其の八十四
『白花』
その名は、耀舜に嫌悪感をもたらした。
皇太子殿下の妙な反応に、子絽と一翔は意外に思った。
「殿下? もしや、知っているのですか?」
故に子絽が、身を乗り出す様にそう訊く。
「あ、否…………」
耀舜は我に返り、言葉を濁した。
その表情は、矢張り険しい。
「………………」
それを見て一翔は、考えを巡らす。
白花姐さんは元太夫だと聞く。もしかしたら、殿下は昔、月夜楼へ通っていたんじゃねぇか? 殿下なら、太夫を買う事も出来ようってもんだしな。
そしてにやりとし、子絽の肩へ肘を乗せると、
「無粋だな、子絽よ」
そう云ってやる。
「は?」
子絽は眉間に皺を寄せ、不可解そうな顔を一翔へ向けるも、直ぐにその言葉の意味を解した様だ。
彼らのやり取りを見、耀舜はふと笑む。
「何、若気の至りだ。まぁ、深く探られるのは、具合が悪いがな」
この、凡そ皇族らしからぬ、皇太子の気さくな人柄に、ふたりは増々惹かれるのであった。
耀舜は陰鬱な思いで小屋に戻る。
「殿下」
そんな耀舜に声を掛ける者があった。
視線を上げて見れば、瑠偉武であり、皇太子の姿に安堵をし、歩み寄って来た。
「何事か、御座居ましたか?」
瑠偉武は耀舜の浮かない顔に気付き、ぴくりと眉を動かして尋ねた。
「…………否。気にする事ではない」
答える言葉を探し、そして耀舜はそう返す。
「………………」
瑠偉武は真意を探る様に皇太子を見るも、軈て「左様で御座居ますか」と、引き下がった。
耀舜はふと笑むと、
「我は休む。瑠偉武ももう下がれ」
常時の口調でそう云った。
「是」
瑠偉武が下がるのを待ってから、耀舜は臥房へ入る。
床に着く気にもなれず、窓辺に木製の椅子を持って行き、それに腰を下ろした。
『白花』という名の、見た事のない女人を考えると、腸が煮えくり返る程だ。
だが、腑に落ちぬ。
白花という者、報告等から推測する人物像は、鴉片に溺れ、鴉片の為ならば他者をも傷付ける事も厭わず、罪さえも平気で犯す女人。なれど、先刻の赤蛇団の者達の口振りでは、その真逆だった。
同名の別人と、そういう事なのか?
耀舜の眉間の皺は、増々深くなるばかりである。
その頃、安曇の西通りから外れた裏通りで、赤蛇団の毛修は、八雲軍第三部隊に属している江謙と岳章と会っていた。
偶然ではない、毛修が故意に張っていて、そして捕えたのだ。
「何奴か?」
咄嗟にふたりは斜に構える。
「身構える事はねぇ。場合に依っては、貴公らの味方にもなるつもりだ」
毛修は不敵に笑う。
それでも当然江謙と岳章は警戒をし、そろりと視線を合わせた。
「何が目的だっ!?」
江謙が語気を強めて再度訊いた。
「貴公らは、林医生の診所に在居する、気の狂れた女人を知っているな?」
不敵な笑みの儘、毛修は云う。
「あ!?」
「はぁ?」
彼の言葉に、ふたりは異常なまでの反応。
その様子を見て毛修は、更に嗤笑を深く顔に刻んだ。
「矢張り、貴公らもそうなのだな」
「それは、どういう意味だ?」
岳章がひとつ息を吐いてから、そう訊いた。
「あの死に損ないの女人を、忌んでいるんだろう?」
「………………」
毛修の言葉にふたりは、険しい顔で口を噤む。
「その顔、肯定だと考えて良いな?」
毛修は追い詰める様に、笑顔で凄んだ。
「…………貴様は、どういう理由で、その女人を叩こうとするのだ?」
暫し考えてから、江謙が訊く。
それに対して毛修は、不快な表情となり、左手で自身の右肩を掴む。
「俺の右腕は、あの女人の所為で失くなったんだよ」
そして、苦々しく言葉を発した。
そんなのは自業自得、身から出た錆なのだが、恰も自分こそが被害者であるかの様な云い草。
故に、江謙と岳章を蒼褪め、震えさせた。




