時間の花 〜モモと私の夏休み〜
初めてミヒャエル・エンデのモモを読んだのは、小学校のときでした。
モモを読了した1年後の夏休みに、暇すぎてラジオをいじっていたら、モモのラジオドラマに偶然出会いました。
ちょうど亀のあとを追いかけて、賢者に会いに行く道中の話だったんです。
すぐにモモの話だと分かりました。
嬉しくなって夢中で聴きました。
本当は最後まで聞いていたかったけど、ばあちゃんが「ご飯だよー」って呼ぶもんで、そのまま続きは聞けず終いだったんです。
翌日、同じ時間にラジオつけてみたんですけどね。もうドラマはやってなかったんです。
ちゃんと最後まで聴いてみたかったな。
そんなことを思い出しました。
あのころはまだ今みたいな猛暑日は少なくて、午前中であれば、庭から吹き込む風が涼しくて気持ち良かったです。
白いレースのカーテンが風に揺れるのを、ぼーっと見てるのが好きでした。
懐かしい思い出です。
たぶんモモという作品は私にとって、夏の象徴かもしれません。
ウン十年も経って、なんだか急にモモに登場する時間どろぼうのことを思い出しました。
モモはどうやって時間どろぼうから時間を取り戻したんだっけ?
そのことが気になったら無性に読みたくなって、文庫版を買っちゃいました。
読んだことあります?
ミヒャエル・エンデの「モモ」というお話。
ちなみに同じ作者の「はてしない物語」の方は、本当に果てしないので挫折しました。
図書館で借りてはみたんですけど、本が大きいし重いし、ランドセルに入らなかったんですよね。
いつか再挑戦したいと思っています。
モモのあらすじはこんな感じ。
・・・・・
町外れの円形劇場の跡地に、ある日突然モモという名前の女の子が迷いこんできます。
モモは不思議な女の子で、モモに話を聞いてもらえると、みんなとても笑顔になるのでした。
しかし、その町へ時間どろぼうたちが現れ、町の人たちの時間を奪っていくのです。
モモと時間どろぼうたちの戦いの行方は――?
モモは時間どろぼうから、みんなの時間を取り返すことができるのか――。
・・・・・
子供の頃に読んだときと、大人になって読んだときとでは、やっぱり受け止め方が変わってました。
おぼろげな記憶をさかのぼると、子供の時の感想は「時間どろぼうに時間を盗まれるような大人にはなりたくないな」だったような気がします。
だけど大人になって読み返してみたら、時間どろぼうはあちこちにたくさんいるし、自分のすぐそばまで来てるんだなって痛感しました。
もう手遅れなのかもしれないと思ってしまうほどに、この世界は時間どろぼうでひしめいているように感じます。
モモの世界は、今ここにある世界のお話。
今まさにここで起きてる本当のお話。
これはファンタジーじゃない。
私のすぐ目の前にある現実のお話。
そのことを突きつけられて、思わず物語の世界観に圧倒されてしまいました。
私の時間も、けっこう盗まれてたなあ。
そう思いました。
でも、時間どろぼうの存在に気づけば、それだけでも対抗策になるんですよね。
本当にその通りだなと思いました。
気づけるか、気づけないかって本当に大きな別れ道だと思います。
物語の捉え方は年齢と共に変わりましたが、子供のときに感じた感動は、あの頃と何も変わらなかったです。
マイスター・ホラが出す不思議ななぞなぞ。
時が奏でる音楽。
美しく儚い時間の花――。
時間の国でモモが体験した出来事は、とても色鮮やかに私の胸に広がりました。
最後まで読み終えて、「さて私の時間の花は、どこにあるのかな?」と、自分と向き合ってみました。
ちゃんと私の中に時間の花があるのなら。
しっかりと私の中で使い切ろう。
最後の1枚の花びらが落ちるまで。
葉巻の煙なんかに使われないように。
保冷庫なんかに閉じ込めたりしないように。
そう思いました。
私はこの本を読んで、モモに時間を取り戻してもらいました。
あなたの時間は、今どこにありますか?
もし見つからないのであれば、ぜひモモへ会いに行ってみてください。
モモを知っている人はみんな、口をそろえてこう言います。
「モモのところへいってごらん」って。
きっと、あなたの時間も見つけてくれるはずですから。