Wの秘匿 Sheet2:再訪した男
先日、「ヘンテコなファイル」の愚痴をこぼしていた一見さんが、またスナック『エンター』にやってきた。
独りでカウンター席に腰を下ろす姿は前回と同じだが、その表情にはどこか迷いと期待が入り混じっているようだった。
「あれ、また来てくれたんですね」
カウンター越しにエルが声をかける。彼女は柔らかな笑みを浮かべながらも、内心では少し緊張していた。前回はアキラが相手をしていたので、ちゃんと話すのは今回が初めてだ。
「あのぅ……」
男は少し戸惑いながら言葉を続けた。「お店のホームページを見たんですが、エクセルとかの相談に乗っていただけるとかで……」
その言葉にエルはぱっと表情を明るくした。
自分がホームページに書いた『ITやエクセルの相談受付中』という一文が、まさか本当に客を呼び寄せるとは思っていなかったのだ。
「あ、それ見てくださったんですね!ありがとうございます!」
嬉しそうな声で答えるエルに、男は少し驚いた様子だった。
奥でグラスを拭いていたアキラが顔を上げる。「エル、それって例のやつ?」
「あ、はい!」
エルは照れくさそうに笑った。「お店の宣伝になるかなって思って……載せたやつ!」
「なるほどね。まあ、せっかくだし話聞いてみようか」
アキラは肩をすくめながら男に目を向けた。
「何か飲みます? 相談ついでに一杯どうぞ」
「じゃあ……ハイボールをお願いします」
男はホッとしたような顔で注文した。そしてスマホを取り出しながら言う。「実は先月辞めた部下が残したファイルなんですが……どうにも意味がわからなくて」
その瞬間、エルの目がキラリと輝いた。
「どんなファイルですか? 見せてもらえます?」
アキラに促され、男はスマホの画面をカウンター越しに差し出した。
「えぇっと……これは……」
虚を突かれたようにアキラが言葉を詰まらせる。スマホに映し出されていたのはエクセルファイルだったが、なんとPC画面を写真で撮ったものだった。スクリーンショットですらない。
「あの……実際のファイルは無いんですか?」
堪えきれずにエルが尋ねると、男は少しムッとした様子で返した。
「会社のファイルを勝手に持ち出したらコンプライアンス違反じゃないですか」
もっともな正論ではあるが、その言い方にはどこか違和感があった。
「とりあえず見てみますね。どの辺がおかしいんでしょうか?」
アキラがそう言うと、男はスマホを渡しながら胸ポケットからペンを取り出した。
「そこの行の数値が勝手に入るんですが、所々空白のままなんです。ほら、こことここ」そう言いながらペンでスマホ画面を指し示す。
エルは何となく察しがついた。彼はエクセルについてさほど詳しくない。なぜなら、「行」と「列」を完全に混同しているからだ。
「アキラ、数式バーのところ拡大してくれない?」
エルはスマホを持っているアキラに頼む。数式バーとは、エクセルの中央上部に位置する入力バーで、セルに計算式や文字列などを直接入力できる窓のことだ。幸運なことに、写真には問題のセルが選択された状態で写っており、数式バーに内容が表示されている。
「数式バーってこれだな」
アキラは画面を拡大しながら確認する。そしてそこにはこう書かれていた。
=IFERROR(VLOOKUP(A8, Sheet2!C:D, 2, FALSE), "")
「どういうこと?」
アキラが尋ねると、エルは画面を覗き込みながら説明を始めた。
「えーっと、つまりA列の商品名……たぶん商品名だと思うけど、それに対応する金額が別のシート(Sheet2)に書かれていて、それをここに引っ張ってこいっていう数式ね。もし該当データがなければ空白になる仕組みかな」
エルの説明を聞きながらも、男は無反応だ。その表情からは理解しているのかどうか判別できない。
「じゃあ、そのSheet2を確認してみるか……って、これ写真だったな」
アキラが苦笑しながら画面全体を戻し、左下のシートタブ付近を拡大する。しかし、その瞬間、彼は眉をひそめた。
「……おいエル、Sheet2なんて無いぞ」アキラの問いかけに反応したのはむしろ男の方だった。