第4章⑤
バルコニーから見上げる星空は吸い込まれそうだった。自分などちっぽけな存在だと突きつけられるよう。だからこそ、勇気がもらえる気がした。
「もう、明日ですね」
彼が感慨深げに口を開く。
「ノエ様。わたくしの誕生日を祝う舞踏会のために、ご尽力いただきありがとうございます」
フレイアは部屋へノエを招き入れていた。フレイアは、帰る前に部屋に来て欲しいとノエに声をかけていたのだ。そして、サーリャにもさがってもらい、二人きりになった。
「それで、誰にも聞かれたくない話とは?」
部屋では廊下にいる者に聞こえてしまうかもしれない、だからバルコニーへ行こうとフレイアが誘ったのだ。
「実は、婚約を発表することが少し憂鬱で」
フレイアはため息をつく。
「それは……」
ノエはどう答えたものかといった様子で、考え込んでいる。
「まだ間に合うかもと思ってしまう、弱い己がいるのです」
「パトリシオ様との婚約を止めると言うことですか?」
ノエがごくりと息をのんだ。
さぁどう反応してくるだろうか。フレイアは慎重に言葉を重ねる。
「えぇ、愚かなことですよね」
「フレイア様が本気で止めたいと言うのなら、僕はあなたの味方になります」
ノエの暗躍を何も知らなければ、きっと感動していただろうと思う。もしかしたら、ノエの言葉にすがっていたかもしれない。
「まぁ、ありがとう。でも、申し訳ないわ。それにね、本当に止めようと思ってるわけじゃないの。ただ、聞いて欲しかったのです」
「でも、止めたいというのが、本音なのでしょう? ならば、今からでも遅くはない。あんな浮気するような男より、僕の方が、絶対にあなたを幸せに出来る」
「慰めてくださるんですね」
「慰めじゃない、本気です。僕はあなたのことを心から愛しています」
ノエがまっすぐに見つめてくる。星明かりに照らされて、ノエの真剣な表情が浮かび上がった。
パトリシオとの婚約を阻止するために必死になっているのだ。そう分かってはいても、少々どぎまぎとしてしまう。
「本気……だとすれば、余計に聞き入れることは出来ません。これはわたくしの落ち度です。愚痴などこぼすべきではなかった」
「待ってください。今まであなたの意思が固いと思い、尊重してきた。でも、いつだってパトリシオとの婚約は反対だった。今、あなたは僕に本音をこぼしてくれた。それは、あなたからの助けを呼ぶ声だ。僕は、あなたを助けたい。いつだって助けたいと思っていた。だから、僕にあなたを助けさせて欲しい」
ノエって演技が上手いのだなと妙に冷静に思った。本当に口説かれているような気持ちになってくる。
ノエの勢いに飲まれてはいけないと、フレイアは呼吸を一つ挟んだ。
「いえ、助けは不要です。わたくしはパトリシオ様と婚約します。今は問題があるかもしれませんが、いずれは立派な夫になってもらうべく、彼を支えていくつもりです」
決意は固いのだと伝わるように、ノエを真っ直ぐに見つめた。するとノエは言葉に詰まったように口を噤み、眉間や目尻に皺が寄った、まるで泣き出す寸前のように。だが、ふいっと顔を背けてしまったので、その表情はすぐに隠されてしまう。
「どうあっても、パトリシオと婚約するのですか」
「そうです。気持ちは変わりません。どうか見守って――――ん!」
見守って欲しいと言いかけたところで、ノエの大きな手がフレイアの口をふさいだ。首を振って手から逃れようとするも、顎をしっかりと掴まれてふりほどけない。
「フレイア様、僕はあなたを助けたいのだと言った。でも、聞き入れてくれなかった。だから、もう仕方ない。こうするしか、方法がないんだ」
フレイアを見下ろすノエの目は、大きく見開き狂気にぎらついていた。
