第2章②
フレイアは廊下を歩きながら、サーリャに向けてつぶやく。
「ねぇサーリャ。わたくしは呪いを掛けられて不幸だと思ってた。一人だけ過去に置き去りにされたような気がして辛いとも。でも、きっと違うんだわ」
サーリャ相手だと、どうしても口調が親しげなものになってしまう。見た目としては完全に親子ほどの差があれども、サーリャはサーリャ、フレイアの親友に違いないのだから。
「さようですね。でも、フレイア様が気に病むことではありませんよ」
人目があるため、サーリャの口調は侍女としての畏まったものになっていた。先ほどは部屋の中で二人きりだったから砕けていたのだろう。
朝食を終えると両親は公務に向かった。フレイアは呪われる前でも手伝い程度の公務しかなかったので、しばらくは自由に過ごせばいいと言われている。だから、二十年の空白を埋めることに使おうと思ったのだ。そのために、フレイアは今、書庫へと向かっている。相変わらず五歩後ろに真顔のアーロンを連れて。
「それにしてもフレイア様、彼は護衛と聞いていますが、ずっと張り付いているのですか」
「そうらしいわ」
「護衛はありがいたいですし大歓迎ですが、もう少しさりげなく護衛は出来ないのでしょうか。じっと見られて居心地が悪いと言いますか」
サーリャがため息交じりにこぼす。フレイアとしても全くの同意見だった。五歩の距離からずっと見られているのだ。いつ刺客が出てきても対応できますと言わんばかりの緊張感を添えて。
「護衛も兼ねているのでしょうが、パトリシオ様の命令で見張っているのかもしれません。パトリシオ様もまだ信用に足る御方か判断しかねていますし」
フレイアはサーリャの耳元に顔を寄せて小声で言う。
「まぁフレイア様。あんな美形が運命の人だとか羨ましいって、城内の皆は大騒ぎですのに」
美形なのは認める。だが、どうにも軽薄さが目に付いてしまうのだとため息を付いたところで、ふとフレイアは顔を上げた。
「もしや時代の流れ? 今の殿方は初対面の令嬢相手でも勝手に手を握ってきたりするものなの? パトリシオ様はためらいなく握ってきたわ」
「いいえ、勝手に触れるのは今も昔も失礼ですよ。相手に伺いをたてて、許可があれば手を取るものです」
「そ、そうよね。わたくしが古風な反応をしているだけなのかと心配になってしまったわ」
「パトリシオ様はどうやら手が早そうですね。婚姻予定とはいえ、婚前交渉はいけませんし。警戒しておいた方がよさそう」
サーリャの口から婚前交渉とか聞こえてきて、背筋が震えた。距離が近くて嫌だなくらいしか思っていなかったから、婚前交渉などという生々しいことまで考えていなかったのだ。
「まぁそんな怯えた顔をしなくても大丈夫ですよ。私がお守りし――――」
「いえ、わたしがお守りします」
「えっ?」
思わず疑問に満ちた声が漏れ出てしまった。何せサーリャの言葉に被せるように、アーロンがしゃべったからだ。基本「はい」しか言わないくせに、急にしゃべるから驚くでは無いか。
「ええと、アーロン。ちゃんと意味を分かって発言しているのですか? その場合、パトリシオ様を成敗するということですよ」
「もちろん。確かにパトリシオ様は上司ですが、今はフレイア様の護衛がわたしの任務です。あなたを守るためなら相手は関係ありません。抹殺します」
まだアーロンの人柄をよく分かっていないが、ますます分からなくなってきた。生真面目だから上司には逆らわないのだろうと思っていたのに、上司を成敗してでも護衛対象を守るとは。いや、生真面目だからこそ、納得と言うべきなのだろうか。どう考えればいいのやら。フレイアは首を傾げるばかりだ。
「何やら俺の名前が聞こえてきましたが。いったいどんな噂話かな?」
ぎくりとフレイアの肩が強ばる。パトリシオが笑顔で通りがかったのだ。もし会話の内容をはっきりと聞かれていたらまずい。フレイアの場合、機嫌を損ねて婚約が破棄されても構わない、というむしろ嬉しいが、アーロンは下手をしたら不敬罪に問われてしまうかもしれない。
「お、おはようございます、パトリシオ様。もう朝食は済みまして?」
無理やりに笑みを浮かべ、アーロンを隠すように前に出た。アーロンをかばうのは癪だが、自分が関わっての発言かと思うと、放置するのも躊躇われたのだ。
