其の十
玉花が月夜楼を出ると聞いた風香は、大いに狼狽えた。それは当然で、齢十二である彼女は初見世前の禿で、玉花の庇護の下にいるのだから。
そして、弟の様に可愛がっていた夏飛とも離れなければならない寂しさも手伝って、心細さは一入だった。
それでも、泣いて玉花の袖を引いた所で、自身の力が及ばないもどかしさに、眠れぬ日々を送った。
その風香に手を差し伸べたのが、芙蓉である。
芙蓉は、玉花からの恩に報いる為に風香の身を引き受けたが、その事を本人には伝えず、飽く迄も楼主の指示だとし、風香が萎縮してしまわない様に気遣った。
風香から見ての芙蓉は、何処の派閥にも属さず、媚びず、玉花とも雪梨とも違う強さを持つ姐姐だ。それ故に、芙蓉が味方に付いて呉れた事は、本当に心強かった。
…………それから約一月半後の初冬、雪梨が太夫となった事を胡暗中に知らせる、御披露目行列が行われた。
先頭は朱塗りの提灯を持った王陸が、次に用人頭が鉦を鳴らして露払いを、次に楼主が、金襴緞子の袍に身を包みまるで後宮の公主の様な、新太夫雪梨の手を引いた。その後に、傘持ちの用人、梅花らの妓女、ふたりの禿に護衛用人等々と大行列だ。
この絢爛豪華な御披露目行列の見物人が沿道に集まり黒山となり、本通りに面してる他の妓楼や店の二階以上の窓にも、一目観ようと鈴生りとなった。
その周囲の熱気に雪梨は高揚しつつ、凛とした姿で練り歩く。
雪梨が敢えて、本日この日に御披露目行列を行ったのは、玉花の年季明けの日だからであった。
晴れて年季を明ける太夫もまた、行列を作って胡暗の本通りを練り歩くのが常である。雪梨はそれを阻害したのだ。
楼主は、地に落ちた玉花よりも、これから輝くであろう雪梨を取り、この行列を実現させた。
それに対し、当然芙蓉と風香は口惜しがったが、当の本人は至って冷静であった。
「大姐は腹が立たぬのですか? 姐太夫を立てぬ雪梨大姐のこの不義理な行為を!」
「何を腹を立てる必要があるの? 良いではないか。それに、雪梨がどれ程のものなのか、眺めてみるのも一興ぞ」
何の蟠りもなく、玉花は笑う。
夏飛は風香の膝の上で抱かれながら、そんな母の顔を眺めていた。
「………あら? 玉花さんではないですか。まだ居らしていたのですね」
行列行進を終え、楼に戻って来た一行の内、梅花が玉花の姿に気付き、厭味っぽく云った。
「雪梨太夫への祝辞と、別れの挨拶をと思い、待っていたのよ」
彼女の態度に玉花は、特に気にする様子もなくそう返す。
「これより祝の宴が始まるのです、少しは弁えたら如何ですか?」
冷やかに元太夫を見、梅花は鼻で遇う。
梅花と同じ様に楼に戻って来た他の者達は、ふたりを一瞥してはそそくさとこの場を離れる。特に、妓女達の中には玉花に目を掛けられていた者もあり、それ故の後ろめたさもあったろう。
最早この楼に元太夫の味方はなし。と知った梅花は、益々気が大きくなり、大胆となった。
「お止しなさい」
そんな彼女の勢いを制したのは、雪梨である。
雪梨はふたりの間に割って入り、玉花と対面すると、
「玉花大姐、此度は無事に年季が明けました事、誠に喜ばしく存じます」
片膝を軽く折って万福礼をし、にこりと笑った。
「有難う。雪梨太夫にそう云って貰えて、嬉しいわ」
玉花も微笑む。
「そうだわ、大姐も、今宵の宴にいらして下さいませぬか?」
雪梨の意外な言葉に玉花も梅花も驚き、周囲もざわ付いた。
「………いいえ。年季を明けた妓女が、何時迄も楼内に居ては未練たらしい。故に、遠慮させて頂くわ」
少し間を置いてから、玉花はやんわりと断る。
「私の姐太夫として、祝って頂きたく思っておりましたのに…… それとも、大姐は私を祝って下さらないのですか?」
雪梨は口を尖らせ、甘える様な口調で云う。
「雪梨太夫がそこ迄云うのだから、祝ってやりなさい」
それまでこの遣り取りを傍観していた楼主が、横から口を挟んだ。
玉花は煩わしそうに顔を顰めたが、それも一瞬の事である。
ならば敢えて、夏の虫になろうではないか。
玉花は笑みを雪梨に向けた。
「では、喜んで呼ばれましょう」