ついに、本性を出したのだ。
口を押さえられているので、大きな声が出せない。呻くような声が漏れ出るだけだ。
「あなたには死んでもらう。ちょうど良くバルコニーだ。ここから落ちれば下は石畳、ひとたまりもない」
逃れようとノエの腕を両手でつかんだ。だが、その両手をまとめて掴まれてしまう。顔と両手を掴まれた状態で、ぐいぐいと押され、バルコニーの手すりに腰が当たった。このままフレイアを押し落とすつもりだ。
本性を暴くことを目的としていたとはいえ、視界に入るバルコニーの下は夜のため真っ暗闇だ。ノエが言うように障害物となる木なども植わっていない、落ちたら真っ逆さまに石畳だ。確実に死ぬ。だからこそ、この部屋のバルコニーを対峙の場所に選んだのだ。ノエが本当にフレイアを消したいのなら、ここから落とすだろうと。
「あぁ、ふるえていますね。可哀想に」
そう思うのならやめてくれと言いたい。踏ん張ってはいるが、少しでも足を滑らせたら落ちる。その恐怖にじわりと涙がにじんでくる。
必死に首を振り、口を塞ぐノエの手からのがれた。
「やはり、ノエ様が毒を盛らせたのですね」
「いつから気づいていたんです? でもまぁ、死ぬならもう隠す必要もないか。そうですよ、あなたがパトリシオと婚約するのは腹の底から嫌だったので、毒を盛るように手配しました」
とても優美な笑みを浮かべるノエ、だけれど目がまったく笑っていない。そのおぞましさに、言葉が出なかった。
「あなたは気の進まない婚約を嘆いて、バルコニーから身を投げた。僕が止めるのを無視して、ね。きっと国王も王妃も疑うことなく信じるでしょう。僕は彼らにとても信頼されていますから」
確かに、ノエの言うとおりだ。両親だけでなく、城内のものはほぼノエが嘘を言うとは思うまい。それだけ、ノエは完璧な人物を演じていた。
だけど、フレイアを狙ったことでほころびが生じた。フレイアとて、毒を盛られなければノエの野心に気が付かなかっただろう。
フレイアはバルコニーに面した大きなガラス扉を見た。そして、そこにいる人物に向かって頷く。
刹那、彼はノエに素早く近寄った。ノエの背中の服を掴んでフレイアから引き剥がし、横顔に拳を振り抜く。そしてフレイアが落ちないように抱きかかえた。
フレイアが瞬きしている間に、状況が変わっている。その風のような動きに驚愕しながらも、自然と口が開いていた。
「アーロン……よく、やったわ」
手を伸ばし、アーロンの耳を撫でる。本当は頭を撫でてあげたかったけれど、力が抜けてしまい耳くらいまでしか腕が上がらなかったのだ。それでも、ほっとしたようにフレイアの行動を受け入れてくれる。
「はい」
アーロンの返事は相変わらず簡潔だった。
心臓が痛いほど脈を打っている。落下という危機からは脱したというのに。いっこうに静まらないどころか、ますます脈打つ間隔が早くなる。
アーロンへの信頼なくして、この計画は実行できなかった。ノエの凶行を引き出し、またその凶行から助けてもらわなければならない。だから、フレイアがノエをバルコニーに誘いだしたあと、アーロンには部屋に入ってもらい、ガラス扉のすぐ横で待機してもらっていたのだ。アーロンが部屋に入ってくる音や気配は、バルコニーに出ていれば外の風や木々の葉音で消されるという計算である。
アーロンがしくじったら、フレイアは終わりだった。それでも、アーロンが自分を守り切れないわけがないという、謎の自信があったのだ。
にわかに廊下が騒がしくなってきた。
「フレイア、無事か!」
息を切らして飛び込んできたのは父だった。遅れて城内の護衛達も次々となだれ込んでくる。
「はい。お父様こそ全力で走ってきたのですか?」
