其の八十二
耀舜皇太子殿下がまだ皇長子殿下であった頃、頻繁に城外へ行かれていると耳にした事がある。
供として春宮太監の春琴を付ける時もあるし、八雲軍総指揮官の瑠偉武を付ける時もあったが、大抵は御独りであったという。
文武両官や太監の誰もが、外に色が居るのだと考え、難色を示していたのだが、立太子の儀を終えて晴れて皇太子となってからは、御独りでの外出もぴたりと止み、一同は胸を撫で下ろした。
しかし、それから三年、殿下は一向に婚姻に興味を示さず、その話しからはのらりくらりと逃げてしまう始末。これはいよいよ外に色が居るに違いなかろう。と皆色めき立った。
否、側室の存在は公認であるし、歴代の皇帝の中には、庶民や異民族出身の側室も居たのだから、今更異論を唱えられぬ。しかし、太子妃不在である内から、側室の存在は考えられない事だ。
それは扠置き、その『側室』という者を青尹も把握しており、それが当然なのだとも思っている。
現に、青尹の父である羅敬梓にも側室が居る。その様な環境で育ったのだから、抵抗感はなかったのだが…………
「…………」
鐘粋宮に青尹は独り、安楽椅子に身を凭せつつ、太子妃の証である翡翠で造られた指環を見詰める。
殿下の御声掛けがなく、床を共にしておらずとも、顔を合わせれば優しい御言葉を掛けて下さり、何よりも太子妃として接して下さる事だけで満足なのだと、そう想っていたのだ。
それなのに、このもやもやとする感情は何なのだろうか?
青尹は、そのものの正体が『嫉妬』だという事に、未だ気付いていない。否、気付かぬ振りをしているのやも知れぬか。
「…………皇太子っつうから、どんな埴猪口かと思ったが、なかなかやるなぁ」
福林省北東端、赤石山脈の主峰である五鬼山の麓の隧道崩壊の復旧作業に合流して三日目、一翔がこれ迄の耀舜の働き振りを目の当たりにしての、その言葉である。
「そういや、先の胡暗の火災で見舞金を提案実行したのも、実は皇太子だってな」
一翔の言葉にふと思い、子絽がそう云った。
「へっ、奴が次期皇帝なら、この国もちったぁ増しになるだろうよ」
からりと笑って一翔は返す。
皇太子を『奴』呼ばわりする不敬極まりない言動ではあるが、それを耳にした周囲の人夫達は叱る所か賛同をし、大いに盛り上がった。
その様子を、瑠偉武が遠くから眺めており、ふと笑んだ。
「ん? どうかしたのか?」
彼が笑みを零したのを見、耀舜は怪訝そうに訊く。
「否、何も」
瑠偉武は頭を振った。
「それにしても、ここに来て半月程、どうにか目処が立ちそうだな」
耀舜は腰に両手を充てて、ほうと息を吐くと、明るい表情でそう云った。
「では、そろそろ皇宮へ戻られますか?」
瑠偉武は皇太子へ向き直り、そう尋ねる。
その言葉に耀舜の表情が翳り、軽く頭を振った。
「否、死亡者が出ておるのだ、その者達の親族の事を慮れば、おいそれとは帰れぬ」
そう云った皇太子の言葉を聞き、瑠偉武は改めて、一翔達の方へ視線を向ける。
全体の三分の一の者達が命を落としているのだ。その上、一命を取り留めたものの、今後の生活を以前通りに過ごせるのか疑わしい者も多い。その事で人夫達の間では軋轢も、少なからず生じていた。
この件は既に中央機関に報告している為、皇帝の耳にも届いていよう。
然りとて、今、現場に居る我に何か、民の心を救い安らかにさせる事はないものか。民と同じこの惨状の中に居るのだから、何か出来る筈だ。
考えながら眺める耀舜の視線の先では、人夫や官吏や軍人に関係なく、汗に塗れ泥に塗れながらに働く姿。
その中には当然、赤蛇団の面々と、八雲軍第三部隊の江建と岳章の姿もあったのだ。




