運ばれたユリウスの傷を、私は手当てし続けた。
宮廷医師が到着するまでの間、応急処置が全てだった。止血は成功。毒の進行は抑えた。命に別状はない──はず。
ユリウスは深く眠っている。規則的な呼吸だけが薄暗い部屋に響く。
血に染まった上着を脱がせたとき──内ポケットから、何かが落ちた。
使い込まれた革装の小さな帳面。
日記帳。
──リゼットが「処分しなきゃ」と言っていた、日記帳。
手に取ると、革の表紙は擦り切れて色が変わっていた。毎日のように触れていなければ、こうはならない。
開くべきではないのかもしれない。
けれど、リゼットの言葉が頭をよぎる。「誰かに見られたら困る」。あの不自然な笑み。袖口の封書。
そして、さっきのユリウスのうわ言。
(──怖かった、嫌われるのが)
三年間、何も説明してくれなかったあなたが。意識が遠のく瞬間に、私の名前を呼んだ。
開いた。
最初のページの日付は──三年前。リゼットがレーヴェンシュタイン家に来た、あの年の秋だった。
『リゼットに言われた。「エレーヌとの婚約を破棄して、わたくしを選ばなければ、エレーヌが"事故"に遭うかもしれない」と。継母がリゼットの後ろにいる。あの女ならやる。エレーヌを巻き込むくらいなら、俺が離れる。俺が冷たくすれば、エレーヌのほうから離れてくれる。そうすれば、あいつは安全だ。──そう信じるしかなかった。』
……息が止まった。
脅迫。
リゼットが──ユリウスを脅していた?
ページをめくる。指先が震える。
一年前の記述。
『今日、エレーヌが季節の薬を届けてくれた。今回は肩こりに効く軟膏。相変わらず丁寧な包みで、相変わらず小さな手書きの効能書きがついている。あいつは知らないだろうが、俺はこれを一つも使っていない。──使えば減る。減ったら、あいつとの繋がりが一つ消える気がして。書棚の奥に、十二個。春夏秋冬を三年分。全部ある。』
十二個。
私が届けた薬は全部で十二回。一つ残らず、保管されていた。
無表情で「ああ」と受け取っていた。それだけだと思っていた。
視界が滲む。文字が揺れる。
それでもページをめくった。──今日の日付。最新のページ。
走り書きだった。いつもの整った筆跡ではない。文字が歪んでいる。
『エレーヌが婚約を解消したいと言った。「わかった」と答えた。答えられた自分が信じられない。手が震えている。ペンが握れない。俺は正しいことをしたのだと──嘘だ。正しいはずがない。あいつのいない未来に、何の意味がある。』
──ぽたり。
涙が、日記帳の上に落ちた。
滲んだインクの隣に、もう一つ。もう一つ。止まらない。
日記帳の間から、薄い紙が何枚か滑り落ちた。
封書。──リゼットの丸い筆跡。
『エレーヌの薬草園に毒草を混ぜる手配は整えてあります。お兄様がわたくしを選ばないのなら──』
『馬車の車軸に細工をすれば、坂道で──』
吐き気がした。
これを──ユリウスは三年間、一人で抱えていた。
冷たくしていたのではなかった。
私を遠ざけることで──守っていた。
ばかみたいに不器用な、たった一人きりの戦い方で。
「……見たのか」
声に顔を上げた。
ユリウスが、うっすらと目を開けていた。灰色の瞳が日記帳を捉えて──初めて見る、取り乱した表情になった。
「見るな……それは」
「見ました」
静かに言った。声は震えていたけれど、視線は逸らさなかった。
「全部。三年分、全部」
ユリウスが目を逸らした。包帯の巻かれた手が、シーツを強く握る。
「……なぜ、私に相談してくださらなかったのですか」
「巻き込みたくなかった」
「巻き込まれたかった」
ユリウスが息を呑む音がした。
「あなたと一緒に、戦いたかったのに」
声が裏返った。──もう、冷静なんか、いられない。
「三年間ずっと、嫌われたのだと思っていました。リゼット嬢のことが好きなのだと。私なんかどうでもいいのだと。毎日毎日、そう思いながら、それでも薬を届けに行った。届けたら何か変わるかもしれないと思ったから。馬鹿みたいでしょう。──でも、捨てられてなかった」
十二個、全部あると。書棚の奥に。
「……エレーヌ」
「薬草を詰めた包みに、効能書きを書くとき。あなたの名前を書きそうになって、何度も消しました。効能書きなのに。名前を書いてどうするの、って」
ユリウスの灰色の瞳が真っ直ぐに私を見ている。取り乱した表情のまま。──少し感情が宿ると途端に人間味が出る顔だった。三年間忘れていた、この人のこういう顔を、私は好きだったのだ。
「もう、一人で抱え込まないでください」
「……ああ」
短い返事。
けれど、その声は──三年間で一度も聞いたことのないくらい、震えていた。
◇
後日のことを、簡潔に書く。
日記帳に挟まれていた脅迫状は、王宮に証拠として提出された。筆跡鑑定の結果、リゼットのものと断定。継母マルグリットは娘を庇おうとして、逆に全てを白状した。
「あの子は悪くありません! ただ少し、お兄様のことが好きすぎただけ──」
弁明は誰の耳にも届かなかった。脅迫と謀害未遂。二人はレーヴェンシュタイン侯爵家から追放され、社交界への出入りも永久に禁じられた。
リゼットは最後まで叫んでいたらしい。「お兄様はわたくしのものなのに」と。
──もう、どうでもいい。
私が知りたいのは、この先のことだけだ。
傷が癒えたユリウスの療養室を訪ねたとき、父がすでに来ていたことを後で聞いた。
ユリウスは父に何を言われたのか、教えてくれなかった。ただ、「一生かけて償うと約束した」とだけ言った。
父らしい。たぶん、静かに、けれど容赦なく詰めたのだろう。
ユリウスが私に向き直る。まだ包帯の残る体で、それでもまっすぐに。
灰色の瞳が、逃げずに私を見ていた。三年ぶりだ。この距離で、この目で見てくれるのは。
「俺は間違えた」
低い声。けれど、もう平坦ではなかった。
「お前を守るつもりで、お前を一番傷つけた。──やり直させてほしい。今度は隣に立って守る。後ろに隠して遠ざけるのではなく」
不器用。本当に、どこまでも不器用な人。
「では」
少しだけ意地悪く微笑んでみせた。
「私からも一つだけ条件がございます」
ユリウスの眉が微かに上がった。
「……なんでも」
「日記を、これからも書き続けてください。──ただし今度は、私に読ませてくださいね」
耳が赤くなった。
灰色の瞳が泳いで、包帯の手が所在なさげにシーツの端を掴む。──あの日記の内容を「全部読んだ」と改めて突きつけられた動揺だ。騎士団副団長の威厳は、今この部屋には存在しない。
(……可愛い)
不本意ながら、そう思ってしまった。
懐から、小さな小瓶を取り出してユリウスの手に載せた。
今季節の薬。──傷の治りを早める軟膏。包みには、いつもの手書きの効能書き。
「これは、使ってくださいね」
ユリウスの指が、小瓶をそっと握りしめた。
「──もう、しまい込まなくて大丈夫ですから」
三年ぶりの笑顔は、私が覚えているよりもずっと不器用で──ずっと、温かかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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