第3章①
ここ一週間ほど、フレイアはパトリシオのことを書庫に籠もって考えていた。二十年間の作物の収穫量や、魔鉱石の発掘量などを確認しながらだが。むしろ、嵐で不作の年があったとか、発掘中に事故があったという記載に、その時はどんな対応をとったのかと調べてみたり、今後同じようなことが起こった場合、どう対処すればより良くなるのかなど考え込んでしまったが。肝心のパトリシオとのことを考えるのは後回しになってしまった、というよりも、気が乗らなくてあえて後回しにしていたとも言える。
呪いから目覚めてから、ただ流されるように過ごしてきた。だけれど、そろそろ動き出さなくてはならない。王女としてなすべきことは明確だ。だが、フレイア個人としては、パトリシオに対するもやもやを払拭できないでいた。
「お父様達が冷え切った夫婦だったら、ここまで引っかからなかったんだろうなぁ」
フレイアの両親は政略結婚だが、幼い頃から仲が良かったらしく、結婚するべくして結婚した二人だった。年老いた今でも同じ部屋で眠っているし、お互いに信頼しているし、労り合っているのが良くわかる。そんな両親をずっと見て育っているだけに、フレイアには夫とは仲良くありたいという願望があった。だが、パトリシオと信頼し合った夫婦になっている姿が思い浮かべることが出来ない。
「それでも、パトリシオ様はわたくしの運命の相手なんだものね。冷静に考えてみたら、運命の相手と結婚できるなんて幸せ者よ。うん、そうよ」
うだうだと考え込んでいるのは性に合わない。考え無しに動くのは愚行だが、今考えたところですぐ答えが出るわけでもないことを考え続けるのは無意味だ。ならば、パトリシオのことを知り、好きになれるように頑張れば良い。
フレイアは開いていた帳簿を閉じ、すっきりとした表情で扉を見つめるのだった。
書庫を出ると、アーロンが護衛として立っていた。ちなみにサーリャは不在だ。フレイアが書庫に籠もっている間はサーリャが手持ち無沙汰になっていたため、他の城の仕事を手伝うようにお願いしたのだ。二十年前に比べて城内の使用人の人数も減っており、どこも人手不足なのだ。あまり新たに雇い入れていなかったのだろう。これもフレイアのことを反面教師にし、怪しげなものを引き入れないようにと考えてのことかもしれない。
「アーロン、パトリシオ様は本日はどちらにいらっしゃるのかしら」
アーロンが眉間に皺を寄せて、無言で不可解そうに首を傾げた。
「わたくし、何かおかしなことを聞いたかしら」
「いえ。ですが、なぜパトリシオ様の居場所を?」
今度はちゃんと文章で返事がきた。
「婚約するのですから、ちゃんと交流を持とうと思ったのです」
「……今になって」
アーロンには珍しく、ため息交じりにつぶやいた。だが、静かな城内の廊下なのでフレイアにも十分聞き取れてしまった。
「は、どういう意味ですか」
「いえ。ですが、私はあなたの護衛をしていますので、パトリシオ様の現在の居場所は存じません」
「そうなの? ですが、護衛を命じたパトリシオ様に状況報告を行っているのでしょう。それに、真面目なあなたが上司の動向をまったく知らないなど考えられませんが」
サーリャがアーロンにも気軽に話しかけるので、自然とフレイアもアーロンと話す機会が増えた。もちろん、アーロンの返事は「はい」で完了するものがほとんどだったが。だが、サーリャはアーロンより十歳上なので、そっけない態度も可愛く思えるらしい。その会話の中で、日々パトリシオには報告をしていると言っていたのだ。
「毎日の細かい行動は存じません」
「そう。ならば、とりあえずお部屋へ伺ってみることにするわ」
「えっ、それは、その、お止めになった方が」
初めてアーロンが動揺する言葉を発した。表情はほぼ変わらないが、こころなしか額に汗が滲んでいるような。
「何故ですか」
「……不在かもしれません」
「不在なら別の場所を探せば良いことです」
「お手間になります」
「不在かもしれませんが、居るかもしれないのです。行ってみなくては分からないではありませんか」
あやしい。こうまでして部屋に行かせたくないのは何かある。逆に行かなくては気が済まなくなってきた。
返答に困ってしかめっ面をしているアーロンを横目に、フレイアはさっさと歩き出す。慌ててアーロンが五歩離れて着いてきたのだった。
パトリシオの部屋は、城内でもっとも眺めの良い客室を宛がっている。バルコニーからは庭園が正面に見え、今の季節であれば咲き誇ったバラの香りも風にのって漂ってくるに違いない。バルコニーでお茶をするのも悪くないなと予定を立てつつ、フレイアは扉をノックした。
「あら、返事がないわね」
やはり外出しているのだろうか。それとも単にノックが聞こえなかったのだろうか。もう一度ノックをしてみて返事がなければ別の場所を探そうと、扉に拳を近づけた。すると、部屋の中から、微かな物音が聞こえた。
「音がしたわ。いらっしゃるかも」
「いえ、いるなら返事をするはずです。外出なさってるに違いありません」
「外出しているのなら、余計に物音がするのはおかしいわ。不審者かもしれない。確かめましょう」
「あ、そうくるか。いや、じゃなくて、開けない方が――――開けてしまった」
アーロンが驚くほどぺらぺらとしゃべっていたが、そんなことはどうでもいい。それよりも、パトリシオがいるのかいないのか。いないならば、物音の原因を突き止めなくてはならない。勝手に扉を開けて入るのはマナー違反なのは分かっているが、もし不審者であったらならば一大事だ。そう思っての行動だった。
だが、すぐに何故アーロンの様子がおかしかったのか理由が分かってしまった。
扉を開けて見えた部屋の中に、パトリシオの姿はなかった。部屋の中はもぬけの空だ。だが、バルコニーに出るガラス扉が開いていて、レースのカーテンが風に揺れている。そのレースのカーテン越しに、パトリシオが庭園を眺めている姿が見えた。女性の腰に手を回した状態で。バルコニーで風を受けているせいか、彼らにフレイアが扉を開けた音は聞こえていないようだ。
自分が何を見ているのかすぐには理解できなかった。レースのカーテンで視界がゆらゆらと遮られ、思考も同じようにゆらゆらと遮られる。
女性がパトリシオに顔を寄せた。すると、パトリシオは彼女の頬に手を当て、自然な仕草でキスをする。そう、キスをしたのだ。見間違いであって欲しかった。レースのカーテンでぼやけていて欲しかった。でも、実際は風でカーテンはまくれ上がり、はっきりと見えてしまった。
フレイアはそっと後ずさりをして、扉の外に出る。そして、静かに扉も閉めた。全力で見なかったことにしたかった。




