第5章④
冷や汗がにじみ出てくる。これは根源的な怯えだ。命の危機に面しているのだと、本能が叫んでいる。
「なにが、起こるの?」
今のところ、部屋の中に目に見える異変はない。だが、魔力は息苦しいほど満ちている。その魔力が渦を巻き始めた。魔力を持たない両親達は感じていないだろうが、フレイアは不快感に頭が絞られるように痛い。同じようにアーロンも魔力を感じられるのか、眉間に皺が寄っている。
魔力の渦が小瓶から転がり出た宝石に集まりだした。いや、あれは吸収している!
「お父様達は部屋を出て! サーリャ、早く連れてって」
弾かれたようにサーリャが動き出す。フレイアの方を気にしていたが、フレイアが急かすので、両親を引きずるようにして部屋を出て行ってくれた。これで国の主を危険から遠ざけることは出来た。フレイアに何かあっても、すぐに国が没落することはない。
この部屋は貴賓室、つまり要人が来たときに使うので、王家お抱えの魔法使いによって防御魔法が張り巡らされている。外からの攻撃を主に防ぐためだが、何かあったときに閉じ込めておくという使い方も想定しているのだ。つまり、この部屋の外にいれば少しは安全だということ。でも、この魔力の強さからして、時間稼ぎ程度にしかならないだろう。
宝石が部屋中の魔力を吸い込んだと思った瞬間、激しく光った。まぶしすぎて思わずフレイアは目を瞑ったあと、恐る恐る薄目を開けてみた。すると、そこには黒々とした毛並みをもち、四つ足で頭に鋭利な角を生やした、巨大な魔物が出現していた。背の高いアーロンがさらに見上げる大きさである。
「毒ではなかったのね」
あの小瓶は魔物が封じられていたのだ。しかもパトリシオは自分も含めて『終わりだ』と言った。恐らくあの魔物に自我はなく、見境もなく暴れ、破壊の限りを尽くすのだろう。
魔物が咆哮する。そのけたたましい音量に空気が振動し、びりびりと肌に突き刺さるようだ。魔物の真横にあった棚が蹴倒され、上から踏みつけられ破壊された。棚に視線が向いている内に魔物が動く。巨体に似合わぬ素早い動き、見た目は犬のようなのに動きは猿のように飛び跳ねる感じだ。魔物がテーブルを越えるように跳躍し、一気にフレイアの目の前に飛び降りた。その見た目の恐怖、物理的な威圧感に加えて膨大な魔力量も合わさり、足が震えて動けない。
「フレイア様、お気を確かに!」
アーロンに腕を引っ張られ、背中にかくまわれた。恐怖で凍ってしまっていた体がやっと動き出す。止まっていたら死ぬだけだ。生き延びるために考えろ。
「あなた、魔力はどのくらいあるの?」
「中の下です。魔法使いになるには足りないので、騎士になりました」
あの魔物を可能なら退治、それが出来なくとも、王家お抱えの魔法使い達が集合するまではここで足止めしなければならない。だが、なかなかに状況は悪い。フレイアは魔力こそ膨大でも、外に向かって放つことが出来ないのだから。
アーロンが魔物と距離を取りながらも、飛びかかってくると剣で弾き、なんとか凌いでいるのが精一杯だ。フレイアという護衛対象が居ては、攻撃などする余裕もない。
「アーロン!」
急所を寸でのところで防いだものの、アーロンは完全にはよけきれずに吹き飛ばされて壁に背中を打ち付けた。痛そうな音とうめき声がフレイアの耳に届く。
どうしたらいいのだ。フレイアには魔力はあれども、攻撃も防御も治癒も何も出来ないのだ。自分の中には魔力を糧に肥大する呪いの欠片があるだけ。何て無力なのだと拳を握りしめる。
いや、もしかして……と思考を切り替える。
目を瞑り、自分の中にいる呪いの欠片に語りかける。呪いの欠片が答えてくれなかったら、本当にもう終わりだ。でも、それは呪いの欠片だって終わりを意味する。
だから、呪いの欠片よ、答えて!
