其の八十五
安曇の西通りから外れた路地に、蒼褪めて茫然と立ち尽くす軍人がふたり。
言わずもがな、江謙と岳章だ。
ふたりは、先刻までそこに居た人物を思い出し、ぶるりと躰を震えさせた。
軍人であるが故、当然戦場にも立ったであろう。それでも、そのふたりをここまで戦慄させてしまう程に、彼の者が脅威的な存在だったのだ。
正に、『化け物』。
その『化け物』が放った言葉、「これをちら付かせば、あの女人を下に敷けるぜ」。
そう云われ、受け取ってしまった「これ」は、鴉片…………
「………………」
とんでもない事に巻き込まれてしまった。確かに、一矢を報いたい。とは考えてはいたが、これでは事が大き過ぎる。と、鴉片を握る手を震えさせ、江謙は背筋に冷たいものを感じていた。
安曇の狭斜に在る楼、長春茶房はその実、赤蛇団の塒であった。
その茶房へ毛修が、鼻歌交じりに意気揚々と帰って来た。
「哥さん、随分とご機嫌じゃないか」
出会した若衆が彼のその様子を怪訝に思い、思わずそう声を掛けた。
「おう、余俊か。そりゃあ俺だって、愉快な酒ぐらい呑むさね」
破顔一笑で毛修はそれに応える。
「まぁ、良いけどよ。あんまり呉宗を振り回して呉れなさんなよ」
余俊と呼ばれた若衆は、苦笑すると、そう云ってやった。
「あぁ、ちゃんと可愛がってるさ」
先程とは異なり、毛修は口の端を歪めた笑みを向ける。
「…………そうかい」
余俊は一瞬真顔になるも、直ぐにいつもの飄々とした表情を見せた。
そして、見送った毛修の背中を眺め、余俊は首を傾げた。
毛修の悪名は、赤蛇団の末端にまで轟いている。
また何か、良からぬ事を企ててるのかも知れないな。まったく、懲りない哥さんだねぇ。
翌日。
王陸は昼餉を摂る事も兼ね、月夜楼を出る所である。
「おや」
すると、ゆったりとした、それでいて少し棘の含んだ声が彼を呼び止めた。
視線を向けた先には、雪梨が、物云いたげに顔だけをこちらへ向けて居る。
佇まいから察するに、丁度通り掛かったのであろう。
「太夫。何か御用でしょうか?」
王陸のその問い掛けに、雪梨はふと口の端を歪めた。
「近頃はいやに、よう出掛けておるのう」
「………そう、ですか?」
敢えて少し間を置き、彼は答える。
「まぁ、多くは楼主様の使いであろうが、私用でも多かろうの」
そんな王陸を見据え、雪梨は意味有りげに言葉を連ねる。
投げ掛けられた言葉を受け、王陸はふと柔らかく笑んだ。
「そうですね」
「それで?」
次に雪梨は瞳の奥を光らせながらに、そう尋ねた。
「何でしょう?」
王陸は、柔らかい笑みを崩さず聞き返す。
本当は聞き返さずとも、雪梨の尋ねた言葉の真意を解している。
だが、妓楼に身を置いて五年、自身の心中を簡単に晒さない術を、厭でも修得してしまったからこそのその返しである。
「本日は何方へ、御出掛けなのやら」
ゆるりと微笑みを向け、雪梨は改めて訊いた。
「そうですね、昼時ですので、何処へ参りましょうか」
王陸もやんわりと笑み、そう返す。
表玄関で珍しい組み合わせのふたりが言葉を交わしている為か、通り掛かった妓女や用人達は好奇の視線を向けて行く。
その事には先頃から気付いていた王陸は、頃合いを見計らう様に、ちらりと周囲を見やると、
「これは、皆の邪魔になっておる様ですので、己はこれにて失礼致します」
拱手の礼で以て雪梨にそう告げ、何の未練も持たずに背を向けて、その儘月夜楼を出て行った。
王陸の背を見送った雪梨の顔からは笑みは消え、眉を寄せる。
何とも、相変わらず喰えぬ孩子じゃ…………
月門を潜り抜けてから、王陸はちらりと楼を振り返る。
衝動的とはいえ、矢張り探りを入れて来たか。
次に見上げた空は、黄色く霞んでいた。
春の風物詩。
北西部に広がる戟壁砂漠の砂が、春の強風に因って世界が黄砂に覆われる季節なのだ。
王陸は顔を顰め、首に巻いていた布を鼻まで引き上げた。
心の中にまで黄砂が入り込んだかの様な不快な感じの儘、一歩踏み出し、本通りを行き交う人々の中へと紛れ込んだ。
約一月振りで御座居ます。
継続で読んで下さった方には、大変御迷惑を御掛け致しました。
改めまして、以後宜しくお願い致します。