「あぁ、もう食べましたよ。それよりアーロンはちゃんとお役に立ってますか?」
「もちろんです。驚くほど真面目に護衛してくださいますわ」
真面目すぎて圧がすごいですがね、という言葉は飲みこんだ。
「そうですか。誰であろうと『抹殺』出来る男ですからね」
パトリシオが、フレイア越しにアーロンを見て言った。
これは……聞かれていたようだ。フレイアも信用出来ないなどと発言していたが、アーロンに至ってはパトリシオであろうと抹殺すると言い切っていた。そりゃ上司としては腹立たしいに違いない。
「はい」
アーロンが口を開いた。しかも、そこで肯定の「はい」を言うのかと、フレイアはぎょっと目を見開いてアーロンを振り返った。アーロンは案の定、無表情で上司であるパトリシオを見つめていた。
フレイアの頭上で睨み合う男が二人。心なしか空気も重たく、胃が痛くなりそうだ。どうしてアーロンは上司相手にここまで強気な態度を取れるのだろう。いや、彼にとっては強気でもなんでもなく、ただ無表情で会話相手を見ているだけかもしれないけれど。
「それよりもフレイア殿。本日のご予定は? よろしければ俺と城下に出かけませんか」
パトリシオが視線をフレイアに戻した。
「申し訳ございません。本日は書庫で、司書長に二十年間のお話を聞くことになっていますの」
「それなら明日に延ばしても構わないでしょう。司書長はいつでもいるのですから。さぁ、行きましょう」
パトリシオは勝手に結論づけると、フレイアの腰に手をあてて強引にエスコートしようとしてきた。手の感触が嫌で思わず身をすくめてしまう。すると、急にパトリシオの手が離れた。
「何のつもりだ」
パトリシオの硬い声に顔を上げる。なんとアーロンがパトリシオの手首を掴んでいるではないか、まるでフレイアを守るかのように。
「アーロン?」
フレイアは無表情のアーロンを見上げた。なんだろう、少しだけアーロンが格好良く見えなくもない。
「貴様、護衛したとでもいいたいのか」
「はい」
アーロンは淡々と返事をした。
「俺が上だと言うことを忘れるなよ。王にどんなことを言い含められているかは知らんが、俺は第十一王子で、お前はただの騎士だ」
「はい」
「ならばこの手を離せ」
パトリシオが眉間にしわを寄せて、不快感をあらわにしている。だがアーロンが手を離す気配はない。それどころか、力を込めているようで、パトリシオの表情が痛そうに歪んだ。
「分かったよ、今日は諦める。だから手を離せ」
「はい」
パトリシオが引くと分かった瞬間、アーロンは素直に手を離す。
「ではフレイア殿、また改めてお誘いしますね」
手首をさすりながらパトリシオは告げると、来た方向へと踵を返していった。
張り詰めていた空気が抜けていくように、フレイアからも大きく息がもれた。アーロンは本気でフレイアの護衛をするつもりらしいことは分かった。つまりアーロンの言葉はすべて本気なのだろう。
「ありがとう、アーロン。ですが、上司相手にやりすぎですよ。もう少しやんわりとは出来ないのですか」
これからも同じようなことが起こったら、こちらの心臓が冷え切った空気で凍ってしまいそうだ。
アーロンの眉間がほんの少しだけ寄った。よく見ていなければ分からないほどの差違だが。
「不服そうですね」
「……はい」
不服だと素直に返事をするアーロンこそ、子どもっぽいではないか。
「そういえば、アーロンはいくつですか? パトリシオ様より上に見えますが」
「二十六です」
フレイアより十歳年上ということだが、呪いで眠っていなければ十歳年下であったということだ。年下の六歳の男の子を想像するも、今のたくましく無表情な顔の印象が強すぎて無理だ。強面のまま背を低くした男の子になってしまい、一人で面白くなって笑ってしまう。
「フレイア様、楽しそうですね。アーロン様が戸惑っておられますよ」
サーリャの冷静な声がけに、フレイアは意識を戻す。
「失礼、なんでもないわ。それよりも司書長と約束した時間になってしまうわ。急ぎましょう」
せっかくフレイアのために時間をとってくれたのだから、遅れたら申し訳ない。その思いで書庫へと歩きながらも、頭の中では先ほどのやりとりが思い浮かんでいた。アーロンとパトリシオの間には、上司と部下以外になにかありそうだ。聞いたら教えてくれるのだろうか。そんなことを考えながら、廊下を進むのだった。