第2章⑥
パトリシオが現れなければ、ノエとの結婚を皆が望んでいたらしい。その事実は、フレイアに奇妙な感情を芽生えさせていた。
「パトリシオ様ほど、抵抗感がないのよね……」
フレイアは城内の廊下を歩きながら、ぽつりとこぼした。
後ろには五歩離れてアーロンが着いてきている。両親と話をしたくなったのだが、寝る前の時間のためサーリャはもう下がって不在だった。明日にしようかとも思ったが、ふといつも張り付いているアーロンなら、まだ部屋の外に控えているのでは思って扉を開けてみたのだ。案の定アーロンはそこにいた。そのため、フレイアはアーロンを引き連れて両親の部屋を目指している。
二人の足音が、静かな夜の廊下に響く。
「ねぇ、アーロン。聞いても良いかしら」
「はい」
相変わらずの短い返事のみ。でも、生真面目な性格が滲んでいて、彼らしいなと思う。
「パトリシオ様は、わたくしを目覚めさせたとき、どんな様子だった?」
アーロンはあの場に一緒にいた。唯一、フレイアの目覚めたときをパトリシオ以外で知っている人物だ。多くの人達がフレイアのために廟に入って傷だらけになって、それでも目覚めさせることは出来なかった。ならば、パトリシオはどうだったのだろうか。
アーロンの足音が止まった。それにつられるように、フレイアも立ち止まる。
「……問いの意味は?」
無表情が常のアーロンだが、今は心なしか眉間に皺が寄り眉尻が下がっている。まるで困っているようにも見える表情だった。
「意味も何も、そのままよ。廟の中でわたくしに近づくのは大変だったでしょう。だから、パトリシオ様もきっと傷だらけで痛かったと思う。でも、パトリシオ様はそういう苦労したことをおっしゃらないから」
パトリシオの人柄はあまり好みではないけれど、恩着せがましい言動はしてこない。そういう部分は素晴らしいと思う。だからこそ、廟でのことを知りたいなと思ったのだ。
「そういうことなら、ご本人に直接聞いたほうが良いかと」
教える気はないらしい。アーロンは考えるそぶりもなく言い返してきた。
「そう。では別の質問をしても?」
「はい。答えられることは答えます」
珍しく返事に追加の言葉だ。どうやらフレイアの質問に警戒しているらしい。予想外にも動揺を誘いだすことが出来て、フレイアは少し面白くなってきた。
「あなたとパトリシオ様は王子と騎士以外にも、繋がりがあるのでしょう? どんな繋がりですか」
先日の二人のやり取りを見ていれば、何かあるのは分かる。いつもはサーリャもいるが、今は二人きりだ。この機会を生かさない手はない。
「……幼い頃からの知り合いです」
ざっくりとした答えすぎる。でもアーロンにしてはちゃんと言葉にしてくれた方かと、フレイアは思い直す。
「一介の騎士が王子と幼い頃から知り合い。乳兄弟ですか?」
「いえ」
「あぁ、パトリシオ様は第十一王子でしたね。そこまで行動を制限されていなかったから、貴族の子弟とも遊んでいたとか」
「はい」
「では遊び友達だったのですね」
「いえ」
えぇ……じゃあ何なのだ。基本的にアーロンの言葉が足りないから、フレイアが考えて答えを想像して提示しないと話が進まない。だから、いろいろ提示しているというのに、ちっとも正解に辿り着かない。
乳兄弟でもなく、友達でもなく、それでもただの知り合いとは思えない。知り合い程度で、王子に向かってあんな強気な態度を取れるだろうか。
「どんな、知り合いなのですか?」
「……親関連です。それより、夜も遅い。急いだ方がいい」
親関連とはこれまた漠然とした答えだ。だが、これ以上は深掘り出来そうもない。アーロンの言うとおり、これ以上遅くなっては、両親が就寝してしまう。
「そうですね、行きましょう」
フレイアは言いながらも、アーロンの答えについて考えていた。騎士団に所属しているのだから、貴族か、もしくは庶民だとしても裕福な層の出身だろう。裕福でなければ、剣術の稽古などせずに家の手伝いをしたり、奉公へ出されるのが一般的だからだ。
だが、王族のパトリシオと知り合いと言うことは、おそらく貴族の出身なのだろう。庶民だとしたら騎士団に入れても、幼い頃から王族と知り合うことはないからだ。そして貴族ならば、親が王族と関わるのも納得できるし、親の手前、王子と気が進まなくても交流をせざるを得ない可能性は高い。
