其の八十一
陽が暮れ始め、安曇の町並みも茜色に染まってゆく。
そんな安曇の西通りから少し奥まった場所に、瓦礫の廃材を寄せ集めて建てられた酒場が在った。
約八坪の店内に、軍人達が日中の労働を終えて憩いを求めて来店していた。その多くは仲間と共に酒を酌み交わし、この場の雰囲気に興じてい、ついつい声も大きくなる。
しかし、その雰囲気に水を差す者達があった。
八雲軍第三部隊に属している、江謙と岳章である。彼らの険悪な負の雰囲気に、店内はしんと静まり返った。
店内の総ての視線を受けても、彼らには周囲を気にする余裕もない程、興奮していた。
彼らに注がれる視線の中には、たまたま店舗に立ち寄った、赤蛇団の毛修と呉宗のも含まれている。
特に毛修は、彼らが発した言葉の中の単語に興味を持ち、流れる動作でふたりが着く卓へ足を向ける。
毛修の形相は鬼の様だ。
「っ!?」
と、腕を引かれ、毛修は振り返った。
呉宗が顔を強張らせながらも、必死に毛修の腕を掴んでいた。
「何やってんだ、放せ」
毛修は殺気に満ちた目で彼を見る。
「哥さんこそ何しようとしてるんですか? ここで問題起こすのは不味いすよ」
びくびくと身を震わせながらも、呉宗は毛修を引き止める。
「………………」
毛修は暫し呉宗を睨め付けるも、軈て彼の手を振り払い、舌打ちをした。
「分かった分かった」
そう云い、そして再度、江謙と岳章へ視線を送る。
呉宗が云う様に、島であるここで妙な行動は不味いな。奴らの顔は覚えた、好機もあろうさ。
紫微城は後宮。
青尹太子妃の侍女、戚雉は鐘粋宮の大窓を閉じた。
「皇太子殿下は、何時頃お戻りになられるのでしょうか……………」
そして溜め息を吐くと、そう口にする。
ころころと鈴を鳴らす様な笑声に、戚雉は振り返る。
鐘粋宮の主人である青尹が、ゆったりと長椅子に腰を降ろし、妹を見る様に微笑みを侍女へ向けていた。
「まるで、愛しい殿方へに送る様な口振りね」
青尹のその言葉を聞き、戚雉は耳を赤めたが、直ぐに気を取り直すと、強い視線を主人へ向ける。
「太子妃様、何を悠長な事を申されているのですか」
口調も強くなり、青尹をきょとんとさせた。
しかし災害の事を想い、はっとする。
「そうね。殿下は被災地へ赴いておられるのだから、今の発言は軽率でしたわね」
悄気返る青尹。
「あ、否、太子妃様を責めての言葉ではないのです」
戚雉はおろおろと青尹の側へ歩み寄り、両膝を着くと、
「只、殿下が赴きになられた被災地の場所が、少し気になりまして……………」
そう続けた。
「五鬼山だったわね。それがどうかして?」
青尹は不思議そうに戚雉を見る。
「ですから、五鬼山へ向かうには、西へ進路を取りますでしょう?」
戚雉は再び強い視線を青尹へ向け、膝の上に置かれた主人の両手を両手で握った。
「え、ええ、そうね。して、それがどうしたというの?」
侍女の圧に辟易ろぎ、青尹の笑みが引き攣る。
「ですから! その途中で鉢合わせてしまったかも知れませぬ」
勢いの儘に戚雉は云った。
「戚雉? 故に、誰と会うというの?」
そう訊いた青尹の言葉に、彼女ははっと我に返り、さっと顔色を変えて、主人の両手から両手を放すと自身の口元を覆う。
青尹はその手を取ると、
「戚雉。其方、以前にも妙な事を申しておったな。もしや、それと関係しておるのではないか?」
笑みの消えた顔を向け、そう問い糺した。
それは震災前の事、青尹の用事で戚雉が城外へ出掛けた日だ。
珍しく思い悩んでいた戚雉が唐突に、「殿下に忘れ得ぬ女人」という言葉を発したのだ。
当時は一笑に付し、今日まで忘れていた青尹ではあったが、こうして再び蒸し返されると、どうにも心がざわりと波立つ。
それに今、当の耀舜皇太子は不在であり、心細さも相俟って余計に不安である。
こんなにも、愛する者の影が城に存在しない事で、こんなにも心が乱れてしまうのだわ。
「…………もう、この話しはお止しなさい」
青尹の顔が、淋しさと愛おしさに歪み、声が震えるのであった。




