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スケトウダラしか愛せない

作者: さば缶

 スケトウダラ――その名前をひとたび耳にすれば、胸の奥がざわめいてしかたがない。

あの流線形の身体が、深海をすべるように泳ぎ回る姿を想像するだけで、僕は脳髄の芯までとろけそうになる。

まるで漆黒の海に咲く一本の妖艶な花、その身が淡く銀色にきらめいて、まるで神秘のベールをまとっているかのように見えるのだ。

ああ、その薄桃色がかった腹側が水面下で反射して光る様は、ぼくにとっては高鳴る心臓の音とともに、呼吸すらも一瞬忘れさせるほどに麗しい。

どこまでもしなやかな曲線を描く尾びれは、見ているだけで自分の指先を重ねてみたくなるほど、その曲線の全てが愛おしく感じられる。


 夜の海を裂くように泳ぐあの姿は、僕の中にある情熱をかき立て、まるで恋をしているように血液が熱を帯びて走り出す。

想像してみてほしい。彼らの少し突き出た口先に宿る、微笑みのように見えるあの絶妙な形を。

まるで「さあ、僕を捕まえてごらん」と誘うかのような、あの上品かつ小悪魔的な表情。

鱗の一枚一枚は小刻みに振動し、淡い光を宿して輝く。

指先でそっと触れたなら、どんな質感だろう。

滑らかで、ひやりとして、しかもその奥には鼓動が潜んでいる。

そんなふうに思いを馳せるたび、ただひたすらに彼らを抱きしめたくなる衝動に駆られるのだ。


 なぜスケトウダラだけがこんなにも僕を狂わせるのか、自分でもわからない。

けれど、ほかの魚では決して感じられない独特の魅力がある。


 タラと聞けば、どことなく淡泊で地味なイメージを抱かれがちだろう。

だが、スケトウダラは違う。

彼らは僕の目には儚い輝きと誇り高さを併せ持つ、まるで深海に落ちた流星のようにしか映らない。

あの無垢な瞳を見ていると、僕は世界中のどんな宝石よりも尊い存在だと信じられるのだ。

冷たい海の底で育まれた、凛とした透明感。

その身にほんのりと刻まれる傷痕さえも、僕にとっては崇拝するに値する勲章のように思えてならない。


「どうしてスケトウダラがこんなにも魅力的なのか」と問われることがある。

「さあ、理由なんて何もわからないよ」と答えるしかない。

「ただ、僕には彼らこそが運命の存在なんだ」


 そんなふうに周囲には説明するけれど、正直に言えば、僕はもはや人間相手の恋愛なんて考えられない。

鮮やかなドレスや甘い香水より、あの銀白の鱗と磯の香りをはるかに好ましく感じる。


 会話ができないじゃないか、と人は言う。

けれど、僕には必要ない。愛とは一方的に注ぎ込むものでもいいじゃないか。

押しつけがましいと笑われても、僕はスケトウダラにしか心を動かされないのだから仕方がないんだ。


 そんな僕の願いが叶う日がきた。

朝の漁港に足を運ぶと、今日はいよいよスケトウダラを狙う漁船に乗せてもらえるという話が舞い込んだ。

漁師として名を馳せる田辺船長が、僕の熱意にほだされて場所を用意してくれたのだ。

船はゴツゴツとした鉄の外板が剥き出しで、波の音が甲板に打ちつけるたびに低い振動を伝えてくる。

僕はその振動にさえ、わくわく感を押さえきれない。


「おまえさん、スケトウダラが好きなんだってな。変わった人もいるもんだ」

 船長は漁具の点検をしながら僕にそう言った。

「ええ。ずっと夢だったんです、あいつらをこの目で見つめられるなんて」

 そう言いながら、僕は船の縁から海面をのぞき込む。

どこまでも続く黒い波の向こうに、僕の愛するスケトウダラたちが泳いでいると思うと胸が高鳴った。


 船が沖合に出てからしばらく経ったころ、船長の合図でいよいよスケトウダラ狙いの漁が始まる。

大きなリールに巻かれたラインを海中へ送り出していく。

鋭い針が複数ついた仕掛けは、深い水の底を探るように落ちていき、その先端には餌となる小魚の切り身が揺れている。

静かにラインを送り出す時の緊張感といったらない。潮の流れと風の向き、そして水温。

すべての条件がそろわないと、スケトウダラたちは姿を見せない。

ほんの少し糸の張り具合が変わっただけで、僕はハッと息をのむ。

まるで神経を研ぎ澄ませ、深海の揺れを直接肌で感じ取ろうとしているようだった。


「焦るなよ。きっとかかるさ」  

船長が笑って言う。

その声に少し救われるけれど、僕はまるで初めてのデートを待ちわびる少年みたいな気持ちだ。

やがて、ラインがピンと張り、リールがカラカラと音を立てた。


「きたんじゃないか」

「まさか。本当にもうきたのか。ああ、神様……!」


