第一章 婚約破棄の日
春の薔薇が満開に咲き誇る王宮の庭園。
白いドレスに身を包んだカルメン・デルフィナ・ローゼンバッハは、王太子レオナールと並んで歩きながら、心の中で微笑んでいた。
──今日、正式に婚約発表がある。
国民も祝福してくれるだろう。
母も、亡き父も、喜んでくれているに違いない。
彼女はこの日をずっと待ち望んでいた。
幼い頃からレオナールとは政略婚約を結ばれていたが、二人の間に芽生えたのは本物の愛情だった。
彼が初めて「カルメン」と呼んでくれたあの日、彼女は心の奥底で誓った。
どんなことがあっても殿下を支え、王妃として国と民を守る、と。
だがその夢はたったの一言で粉々に砕け散った。
「カルメン……本当に申し訳ない。婚約を破棄させてほしい」
王太子の声は冷たくも優しく、まるで他人事のように淡々としている。
カルメンは一瞬耳を疑った。
「……何を仰っているのですか?」
「僕は……マリエラ・クラフト伯爵令嬢と正式に婚約する。彼女は民衆の人気も高く、国にとって最適な選択だ。君も理解してくれるだろう?」
カルメンは庭園の薔薇の香りさえも感じなくなった。
目の前が真っ暗に染まる。
「最適な選択……? では……これまでの約束や私達の時間はなんだったの……?」
「政治とは感情では動かない。君も貴族の娘だろう? 分かっている筈だ」
その言葉にカルメンの心が凍った。
彼女は、レオナールの瞳に一欠片の迷いも見出せなかった。
まるで『愛する婚約者』など、最初から存在しなかったかのように。
「…………分かりました。王太子殿下」
カルメンはドレスの裾を軽く引き、深く礼をした。
その動作は完璧な貴族令嬢のそれだった。
だが、心の中では何かが静かに、しかし確実に崩れ去っていた。