ワーグナーのオペラと原典
バイロイト音楽祭の録音放送がこの時期にあるのをすっかり忘れていて、引っ越しで持ってきたはずの光ケーブルとブランク CD-R が探しても出て来ず、初日の『さまよえるオランダ人』を録り損ねてしまった。まあ聞いたことのない指揮者だし、聞くだけ聞いてやる積もりだったのに、中々男前な指揮ぶりに驚いた。後で聞くと、音楽祭創設以来初の女性指揮者となるオクサーナ・リーニフという可愛らしい方だそうで、惜しいことをした。
ワーグナーが作曲した『さまよえるオランダ人』は、ノルウェイの港に現れる。北の果てに幽霊船とは如何にもな舞台と思いきや、元になった伝説では喜望峰周辺すなわちアフリカ南端の話だという。
オランダ人の話なのに、初出がイギリス人John MacDonaldの"Travels in various part of Europe, Asia and Africa during a series of thirty years and upward"(1790) 、今日知られる物語になったのは Blackwood's Edinburgh Magazine for May 1821 ということで、実は近代イギリスの産物であった。
英語版 Wikipedia に引かれた梗概を訳すと
アムステルダムの港から、70年前に出航した船があった。船長の名は、ファン・デル・デッケン。頑固者の船乗りで、悪魔に向かってすら我が道を押し通す男であった。それでも、部下の水夫たちが文句をつけるようなことも絶えてなかった。…何でまた、そんな連中が乗り合わせたか不思議でならないが。
She was an Amsterdam vessel and sailed from port seventy years ago. Her master’s name was Van der Decken. He was a staunch seaman, and would have his own way in spite of the devil. For all that, never a sailor under him had reason to complain; though how it is on board with them nobody knows.
物語は、次のとおり。乗組員みな喜望峰へ身を屈しつつ、日がなテーブル湾への風待ちをしていた。しかし、吹き付ける向かい風は、ますます強くなるばかり。甲板をそぞろ歩くは、風に向かって散々毒づく船長ファン・デル・デッケン。
日没直後、とある船、問いかけること。その夜、湾に入るつもりではなかったかと。
ファン・デル・デッケン答えたもの、「永劫の罰を喰らおうと入ってやるか、さもなくば裁きの日までも、この辺で波に揺られるかだ。」
確かなことは、彼が湾に入ったことはない、だから彼は未だに海に揺蕩っている、いつまでもそうしていると信じられている。
この船は常に悪天候を纏い、人に見られることはない。
The story is this: that in doubling the Cape they were a long day trying to weather the Table Bay. However, the wind headed them, and went against them more and more, and Van der Decken walked the deck, swearing at the wind.
Just after sunset a vessel spoke him, asking him if he did not mean to go into the bay that night.
Van der Decken replied: ‘May I be eternally damned if I do, though I should beat about here till the day of judgment.'
And to be sure, he never did go into that bay, for it is believed that he continues to beat about in these seas still, and will do so long enough.
This vessel is never seen but with foul weather along with her.
テーブル湾とは、港町ケープタウンを擁する地形で、ここに入れないとケープタウンに着かない。
帆船の時代に書かれた小説(?)だから、今となっては若干の解説は必要だろう。風を受けて走る帆船は、風が強い程に速くなる。故に帆船の航海では、悪天候をこそ望むのである。
常に悪天候を纏ったこの船は、従って極めて快速に走れた筈なのに、呪いのため動けない。逆風であっても、三角帆を使えば斜め上へ滑るように進めるので、これをジグザグに繰り返せば風上へも行けるというのに、目の前に見える港へは入れないまま。
この話は、いわゆる『幽霊船』伝説の発端でもあるものの、設定は一部異なる。マンガ映画にもなった幽霊船なら、バリア張ったりミサイル撃ったり何でもありなのに。このオランダ人が乗る幽霊船は、その場から離れることができない。
後に Flying Dutchman として知られる物語では、呪われた船長が世界の海を永遠に彷徨うのに対し、オランダ人船長ファン・デル・デッケンはケープタウンの入口に張り付いたまま、いつまでも動けず揺れ続けるという訳で、おじゃま虫にも程がある。しかし何故、オランダ人なのだろう。
我々がオランダと呼ぶ国の元になったネーデルラント連邦共和国は、旧教国ハプスブルク家スペイン王国の支配下にあったネーデルラントの北部が、ユトレヒト条約(1579)を結んで対抗し、30年戦争後のヴェストファーレン講和条約(1648)で独立を認められた新教国。
我が国へは1600年、豊後国へリーフデ号が漂着したのが最初、ヤン・ヨーステン(八重洲さん)とウイリアム・アダムス(三浦按針)は徳川家康に召し抱えられた。5隻で出航したオランダ船は、ポルトガルを併合したスペインの攻撃や嵐に遭い、来日できたのは1隻のみだったとか。
しかしスペイン・ポルトガルの凋落に伴ってオランダは勢力を伸ばし、ケープタウンにはオランダ人が入植した。彼等の子孫をボーア人またはブール人といい、後に悪名高い南アフリカ共和国の建設に至るくらいだから、ケープタウン沖の幽霊船がオランダ人のものであることは、なるほど納得である。
ところが1794年、フランス革命軍がネーデルラント連邦共和国に侵攻、1795年にバタヴィア共和国が成立。本国たるネーデルラント連邦共和国が滅亡。これを奇貨としたイギリスがしばしばケープタウンを占領し、1815年には正式にイギリス領になってしまう。
この「オランダ人」説話も、その前後に「神を冒涜するオランダ人が呪われた」とする「イギリスに伝えられた話」であり、悪いのはオランダ人ばかりと言わんばかりの態度は流石イギリス人、ブリカスの評判を恣にするだけのことはある。
更に後代、イギリスはボーア戦争を強行して支配権と共に現地からの反感を確立。ジャック・ヒギンズ『鷲は舞い降りた』で、ボーア人女性がイギリス人へ向ける恨み辛みも、彼等には言わずとも解る歴史的背景があったのだ。
それにしても、この話といい『ハーメルンの斑な笛吹き』といい、メルヒェンの裏側に血みどろの政権交代劇がついて回るのは、キリスト教圏の宿業なのだろうか。