「当たり前だ。まったく説明もなしにノエとの会話を聞かされて驚くし、そなたは落ちかけるし、肝が冷えたぞ」
ノエが暗躍しているという物的証拠がない以上、言質をとるしかないとこの計画をたてた。だが、フレイア達だけが聞いていても捏造だと言われては仕方ないので、父に上の階でフレイア達の話を聞いてもらっていたのだ。父はサーリャに頼んで連れてきてもらった。おそらくフレイアが落とされそうになって、慌てて走って移動してきたのだろう。未だに息が整わないのか、サーリャが持ってきた椅子にどかりと座り込んでいる。
そして、アーロンに殴られて倒れていたノエは、護衛達に捉えられていた。
「ノエ様、だまし討ちのようなことをして申し訳ありませんでした。ですが、わたくしに毒を盛らせたのですからおあいこですよね」
「何があいこだ……僕は、あなたを心から愛している! あんな浮気男なんかに渡してたまるか!」
ノエが急に暴れて叫び始めた。護衛達が体を押さえ込むも、声は止まらない。
「愛してって……王になりたかったからでは、ないのですか」
ノエの憎しみに満ちた声に、フレイアは唖然としてしまう。さっきもフレイアを口説いていた。でも、それは策略の内だと思っていたのだ。でも、もしかしたら、本当に……、フレイアを愛しているというのか。
「玉座になど興味はない。僕が求めるのはあなただけだ! ずっと眠り続けるあなたを見てきた。話に聞くあなたは僕の理想の女性だった。誰よりも気高く、誰よりも優しく、健気で、人々のために立ち上がれる素晴らしい女性だ! 廟に眠るあなたをこの目で見て、心を打ち抜かれた。想像していた以上に清らかで美しくて儚げで、僕のすべてを捧げようと思った。一目で恋に落ちた。だからこそ、パトリシオのような下賎な輩に汚されるなんて許せない。綺麗なままのフレイアでなくてはならない。誰にも汚させない。汚されるくらいなら清いままで死んでくれ! お願いだ。僕の女神なんだ!」
錯乱状態でノエは叫んでいた。唾を飛ばし、髪を振り乱し、護衛に床に押さえつけられても泣きながら訴えている。
知らなかった。ノエが本気でフレイアを愛していただなんて。恋愛感情をもっているなどとは欠片も感じなかった。面倒見の良い優しい青年の仮面の下に、手に入らなければ殺してしまいたいほどの激情を隠していただなんて。
だけれど、彼のこの愛は、フレイアにとって恐怖しか抱かなかった。一方的すぎる愛は、フレイアを傷付ける凶器としか思えなかったから。
思わず身を守るようにぎゅっと体に力が入る。すると、抱きかかえてくれていたアーロンが息を飲んだのを感じた。
アーロンがフレイアからゆっくりと離れた。フレイアはどうして離れるのだと、不安になってアーロンを見上げる。だがフレイアの視線に気づくことなく、アーロンはノエの方を向いた。
「ノエ様、あなたはフレイア様を愛しているというが、私にはご自分を愛していると言っているようにしか聞こえない。自分の願いのために、他者を害するなどただの我が儘だ」
アーロンのきっぱりとした声、そして何より言い切った内容に、心がふわっと浮き上がった気がした。
嬉しかった。愛していれば、何をしてもいいわけじゃない。それでも、愛故の行動なのだと免罪符のように言われて苦しかった。愛故なのだから、罪は許さずとも、至った経緯は仕方ないねと受け入れるべきなのかと。だけど、そう思いかけた気持ちに真っ向から立ち向かってくれたのだ。仕方ないで飲み込まなくて良いのだ。
あぁ、ほっとしたら何だか急に眠たくなってきた。誰かに名前を呼ばれた気がする。誰、そんなに泣きそうな声を出さなくても大丈夫。少し眠いだけだから。
フレイアは勝手に閉じていく瞼にあらがえず、意識が途切れたのだった。