『必死だな』
答えてくれた。呪いの欠片が力を増してきている今なら、対話できるかもと思ったから挑戦したわけだが、本当に成功するとは思わなかった。
『私に何をさせたいんだ?』
「あなたは眠りにつかせる呪い、ですよね」
『そうだ。快適に眠らせることしか出来ない』
『わたくしの魔力をありったけ使えば、あの魔物を眠らせませんか?」
『それをやって、私になんの得がある』
呪いの欠片はそう言って笑う。だけれど、フレイアの呼びかけに答えた時点で、交渉の余地はあるということだ。
「まず、あなたの存在が消えません。魔物にわたくしが殺されてしまえば、あなたも消えますから」
『だが、あんたがキスをしてしまえば、そもそも消え去る存在だ』
さぁ次の交渉カードは何だとばかりの返事だ。
「あなたは呪いを解く人物に対して、親しい感情をもっていますね。その人物の恋を応援したいと、言っていました」
『確かに言ったね』
「その人物とわたくしの恋の行方を、見届けたいと思いませんか?」
これは想像でしかない。ただ、呪いの欠片の言葉を繋いでフレイアが勝手に描いただけだ。だけれど、呪いの欠片、いや呪いを掛けた魔女は、恋を応援したくて解呪方法をキスにしたのだ。それはつまり、アーロンとフレイアの恋を応援したいということ。
二十年前にアーロンとフレイアの接点がどこにあったのかは分からない。けれど、きっと間違っていないはずだ。
『あははっ、参ったね。あんたの言うとおり、あいつの行く末をもうちょっと見たいと思ってる』
「では!」
『いいだろう。私の呪いを魔物に向けて放とう。ただ、あんたの体から外に放つために魔力をかなり消費する。数ヶ月は魔力不足で身動きできなくなるからね。あと呪いの欠片があんたの中から出ていくわけじゃない。あくまで外に放つ補助をするだけだから、魔力不足の間に、どうなるかは私にも分からない。呪いの増殖があんたの治癒より早ければ、呪いの効果で眠り続けるだろうよ』
今まで体の中にあるのが当然だった魔力が一気になくなるのだ、いろいろな反動があるのは覚悟しなければならないということか。
「構いません。今を生き延びることこそが大切です」
フレイアは目を開けた。
明るさに一瞬くらりとしたが、目の前の魔物を見た途端に頭の中がはっきりとする。
「フレイア様!」
アーロンが魔物の攻撃を剣で受け止めつつ、名前を呼んできた。その必死な声音に、胸が締め付けられる。
彼とどんな関わりが過去にあったのか分からない。だけれど、目覚めてからの交流で、フレイアは彼の堅物だけれど誠実な人柄にいつも助けられてきたように思う。
「アーロン、わたくしが今から魔物の動きを止めます」
どういうことだとアーロンが目を見開く。だが、アーロンは余計なことは何も言わなかった。
「はい」
アーロンはただ頷いてくれた。
フレイアを信じてくれていることが、その短い返事に込められている、そう思った。だから、その気持ちが嬉しくて、絶対に成功させると誓った。
フレイアは内なる呪いの欠片の声に耳を澄ました。導かれるように手のひらに力が集まってくる。両手を皿のようにし、少しでも多く集まるようにした。
今まで魔力を形作ることなど出来なかったのに、フレイアの手のひらの上には卵くらいの塊が浮かんだ。それが、みるみるうちに膨らみ、両手で抱えるほどの大きさになる。
フレイアは深呼吸をした。こうしている間にも、アーロンが孤軍奮闘している。
アーロンが剣で魔物の脚を切りつけると、バランスを崩して魔物が転がった。転がった魔物が顔を上げた方向に、呆然と座り込むパトリシオがいる。パトリシオと魔物の目が合ったと思ったら、魔物が咆哮した。音がびりびりと空気を振るわせ、パトリシオの恐怖を煽る。
「うわぁ、く、来るな!」
パトリシオが取り乱し、両手をめちゃくちゃに振り回す。それが魔物の気を引いてしまったのか、魔物がパトリシオの方へと向かい始めてしまった。
フレイアは慌てて回り込み、魔物と対峙する。見上げるほど大きな魔物、口からはよだれをたらし、鋭い牙が突き出している。荒い息は恐怖を誘い、丸太のような脚は吹っ飛ばされたらひとたまりもないだろう。
だけれど、これを野放しにするわけにはいかない。
「ここはあなたのいるべき場所ではないわ!」
フレイアは呪いの欠片と一緒に作り上げた魔力の塊を、力一杯に魔物へと投げつけた。
魔力の塊は魔物に当たった瞬間に弾け、魔物の体を包み込んだ。魔物は抵抗するかのように四肢をばたつかせたが、次第にゆっくりになり、動かなくなった。
「フレイア殿、なぜ?」
後ろからパトリシオの震えた声が聞こえる。
「あなたのことは許せません。ですが、死んでもらっては困ります。少なくとも知っていることはすべて白状してもらわないと」
「はは、厳しいな」
パトリシオの力の抜けたような声を聞きながら、フレイアは顔を上げた。
「アーロン、今です。とどめを!」
「はい」
アーロンがフレイアの横に来る。頬は擦りむいているし、袖は破けて腕から血が滲んでいて、ズボンも埃だらけ、いつもは縛られている髪も解けている。彼の姿はもう満身創痍だった。だけど、瞳は諦めてなどいない。
アーロンの剣先が、魔物の首元に定まる。そして、一気に貫いた。
パキンと何かが割れるような音のあと、魔物の体が光りながら消えていった。残ったのは二つに割れた赤い宝石だけだ。あれが魔物を暴れさせていた源なのだろう。
良かった。魔物を食い止めることが出来た。みんな生き残ることが出来たのだ。もう……安心、だ。
フレイアの体は、糸が切れた操り人形のように倒れていく。