アーロンも幼い頃から大変な思いをしていたのだろう。生真面目な性格なのに、パトリシオに対する敵意のようなものが隠しきれていないのは、きっと幼い頃より苦労してきたからに違いない。
***
「夜更けに申し訳ありません」
フレイアは頭を下げる。両親は寝る前と言うことで寝衣姿だった。
「構うものか。娘が気を遣うものじゃない」
父は笑みを浮かべて、ソファーを勧めてくる。だが、フレイアは立ったまま両親を見つめた。正確には両親の手元だったが。父は腕組みをしているし、母は寝る前だというのに手袋をしていた。まるで、フレイアから手を隠すかのように。
「お父様、お母様、手を見せて頂けませんか」
「急にどうしたの。しわくちゃな手など見ても楽しくないでしょう。それよりハーブティーでも煎れましょうか。寝付きが良くなるわ」
母がぎこちない笑みを浮かべた。
「いえ、何もいりません。お話がしたいのです。隠し事はもうしないでください」
両親は無言で視線を交わし合っている。
「……仕方ないね。いずれは気づかれてしまうと思っていたことだ」
父はため息をつくと、観念したとばかりに腕組みを解き、フレイアの前に手を差し出した。
「っ、こんな……」
フレイアは思わず出そうになった悲鳴を、口を手で押さえることで閉じ込めた。
父の手は、ミミズ腫れのような膨らみが模様のように広がり、傷を何度も受けたせいか全体的に変色し黒ずんでいる。サーリャは蔦の傷は治りにくいと言っていた。そうだとしても、ここまでの状態になるなんて、よほど無茶をしたに違いない。
「どうしてここまで」
「自分たちの娘を助けたいと思うのは当たり前です」
母の強い口調に、はっと視線を上げる。
母も手袋を取ってくれた。その手は、父よりは黒ずみは薄いが、代わりに痛々しい深いひっかき傷が手の甲に走っている。見るだけで痛い。
「痛そうな顔をするな。もう痛みなどない」
父の手がふわっとフレイアの頭を撫でる。幼い子どもにするように、愛しさがこもった撫で方だった。でも、記憶にあるよりも小さくて細いことに、胸が痛くなった。
「ですが、今は痛くなくとも、傷を負ったときは痛かったはずです」
「いいかい、フレイア。この手はお前を愛する親の我が儘だ。我々では目覚めさせることは出来ないと分かっていながら、それでも奇跡を信じて廟に入ることをやめられなかった」
父の言葉に続くように、母も口を開く。
「本当にそうね。運命の相手であるパトリシオ様は一回ですぐにあなたを目覚めさせてくれたんだもの。感謝してもしきれないわ」
両親のパトリシオに対する信頼が厚い訳が、本当の意味で理解できた気がした。何をしても、身体を傷だらけにしても、目覚めず時間だけが過ぎていく。自分たちはどんどん年老いていき、娘を一人残していかなくてはならない恐怖と戦い、そしてやっと現れた救世主がパトリシオだったのだ。しかも、フレイアを目覚めさせたと言うことは、真に愛を捧げる運命の相手ということになる。
「運命の相手だけあって、フレイアのことを好いてくれているし、この国に馴染もうと協力的だ。彼ならフレイアを安心して任せられるな」
父の意見に寄り添うように母も頷いている。
「そう、ですわね。お父様の言うとおりです」
フレイアは曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
年老いた両親は、ただひたすらに、娘である自分の将来が不安なのだ。これが一年や二年の眠りで目覚めていたら、ここまでの心配などしないだろう。だがフレイアは二十年眠ってしまったのだ。
絶対に言ってはいけないと思った。パトリシオに対して、あまり良い感情を持っていないことを。
パトリシオは身分も年齢もフレイアとつり合いが取れている。容姿も文句はないどころか華やかさがあり、人前に立つのに武器にもなろう。何よりも、自国の王女を救った相手ということで国民からも快く受け入れられるに違いない。たんに他国から婿入りとなると、うまく馴染めなければ反発を招くこともあるからだ。
考えれば考えるほど、パトリシオとの婚約は誰もが納得するものだ。フレイア自身でさえもこれ以上の縁談はないと思う。だから、自分の気持ちさえ整理できたらそれでいいのだ。王女たるもの政略結婚など当たり前。だから、パトリシオと婚約するのも当然だ。疑問など持つな。
フレイアはそう自戒しながら、両親の部屋をあとにしたのだった。




