Wの秘匿 Sheet1:プロローグ
とある街の小さなスナック『エンター』。
何故かIT絡みの難事件が舞い込むが、馴染み客と結成したチーム『エクセレンター』が華麗に解決。
【登場人物】
アキラ:『エンター』の店主。性別不詳で通している。ショートヘアで丹精な顔立ち、Tシャツにレザージャケットが定番のスタイル。
客はマスターかママか分からないので、「アキラさん」と呼ぶようになる。
エル:『エンター』唯一の従業員。自称異世界から転移してきたエルフ。尖った耳がユニークな北欧系美人。魔法は使えないがPC、特にエクセルに精通している。"エル"はアキラの付けた愛称。
川口:チーム『エクセレンター』発起人。通称"グッさん"。ダジャレとオヤジギャグを好む会社経営者。
育美:『エクセレンター』命名者。サブカル好きな20代OL。マニアックな知識が問題解決の糸口になったりする。アキラとエルのカップリング推し。
薔薇筆:20代後半の技術系会社員。店のサイトにクイズを送り付けて来た。"薔薇筆"はその際のハンドルネーム。理数系が得意な事から『エクセレンター』のメンバーに加わる。現在育美と交際中。
ここは、とある街の小さなスナック『エンター』。
店内にはほんのりとした照明が灯り、カウンター越しに立つエルが常連客の薔薇筆に聞き返した。
「セカイゴフンマエカセツ?」
異世界から転移してきたエルフ族のエル。その尖った外耳は特徴的だが、恐らく客の大半は特殊メイクか何かだと思っている。彼女が語る異世界話も、VTuberよろしく「キャラ付け」程度に受け取られているのだろう。だが、この店ではそれで十分だった。
「そう、『世界五分前仮説』。つまりね、今僕たちがいるこの世界……現実って呼んでもいいけど、それらすべてがたった五分前に作られたものだっていう仮説なんだよ」
薔薇筆は、いつものように穏やかな口調で説明する。彼は『エクセレンター』というチームの一員で、エルとの付き合いも深い。ほぼ異世界の存在を信じている数少ない人間だ。
「え、それってどういうこと?」
隣で聞いていた育美が眉をひそめる。彼女は薔薇筆と交際中で、この店には仕事終わりに二人で来ることが多い。今日は同伴だったらしい。
「今日だって朝起きて会社行って、仕事して、それからここに来て……もう一時間くらい経ってるよ?」
「うん。でもね、その記憶全部が五分前に植え付けられたものだとしたら?」
薔薇筆はグラスを軽く揺らしながら言った。その声はどこか楽しげでありながら、真剣さも含んでいる。
「例えば、君が朝食べたパンの味や、会社で上司に怒られた記憶。それも全部偽物かもしれないんだよ」
育美は困惑した表情を浮かべた。「偽物って……そんなのあり得ないじゃない」
「そう思うよね。でも、それを証明する方法はある?」
「証明……?」
育美が考え込む横で、エルは静かに微笑んでいた。彼女にとって、この手の話題は珍しくない。異世界から来た自分自身が、その事を証明すらできない曖昧な存在なのだから。
「面白いね、その仮説」
エルが口を開いた。「でもさ、それなら私が異世界から来たことも、本当かどうかわからないよね? それも五分前に作られた設定かもしれない」
「そう、そういうこと!」
薔薇筆は嬉しそうに指を鳴らした。「だからこの世界そのものが、本当に『現実』なのかどうかなんて誰にもわからないんだよ」
育美はため息をつきながらグラスを手に取った。「もういいや……私には難しすぎる。でもさペンちゃん、そんなことばっかり考えてると頭おかしくなるよ?それと、私は上司に怒られてなんかいません!」
「それも五分前に決まったことかもしれないけどね」
薔薇筆の軽口に育美は呆れつつも笑みを浮かべる。一方でエルは、カウンター越しに棚の奥へ視線を向けていた。その目には、一瞬だけ何か遠い記憶を追うような色が宿っていた——まるで、自分自身の存在すら疑っているような。
三人のやり取りを聞くともなしに聞きながら、店主のアキラはカウンターの反対側に座る男性と話していた。見るからにサラリーマン風の三十代半ばといったところ。独りで来店する一見さんはこの店では珍しい。
「何かあっちは難しい話してますね」
アキラは空いたグラスを片付けながら軽く声をかけた。
「そうですね……この世界が偽りなら、どんなに気が楽か」
男はお代わりのハイボールに目を落としながら呟いた。その言葉には、どこか疲れた響きがあった。
「仕事で何かあったんですか?」
アキラは深入りするつもりはなく、ただ愚痴を引き出す程度のつもりで尋ねた。
「聞いてくれますか。実は先月辞めた奴の尻ぬぐいですったもんだしてるんですよ。PCオタクか何か知らんけど、ヘンテコなファイル作りやがって」
そうまくし立てると、男はハイボールを一気に半分ほど飲み干した。
アキラは微笑みながら頷いた。「それで困ってるんですね。でも、案外そのファイルが役立つこともあるかもしれませんよ?」
男は眉をひそめた。「どういう意味です?」
「世の中、何が役に立つかわからないものです。例えば……」
アキラは一瞬だけカウンター越しにエルたちへ目を向けた。彼女たちの笑い声が微かに店内に響いている。
「ここには、ちょっと変わった人たちが集まるんです。でもそのおかげで、解決できた問題も少なくないですよ」
男は苦笑しながらグラスを置いた。「そうだといいんですがね……」
その言葉を最後に会話は途切れたが、アキラの視線には、どこか探るような色が宿っていた。
カウンター越しに並ぶグラスの向こう、エルたちの笑い声が微かに耳に届く。だが、その目は一瞬だけ遠くを見つめるように虚空を泳ぎ、やがて静かに伏せられた。
「……ヘンテコなファイル、か」
アキラは小さく呟きながら、カウンターの奥で手を動かし始めた。その手元には、いつもと変わらぬ穏やかな笑み。しかし、その指先はどこか意味ありげに動いている。
男は気づかない。ただグラスの中身を飲み干しながら、ため息をひとつ落とした。
店内には再び静かな時間が流れ始める。だが、その静けさの中で、何かがゆっくりと動き出しているような気配があった——まるで、この場所そのものが何かを秘めているかのように。
世界五分前仮説
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