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第十一章「卒業」第一節

  鈴は孝のいすに座っていた。くるくるといすを回す。山積みになっている資料が目に入った。パソコンのキーボードを、カタカタと打つ音が部屋に響く。誰も何も言わずに、重苦しい空気が漂っていた。


 鈴は代わり映えしない景色に、嫌気がさしていた。研究所にいて見えたのは、孝の醜さである。鈴は孝の手によって壊れゆく人を、数えきれないほど見てきた。


  加えて、鈴までいなくなったら、孝へのダメージは大きい。入って来ても鈴は立とうともしなかった。挨拶もなしである。孝の支配下にならないと示すためだった。あなたの思い通りにはならないと決めたのだ。


 ――私は私の人生を歩く。

 ――あなたのおもちゃではないのよ。


 ――これ以上、あなたの思い通りにはさせない。  

 ――好きにはさせない。


 ――信頼しきっている人に、裏切られたらどうなるかを教えてあげるわ。

 ――覚悟しておきなさい。


 今までの無機質な瞳が、嘘みたいだった。気の強そうな眼差しと、力強く輝く瞳をしている。抑圧されていない鈴本来の姿である。


「都君に会って来ました」

「黙れ」


  鈴は涼しい顔で制服を脱ぐ。半袖のブラウスに黒のジャージのラフな格好に着替えて、長い髪をポニーテールにした。いつでも、戦える格好だった。一触即発の空気が流れる。


「いいのですか? 実男息子と争うなんて虚しいだけですよ? 悲しいだけですよ?」

「何様のつもりだ?」


「意見をして悪いですか? わたしにも感情はあります」

「笑わせるな」

「自分の気持ちを大切にしているだけです」


 利用されるだけの駒ではないのだと、鈴ははっきりと伝える。


「私に依存している鈴が、普通の生活などできないはずだ」

「どうして、そう決めつけるのでしょうか? 普通の生活もやってみないと分からないはずです」


  鈴にあるのは孝への気持ち悪さだった。できるなら、殺してしまいたい。銃を持っていたら間違いなく、引き金を引いていたはずである。


 銃で殺してしまえば、自由を奪われ、拘束されて逃げ出せなくなる。悲しい運命なんて関係ななんて何でもない。生い立ちなんて関係ない。鈴は自らの足で歩いて、独り立ちしようとしていた。


「裏切り者が」

「裏切り者ですか? 私は教授のやり方に、疑問を抱いただけです」


  にらみ合いが続いて、空気が凍り付く。


「忘れていないか? 鈴と都の命は私が握っている」 「私には私の生き方があります」


「誰かに命令されたのだろう? 誰か言ってみろ。私が排除してやる」

「排除されるのは、私はあなたか――賭けてもいいですよ?」


「生意気な。調教をし直してやる。鈴が私の所有物だと分からせてやる」


 ーー抱いている幻想を、ぶち壊してあげるわ。


 反撃を開始しよう。都合のよい人形を終わりにしたかった 憎くてもよかった。 生きていくのだ。 コツリ、コツリと鈴の歩く音が反響した。


  二人の距離はゼロになる。


 ――教授。

 ――私がほしいですか?


  ――抱いてもいいですよ?


 鈴は耳元で囁く。 指を孝の首筋にはわしながら、両腕を伸ばして抱きついた。誘惑すれば、自分から近づいてくるだろう。誘惑されて明らかに意識がいっていた。


 鈴は孝が完全に、孝は油断をしていると見て次の行動に移す。


 ――チャンスだわ。


  懐から注射器セット取り出した。箱を開ける。注射器には透明な液体が入っていた。何かあったら、使ってと湊から渡されたしびれ薬だった。


「鈴から誘ってくるとは――」


 鈴は首筋に注射器を突き刺した。薬を注入していく。腕の中から脱け出すと、目の前に座って動けない孝を観察する。効いているのかを確かめるためだった。


 研究所から脱け出して、湊と合流できる時間ぐらいは稼げる。鈴は孝と目が合うとにっこりと笑った。温度差を感じさせない笑顔だった。


「何もしない、何もできない相手から、反撃される気分はいかかですか?」

「り……ん――き、さまっ……女狐が。許されると……思うなよ」


「女の私に負けて悪あがきですか? 男として情けないですね」

「殺してやる……大切な物を……全て奪ってやる。湊と都とともに……地獄堕ちて……人生を苦しめばいい」


「残念ですが、女狐に誘惑されたのは、教授。あなたです。私は私の道を行くだけです。教授の脅しには屈しません。教授が追い掛けて来るというのなら、私は逃げません。隠れはしません。正々堂々と戦いましょう」


 ――さようなら。

  ――私の生まれ故郷。

 

  ――そして、十河孝。


  鈴は迷わずに研究所を出た。


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