第十二章「帰郷」第一節
研究所まであともう少しだった。手が届く距離なのに、力尽きるわけにはいかない。幼い頃に記憶を頼りに、近くまで来ていた。ここで、死ぬわけにはいかない。
都は持っていたペットボトルで、口をすすいで血を洗い流していく。足を引きずりながら歩いていると、研究員たちが一斉に出て来た。
本来、研究室内で生活できる仕組みになっている。都の記憶ではなかった。出て来た研究員たちは、すがすがしい表情をしていた。吹っ切れた表情だった。研究施設内で何かが起こっていると、考えられる。
理由を確かめるべきだった。都は流れに逆らって研究施設に入った。
「お前、何をしている?」
都に数人の研究員たちは、声をかけてくる。流れに反している姿を見て、不審に思っているらしい。
「髪と瞳の色を覚えている。原田都か? 生きていたのか?」
「教授を殺しに帰って来たのか?」
「待て」
すると、一人の研究員が声をかけてきた。生きていた。 生きていてくれた。 混沌とした研究室内の中で、湊はよく生き抜いてくれた。生きていてくれていたとの願いは叶った。
声変わりもしている。背も伸びている。それでも、一瞬にして誰なのかを把握できた。笑いあっていたあの頃の時代へと戻っていく。
「湊さん――ううん、湊兄さん」
小さい頃から使っている石鹸の香りに変わりはなかった。変装をしているのも他の研究員たちからの視線を、そらすためだった。
黒髪のウィッグをして、ブラウンのカラーコンタクトをしていた。孝の子供だと気付かれないためである。都は背伸びをして、ウィッグとカラーコンタクトを取る。 都は奈美そっくりに成長した湊に、息を飲んだ。
腕を掴まれて引き寄せられる。
「ごめん――ごめんな。都。守れなくて、ごめん」
都は抱きしめてくれている背中に腕を回した。抱きしめてくれる力は強い。苦しくなって腕をバシバシ叩くと、いざぎ良く解放をしてくれた。
そういえば、小さい頃にも似たやり取りをしたな、と思い出す。都は小さい頃の記憶の上に、湊との思い出を上書きした。
少し――少しだけでいい。 家族としての時間がほしかった。 湊との空間を独り占めしたかった。
――美和や美波さん。
――湊兄さんとの思い出があるし、恐れる必要はない。
研究所を抜け出して、血に汚れていたと思っていた時よりも、体も心も軽く感じていた。美和と美波とも話せた。湊とも再会できて、心の奥になった重荷が軽くなった。
「会えて話せている。それだけで、十分だよ。湊兄さんには笑顔が似合う。笑っていて。笑顔でいてほしい」
「いい表情だな。育ててくれた人の影響も大きいのだろうな」
「温かくて優しい人だちだったよ」
「うん。湊からそれが、伝わってくるよ。僕はね。本音を言えば、都に死んでほしくない。生きてほしい」
「湊兄さん。聞いて?」
「都は何を――」
――思っている?
都は湊の唇に、スッと指を立てた。それ以上の先は聞かないよ、との行動だった。
「『僕』が『僕』でいられるための戦いでもある。運命なのだとしたら、受け入れるよ。湊兄さんには湊兄さんの運命がある。何かあった時のために、全力でぶつかってほしい」
「もし、もしまた会えたら、今度こそ僕に都を守らせてくれ」
「最後に湊兄さんに会えるとは思っていなかった」 「僕もだ」
「ありがとう。またね」
「またね」
さようならでもなく、バイバイでもなく二人が選んだ言葉は「またね」だった。やるべき行動のために、戦場に行くために二人は別れた。




