序章「別れ」第一節
時間は真夜中の二時。十河奈美は真っ黒なリビングでパソコンのキーボードを叩いていた。
ある部屋の一室に電気が点いている。消してしまったら、ある研究所から疑われる。赤いランプを点滅させている。
撮影されていると知っている。恐ろしいほどの静けさが不気味だった。忍び寄る不気味さは、すぐそこまできている。背中にじっとりと冷や汗をかいてた。
何事もない日常を演じないといけない。カメラの向こうの相手には、いつも通りの通常を見せなければいけない。
通常と日常では、息子の都は奈美の隣で寝ている。湊は基本都に奈美の隣を譲って別室で眠っている。
その細やかな気遣いが嬉しかった。
ーー私にできるの?
ごくり、息を飲む。
途中で弱気になりそうだった。
ーーこんなに無力なのに?
ーーいいえ。
ーーやるしかないのよ。
奈美はほっぺたをペチンと叩いた。気合を入れる。プログラム解析は半分に到達していた。
ーーあともう少し。
ーー見つからないうちに、早く!
キーボードの打つ手は、焦りで震えている。
ーーしっかりしろ!
ーー私以外誰が子どもを守るのよ!
奈美は自分に喝を入れ続けた。鼓舞をしていた。そうしないと、緊張の糸が切れてしまいそうだった。
最後に孝と奈美の入籍記念日を入れた。最後のパスワードである。
だからこそ、奈美にも解除ができた。
『出入り口のセキュリティを解除しました』
『監視カメラの設定を変更しました』
その文字を見た時、全身の力が抜けた。
ーー無力なんかではなかった!
力が入らない。
奈美は机の上で突伏した。
手は震えている。
心臓の音が煩い。
ーー落ち着け。
奈美は自分に言いきかせた。
震えてばかりではいられない。
強張っている体をほぐすために、大きく伸びをした。逃げる時の都の服を準備したりしなければならなかった。都のタンスの引出しを開ける。タンスの中にある服を見た。
靴下と長袖の上着を取り出す。せめて都の好きな色にしようと、グリーンの上着を選ぶ。靴下は寒くないように、と厚手の物を用意した。
湊に比べて都はまだ幼かった。けれど、確かに成長はしている。奈美が思っている以上の成長スピードだった。成長スピードだって、一般の子どもと同じである。
嬉しいと思う反面寂しさもあった。小さな日常や成長の思い出さえも、崩壊しそうになっている。
時計を見る。
時刻は四時半。
逃げる時間が足りない。
ーー何もできない母親でごめん。
ーーこんなお母さんを許してくれる?
奈美は都の頬をなでた。
確かに生きている。
それなのに、寂しいと思ってしまうのはなぜだろうか。
ーーお願い。
ーー私についてきてくれる?
重い腰をあげた。
ーー時間ね。
ーー行かないといかないわ。
都の上着を手に取った。




