「別れ」第三節
「おい……いたぞ」
「逃げ切れると思うなよ」
二人を追っているのは、夫の部下たちだった。出入り口のパスワード書き換えに、気づいたみたいだった。奈美は追われる立場となり、反逆者となる覚悟はしていた。 連れている都にも、無理をさせていると分かっている。
デザインズ・ベイビーとして生まれてきた限り、長生きは無理である。 今のうちに外の世界を見てほしかった。
知ってほしかった。
母としての最後の願いだった。
もしかしたら、自己満足なのかもしれない。 都を連れて逃げたのも、自己満足だと言われてもいいし、思われてもいい。
嫌われてもよかった。
母親失格だと言われても、最後まで都と湊の思い出と一緒にいたかった。 奈美がまいた種は、いつか芽吹く時がくる。
はかなくもあり、奇麗な大輪の花を咲かせるはずである。 大輪の花でなくてもよかった。野原に咲く名もなき花でも咲いてくれれば嬉しかった。
銃弾が奈美と都の横を通り抜けていく。相手は隆の部下である。相手が家族であろうと、容赦はしない。奈美は足を撃たれ、衝撃で握りしめている手が離れる。
銃弾が奈美の体を貫通していった。サイレンサーがついているのか、銃声はしない。
「ダメよ。逃げて。少しでもいいから生き延びて。あなたは自由よ。行きたい場所を、目指しなさい。さようなら。私の愛しい子。愛しているわ」
都の視覚が真っ赤に染まる。世界から色が抜けていく。全ての音も遠ざかっていった。唇をきつく噛みしめると、奈美の思いを受け入れて、涙を拭き取り走り始める。
一気に追手を引き離していく。
素足で逃げている都を、朝早くウォーキングやジョギングをしている大人は、不審に思ったみたいだった。視線は都に集まっている。傷だらけの子供を、気にしてくれる人はいた。
視線をはねのけて、止まろうとはしない。都には答える時間がなかった。 余裕がなかった。追いつかれるのではないかと、怖くて仕方がなかった。 ただ、体力がもつ限り走り続ける。全力で逃げ続ける。
都は広い公園に逃げ込んだ。地域で使われている運動公園である。広さもあり、追っ手たちからは見えにくい場所にあって、隠れるにはよかった。 木の陰に身を隠す。 シーソーやブランコの器具で遊んでいる子供は、当然おらず静寂に包まれていた。一人なのだと、一人になってしまったのだと、思い知らされる。
無気力になってうずくまる。
ここから、逃げる体力は残っていなかった。公園を見渡す余裕もなく、追っ手が引き下がるまで、隠れておくしかない。くまなく捜して見つからないと判断したのか、 追っ手たちの気配が遠ざかっていく。
緩く息を吐き出して、自分を守るために体を抱きしめる。
ーー痛い。
数分後、足の痛みで現実に引き戻された。気がつけば靴は脱げて、裸足で逃げていた。 無数の傷ができ、血がついている。都の中に孝の血が流れていると思うだけで嫌になる。
体中の血を引き抜いて、入れ替てしまいたい。
入れ替えてしまえば、少しはまともな人間になれるだろうか。
けれど、それは奈美を屈辱してしまう行為でもあった。やはり、自分には普通の人と同じ血は、流れていないのかもしれない。そのように、考えてしまっても仕方がなかった。
呼吸をし存在しているだけである。毎日を生きているだけだった。 都の中に孝への報復が芽生えていく。
孝の顔がチラチラと浮かぶ。
頭をふって振り払った。
ギリギリと腕に爪を立てた。新たな傷ができても、気にすらしていない。
血がつたい落ちていく。
地面に流れていった。
こんなとき、母なら「怪我をしたの? 大丈夫?」と聞いてきてくれた。都は怪我からの回復が人より早い。けれど母は、そう知っていても、落ち着くまで抱きしめてくれた。
確かに、愛情があった。心から愛してくれていた。大切な人だった。あれだけ撃たれたら、もう生きてはいない。
母を失って……でも、都はパニックになるわけでもなく、公園の木の陰でうずくまっている。都自身、いま落ち着いていられる理由が分からない。 ようやく、息が深くできる時間がとれた。
――研究所を潰すなら、せめて自分の手でやろう。
そうでもしないと、心の整理がつかない。 心が保てない。 心にぽっかりと開いた穴は、ふさげなかった。
埋まらなかった。
――怒らしたら、怖いのは身内だと気付かせてやる。
――十河孝。
――僕はお前を失墜させてやる。
これで、終わらせるものか。
――震えて待っていろ。
これまでの冷静さは、強い怒りになっていく。体の芯から燃えて熱くなっていく。報復に年齢なんて関係ない。やると決めたら、最後までやり通す。都の信念でもあった。信念だけは曲げたくない。
生半可な気持ちではできない。
何年かかってもチャンスは回ってくるはずである。チャンスを生かせるかどうかは、都次第にかかっていた。
ーー戦える力がつくまで、息を潜めておこう。
体力も回復していない。
曖昧になりそうな意識の中で、公園の時計を見る。時計は七時前。この公園の隅と時間なら、少しは休んでいても大丈夫なはずである。木々のざわめきを身に感じながら、都は瞳を閉じた。