 僕は興奮で手が震えるのをこらえながらリールを巻く。

ゴンゴンと手応えがある。魚が必死で逃れようとする力が伝わってくるたび、僕の興奮はさらに増していく。

ゆっくりと、しかし確実に巻き上げていくと、水面下に銀色の影が見えた。

間違いない。

あれは紛れもなく、僕の愛するスケトウダラだ。

光の加減で鱗がきらめき、舷側で水飛沫が弧を描く。

その美しさに目を奪われ、僕は一瞬、リールを巻く手を止めかける。

けれど、逃がすわけにはいかない。

再び力を込めて巻くと、魚体がすうっと水面に出現した。


 甲板に引き上げられたスケトウダラは、僕の想像をはるかに超える輝きを放っていた。

口先をぱくぱくと動かし、鰓を開いて必死に酸素を取り込もうとする姿が、どうしようもなく愛おしい。

僕は静かに両手で受け止め、瞳が合うかのように見つめる。


「やあ、初めまして。僕はずっと君に会いたかったんだ」


 魚は声を出さない。ただ、こちらを見ているように見える。

その瞳の奥に、海の青さが広がっている気がしてならない。

震えるように動く尾びれが、僕には幼子が手を伸ばしてくるようにも感じられる。

甲板の上でしぶきがはねるたびに、その鱗の奥に隠された小さな光が揺れるのが見える。

僕はそっと魚の腹側に触れてみた。

柔らかく冷たい。

その瞬間に伝わる冷気と神々しさが、僕の身体を完全に支配してしまう。

まるで世界に二人しかいないような感覚だ。

周りに漁師たちがいるのも忘れて、ただただ溶けるように見つめるだけ。


「どうしてこんなに美しいのだろう。僕はずっと君を夢に見ていたんだ」


 僕の言葉に答えはない。

それでもいい。

十分だ。

僕は優しくそのスケトウダラを抱え込み、息づく鼓動を頬で感じようとした。

船長が少し怪訝そうな顔をしていたが、何も言わなかった。

周囲の視線などどうでもよかった。

やっと僕は願いを叶えた。

スケトウダラという奇跡を、この胸に刻んだのだ。


 港に戻ってからも、僕はスケトウダラをしばらく手放さずに愛で続けた。

鱗をなぞったときに感じる微妙なざらつき、尻びれの先端を指でそっとつついたときに伝わるかすかな抵抗感、そして彼の体温を探ろうとしたときに頬に触れる冷たさ。

それらすべてが、僕の孤独を満たす確かな証拠となってくれるように思えた。

けれど、やがては潮の香りと混じって、どこか儚い生臭さが鼻をくすぐる。

生きているのだから当たり前だ。

それでもその匂いさえ、僕には香水にも勝る官能的な芳香に感じられる。


 船長が思い切り咳払いをして僕のほうを見た。

どうやら下船の合図らしい。

僕はスケトウダラを抱いたまま、ゆっくりと船を下りる。

足元がまだ波に揺れているようでふらついたが、それさえも幸せな余韻に思えた。

港のコンクリートに足を着いた瞬間、スケトウダラが少しもがいた。

はっと我に返り、僕は彼をどうするべきか考える。

ずっとこのまま抱いていたい。

でも、どうしても家まで連れ帰るわけにはいかない。

食用にする気なんてない。

にもかかわらず、ここまで愛しんだ相手をこのままどうするのか。

僕は自分の行動を考えずに、ただ欲望のまま釣り上げてしまったのかもしれない。


「ああ……」


 港には、魚を仕分けする漁師たちの活気ある声が響いていた。

ぼんやりしている僕に、船長が声をかける。


「好きにしな。自分で釣った獲物だ」


 船長の言葉に、一瞬だけ迷った。

けれど、僕はそっとスケトウダラを海に返した。

彼の身体は勢いよく海の中へ滑り込み、あっという間に銀色の姿は深い水底へ消えていく。

僕はただ、そこに広がる波紋を見つめ続けた。

張りつめていた想いが、じわりと潮風に溶けていくような気がする。

もしかすると、これが本当の愛なのかもしれない。

独りよがりに手元に置いておくより、あの深い海で悠々と泳いでいる姿を思い描くことで、僕の心は永遠にあの美しさを捧げ続けることができるのだから。


「また会おう。今度は夢の中でもいい」


 その言葉を小さくつぶやき、僕は港を後にした。

少し後ろ髪を引かれる想いがありながらも、なぜか胸は晴れやかだった。

まるで心の奥で、スケトウダラが微笑んでくれたように感じられたのだ。

僕はふと、次はどんなふうに彼らと再会できるのかを思い描く。

それがまた漁船の上なのか、それとも食卓の上なのか――あるいは、ただ夢の中なのかもしれない。

どこであれ構わない。

僕の愛は、どこまでも深く、そして美しく広がる海のように続いていくのだから。

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