第1章⑤
パトリシオとの顔合わせが一段落すると、フレイアは侍女を連れて客間を出て城の奥へと移動し始めた。五歩ほど後ろからアーロンが無言で付いてくる。話しかけようと歩く速度を揺るめれば、アーロンもゆっくり歩き距離が縮まらない。だから立ち止まって振り返ると、アーロンも五歩手前で立ち止まっている。会話をするには少々遠いと一歩近寄れば、一歩下がられた。仕方なくフレイアが再び歩き出せばアーロンも歩き始める。数歩進んでまた止まってみた。アーロンも当然の如く止まる。
測ったかのように五歩の距離を縮めも伸ばしもしないアーロンに、だんだんイライラしてきた。了承してしまったとは言え、パトリシオのことがまだ信頼出来ていない以上、彼の言いつけで護衛に付いたアーロンだって信頼出来ない。
フレイアはため息を付くと、足を止めた。アーロンも五歩手前で立ち止まっている。
「アーロン。わたくしは確かに護衛を了承しましたが、城内でも四六時中張り付いているつもりですか」
五歩離れた距離にいるので、少し声を張る。廊下にフレイアの苛立ちの混じった声が響いた。
城内では持ち場を決めて騎士達が護衛の任についているため、フレイア個人に護衛が付くのは城外に出るときだけだった。つまり城内にいるときは気心知れた侍女を連れているだけで過ごしていたのだ。それゆえに、ぴりぴりとした威圧感を放つアーロンが後ろに張り付いていると気になって仕方ない。
「はい」
アーロンは無表情で短く返事をした。
気のせいでなければ、今のところ二文字以上の言葉を発していない気がする。長文を話したら喉が潰れる呪いでもかかっているのだろうか。
「城内の護衛は万全です。そこまで警戒して張り付かなくても大丈夫ですよ。今日はもう部屋から出ませんので、騎士団のところへ戻っていただいて構いません」
余計なことをしゃべらないのなら都合がいい。きっと返事は「はい」だろうから、言いたいことを言い切ってしまおうと思った。すると、アーロンは表情は変わらぬままだったが、初めて二文字以上の言葉を発したのだ。
「そのご命令は拒否します」
あ、喉が潰れる呪いはかかってなかったのね、などとどうでもいい感想が頭をよぎった。そして、ゆっくりとアーロンの返答を咀嚼する。
はじめてまともにしゃべったかと思えば、思いっきり拒否されたではないか。しかも真顔で。少しは申し訳なさそうな表情をしてもいいだろうに。というか、しろ。
ふう、とフレイアは息をはく。心の余裕が無くて、些細なことでさえも苛ついてしまっている。何せ目覚めてからの五日で、消化しきれない葛藤がいくつも起きているのだ。
二十年も眠っていて、意識のないまま初めてのキスを奪われ、その相手と婚約しなければならず、あまつさえその相手が軽薄な男で好きになれそうになく、その男の部下に見張られている……、苛立つなと言う方が酷ではないか? いや、興奮していてはいけない、落ち着けと自分に言い聞かせる。
「ですが、あなたはパトリシオ様の部下です。お仕事もおありでしょう?」
「フレイア様の護衛が今のわたしの仕事です。パトリシオ様が仰っていたでしょう。誰があなたを狙っているのか分からない。魔女が相手なら城の中にいても安全とは限りません」
そんな長文をしゃべって大丈夫? 噎せない? と心の端っこで考える。どうでもいいことを考えないと、反射的に苛立ちにまかせた言葉を吐いてしまいそうだった。
理屈は通っているし、だからこそパトリシオが護衛を付けたのだ。分かる。だけれど、正論を言われれば言われるほど腹が立ってくるのは何故だろう。
「フレイア様。あなたは大切な御方だ、万が一があってはならない」
アーロンがあれほど保っていた五歩の距離を、一歩ずつ詰めてきた。そして、目の前に来ると、片膝を付きフレイアを見上げてくる。真顔のまま。
フレイアは見下ろす立ち位置のはずなのに、アーロンの力強い眼力に圧倒された。
「ですが……」
悪あがきのように、反論を口にしようとする。でも、思うように言葉が出てこない。
「あなたは素直に守られていればいい」
とどめのようにアーロンが告げる。
護衛の言葉としては何も間違っていない。それでも、何か釈然としない。
アーロンが立ち上がると、ほんの少しだけ表情を崩した。まるで幼い子をいさめるかのような、仕方ない子だなとでも言うような顔。
先ほどまでは負の感情がわいたとしても、あからさまに表面に出すことは無かった。自分で押さえられていた。でも、アーロンに対しては何故か我慢が出来ない。その理由が分かった。子ども扱いされているからだ。
アーロンにはフレイアの申し出が、ただの子どもの癇癪のように映っているかと思うと羞恥で顔が熱くなる。同時に、自分の中の冷静な部分が確かにむきに言い返して子どもっぽかったなと分析していた。
何なのだ。パトリシオも腹立たしいが、アーロンはアーロンで腹立たしい。
「……分かりました。好きにしてください」
自分がただ安らぎたいという理由だけで、アーロンを遠ざけようとしたのは事実だ。負けを飲みこむのは嫌だったが、引き下がるしかない。
「はい」
「その代わり、わたくしも好きなように動きますからね」
「はい」
また短い返事のみに戻ってしまったようだ。こちらがしゃべらないと話が進まないので、フレイアは思いついたままに伝える。
「パトリシオ様の部下とはいえ特別扱いはしません。我が国の騎士と同じです」
「はい」
「では、わたくしは部屋へ戻ります」
返事が来るだろうと待ってみたが、アーロンは無言のまま五歩分後ずさった。どうやら五歩が彼の護衛スタイルらしい。
どうにも調子が狂わされるなと思いつつ、フレイアは部屋へ向かうべく再び歩き始めるのだった。